07.
石の塔を出てからしばらくの間、イリクはあの少女の夢を見なくなっていた。それまでは三日に一度は必ず見ていたものが、突然ぱったりと無くなったのである。
そして今日、数十日ぶりに夢の中に現れた少女は、深い森ではなくどこかの町の中にいた。一体どこの国の、どこの町なのかは分からない。噎せ返るように舞う砂ぼこりと、冷たい鉄の匂い。手足には頑丈な枷と鎖が付けられており、周りをよく見ると、そこは十人ほどの人間が収容された狭い檻の中だった。
少女が重い鎖を引きずって檻の外を覗くと、大勢の人間が何かに群がり、時折手を挙げたりしながら、競りをしている様子が窺えた。ここは人間が人間を売り買いする無秩序な場所だった。支配人のような男が大声を上げるたび、檻の中の奴隷たちが一人また一人と消えていくのだ。
少女は檻の隅に座り込み、何をするでもなくじっと自分の番が来るのを待っていた。その目はまるで感情のない人形のようで、自らの首に繋がれた鎖をぼんやりと見つめているうちに、段々と意識が薄れていくのが分かった。
奴隷たちの悲痛な叫びや、男たちの煽るような声、鎖の擦れ合う無機質な音、それらが鮮明に耳の奥で反響し、イリクの意識は少しずつ少女と切り離されていく。
そして切り離された意識の中で、イリクは少女に向かって問いかけていた。ここはどこで、一体どこを目指せば会えるのか。少女は膝に蹲ったまま何も言わなかったが、やがてゆっくりと顔を上げ、消え入りそうな声で、何かを呟いていた。
上手く聞き取ることが出来ない。もう一度、とイリクは詰め寄ったが、少女の声はますます小さくなっていく。そして必死に伸ばしたその手が少女の元へと届く前に、イリクは目を覚ました。
「……ん、」
突っ伏していた書卓から顔を上げると、目の前でホロが何かを訴えるようにしてこちらを見上げていた。どうやら目が覚めた原因はこいつにあったようで、赤い三つ目を瞬きながら、その場をじっと動かなかった。
「ホロ……お前寝てたんじゃ、」
言いかけて、イリクははっとして後ろを振り返った。
ただで宿部屋に泊まるのは気が引けると思ったイリクは、サラに言って別の部屋を見繕ってもらっていた。そこは本棚や掃除道具などが置かれ半分物置部屋と化していたが、イリクにはその狭苦しさが逆に落ち着いた。
しかし気になっていたのは、この部屋を一体誰が使っていたかという事である。サラが今は使っていない空き部屋だと言っていたが、よく見ると、置かれている衣服などは全て男物で、端に寄せられた本や小道具などはかなり雑に積み上げられ埃を被っている。女性のサラが寝起きしていたと言うには、あまりに想像がつかない場所であった。
そして今、薄暗い部屋の中に、自分以外の誰かの気配があることにイリクは気が付いた。ホロが自分を起こしたのはその為であったと気が付いたが、すでに遅かった。忍び寄る影にイリクは襟首を掴まれ、そのまま寝床へと押し倒された。
「ぐっ……」
硬い拳で押さえつけられ、身動きが取れない。すると突如顔の前にナイフを突きつけられ、運良く窓辺から差し込んだ月明かりによって、襲撃者の姿が露わになる。その正体はまだ年若い青年だった。
「……誰?」
イリクが尋ねると、その青年はより強い力で首元を押さえつけてきた。
色素の薄い目と眉に、高く尖った鼻先、少し波打った髪を短く切り揃え、体からはきつい葉巻の香りを漂わせていた。
「お前こそ誰だ、俺の部屋で一体何をしている」
「俺の、部屋……?」
イリクはその予想外の言葉に戸惑った。
サラが空き部屋だと言ったここは実はこの男の部屋であり、もしもそうだとするならば、色々と合点がいくこともある。サラは誰かと暮らしているとは言っていなかったが、逆に独り身だとも言ってはいなかった。
「へえ……お前ガキのくせに、全然物怖じとかしないんだな」
イリクが子供であると分かって気が緩んだのか、男は警戒を解くように薄笑いを浮かべた。
その隙をつき、イリクは素早く男の腕を両手で掴んだ。
「あいにくの襲撃続きで、いい加減うんざりしてたところだ」
イリクはそのまま腕を捻るようにして、男の体を横へと投げ飛ばした。大方リファの見よう見真似ではあったが、とりあえず命の危機は回避することができた。こちらの話も聞かず軽々しく刃物を向けてくる野蛮な輩に、イリクは心底嫌気がさし苛ついていた。
男は受け身を取り素早く距離を取ると、体勢を低くし、注意深くこちらの様子を伺っているようだった。
見る限りは体格も腕力もイリクよりは一回り上である。そして随分と戦い慣れしている様子だったが、その大雑把で荒々しい動きは、リファのように精錬された軍人とはまた違った種類のものに思えた。
「お前誰だよ、客か?」
「僕は客じゃない、けど、たぶん君の敵でもない……武器を下ろしてくれれば、ちゃんと説明するよ」
無意味な戦いは当然避けるべきであり、ここで争えばサラには多大な迷惑をかけることになる。
イリクは両手を上げ、とりあえずは敵意が無いことを示した。すると男は少しの間用心深く構えていたが、やがて飽きるようにナイフを後ろへと投げ捨て、鼻で笑った。
「まあいいぜ、どうせお前みたいなチビには負けねーし、話くらい聞いても」
「チビじゃない、イリクだ」
男は埃だらけの椅子に大股で座り、顎をくいと持ち上げ腕を組んでいた。
話し方や態度はやけに偉そうだったが、イリクは不思議とその男に嫌悪感のようなものは抱かなかった。同じ襲撃にしても、石の塔に現れたあの男とはまるで違っていた。
「君は、誰?」
寝床に腰を降ろし、イリクは名前を尋ねた。すると男は椅子の足をぶらつかせしばらくは言い渋っていたが、やがてぶっきらぼうな様子でぽつりと答えた。
「……グレン」




