03.
一階へ降りると、サラはまだ食堂に一人で残っていて、薄暗い部屋の中で首を垂れテーブルについていた。
あれから掃除を再開した様子もなく、おそらくはずっとこうしていたのだろうとイリクは思った。
「あの、サラさん」
思い切って呼び掛けると、サラはゆっくりとこちらを振り返り、少し驚いたように目を見開いた。
「やっぱり、どうしてもひとつだけ話しておきたいことがあって」
食堂の入り口に立ったまま、イリクは記憶にある限りの母のことを、少しずつ語った。
イリクの母シーラが帝国に招かれたのは、独自に行なっていた精霊研究の成果を、帝国議会に高く買われての事であった。その滞在中に当時王政派の筆頭であったイリクの父に見染められ、そのまま側室として迎えられる事となった。
そんな母シーラには、西国より共に中央大陸へと渡って来た無二の友人がいた。一緒に大陸中の町々を渡り歩き、長い間二人で暮らしたこともあった。帝都に腰を据えてからも、ユサの町に移り住んだその友人とは何年も手紙を送りあっているのだと言っていた。
そんな話を子供の頃何度か聞かされていたイリクは、母が白病を患い亡くなったあと、託された手紙を見てすぐに彼女宛のものであると確信した。そしてそれを届けることこそが、亡き母の為に出来る最後の孝行であると思えた。
「母さんは……死んでしまう最期の時まで、あなたの事をとても大切に思っていました、その証拠に、息子の僕に託したものが、この霊剣一本とあなたへの手紙だけなんですから……だから、それを伝えておきたくて」
イリクは鼻の奥がつんと熱くなり、自分の声がいつの間にか、涙声になっていることに気が付いた。
「どうか、読んであげてくれませんか? この手紙を」
じっと黙ったまま話を聞いていたサラが、ここでようやくイリクの方へと向き直り、張り詰めた表情を和らげるように薄く笑った。
「……もう少し、近くへいらっしゃいな」
それは幼い子供に話しかけるような、優しい口調だった。
イリクは戸惑いながらも言われた通り食堂の中へと足を進め、サラに手紙を手渡した。すると今度はすんなりと受け取ってもらえ、サラはその封筒の表に綴られた文字を長いこと、本当に長い間見つめていた。
「ごめんなさい……なんだか突然のことで、まだ頭の中が追いついてなくて」
サラは手紙をそっとテーブルの上に置くと、イリクの方を見上げ微笑んだ。
「本当は、一目見たときから分かっていたの」
「え……?」
「あなたの顔、あの子にそっくりだったから……でも、嘘であって欲しかった、シーラが死んだなんて、悪い夢だったらどんなに良かったか」
サラは先程店の前で話していた時とは別人のように穏やかで、カウンターから水の入ったグラスを持ってくると、それをテーブルに置き隣に座るよう促してくれた。
「自分だけで帝都に行くって決めた時、あの子もそんな風に泣きそうな顔で打ち明けてくれてね……今でも昨日の事みたいに覚えてる」
「……あの、もっと聞かせてもらってもいいですか、昔の母さんの話」
サラは頷き、深く息をつくとゆっくりと話し始めてくれた。母シーラとは東の開拓地へと向かう旅の途中で出会ったこと、そして田舎町で一緒に店を開いたことなど、イリクの知らなかった事を色々と聞かせてくれた。
シーラは旅をしながら精霊の生態について研究をしていて、それ以外の事にはからっきしだったせいか、身の回りの事は殆どサラが引き受けていた。互いに支え合い、いい関係だったのだとサラは言った。
シーラが帝都に移り住んでからも、サラは自分の所に帰ってくるようにと、何年もの間手紙を送り続けていた。ここユサの町でまた一緒に暮らしたいと伝えたが、シーラはそれを頑なに断り続けていた。それはきっと息子である自分を守る為だったのだとイリクが説明すると、サラは長年心につっかえていたものが取れたように、腑に落ち、安心して笑った。
「息子がいるって話は聞いていたんだけどね、まさかそんな事情があったなんて……病気のことも、ちゃんと教えてくれればよかったのに」
そうすればどんな事があっても会いに行ったのだと、サラは悲しそうに言った。
イリクは不思議な気分だった。記憶にある母の面影には、いつも孤独が付き纏っていて、そんな風に友人と親密な関係を築いている母は、まるで想像ができなかった。そしてそれ故に、イリクは少しだけ救われたような気がした。母シーラの人生は、帝国に縛られ続けた十五年間だけではなかった事が、ただただ嬉しかった。
それからサラはさらに長い時間をかけ、シーラの残した手紙を読み始めた。そこに込められた想いのひとつひとつを取り溢さないよう、ゆっくりと丁寧に。
しかしいざ読み終わってみると、意外にも呆気ないものだったと言わんばかりに、サラは苦笑を浮かべそれをイリクにも見せてくれた。
「全く……最後の最後まで要件人間なんだから」
「どういう事ですか?」
「あなたの力になってやってくれ、だって……本当に、どういうつもりなのかしら」
サラは呆れたように笑っていた。
イリクは自分とリファが帝都から脱走しここまでやって来たこと、すでに始まっている王選のこと、そしてこれからエルドラの地へ向かう事を、全て説明した。とてもややこしく信じ難い話であったにも関わらず、サラは終始真剣な様子で、全てを理解してくれたように思えた。
「きっとあの子には、全部分かっていたのね……こうなる事が」
「母さんが……?」
サラは手紙を胸の前で握りしめ、蹲ったまま何も言わなくなった。しばらくして小さく鼻をすする音が聞こえてくると、泣いているのだと分かった。
母を帝都に送り出した時は、半ば喧嘩別れのような形だったと言う。その関係を修復できないまま死に別れてしまったサラの後悔は、イリクには計り知れないものに思えた。
その場にいるとサラが思い切り泣けないような気がして、イリクは頭を下げ、そのまま食堂を後にした。
サラが一人で咽び泣く声は、結局朝方までイリクの部屋に聞こえ続けた。




