05.
いつの間にか、足の震えは嘘のように止まっていた。
心臓が強く脈打ち、身体中を巡る血が一気に熱くなる。イリクは向かってくる怪物と目が合ったその瞬間、何故だかは分からないが、体よりも先に頭の中で、相手を剣で斬り伏せるイメージが鮮烈に浮かんだ。
まるで自分の体ではないような、夢の中にいるような不思議な感覚。
頭の中で無意識に振り下ろした刃はそのまま殺気となって放たれ、イリクがはっとして顔を上げると、怪物は目の前で突如身体を硬直させ、まるで何かに突っ張られたかのように動きを止めていた。
死んだ訳ではない。自分の身に何が起こっているのかを探るように、目だけはきょろきょろと動き回っていたからである。
そしてその奇怪な状況に船乗りたちが息もつかず固まっていると、一瞬の隙をついて、イリクの背後から短い足音と共に剣を持ったリファが現れ、そのまま海獣の下顎を切り裂いた。
「リファっ……!」
「下がってください!」
赤黒い血が甲板に飛び散る。剣は海獣の硬い歯に引っ掛かり、リファはもう片方の手で刃を押さえるようにして、力比べを始めた。
痛みで正気を取り戻した海獣が再びこちらに向かってくると、リファの細腕はみしみしと音を立て軋み始め、イリクは慌てて自分も剣を突き立て怪物を押し返そうとした。
「下がっててくださいと、言ったはずです!」
「い、嫌だ……!」
リファは心底苛ついた様子で舌打ちし、もしも押し切られてもイリクに被害が及ばぬよう、強引に自分の体を前へと割り込ませた。
しかし元々これほど巨大な化け物を、非力な人間二人で止めておく事など不可能だった。骨が震えるような低い唸り声と共に、イリクの体は少しずつ後ろへと押しやられていく。
「ひっひぃぃぃ!」
足元で、すでに逃げる気力すら失ったワズが悲鳴をあげているのが分かった。
そしてもうこれ以上は持たないと思った次の瞬間、船乗り達が突如大声を上げ、銛で海獣の首元を突き刺し、ロープを巻きつけその巨体を引っ張り始めた。
「もっと強く縛れ! 動きを止めるんだ!」
腕にのし掛かる大岩のような力が、みるみるうちに和らいでいく。やがて海獣の体が完全に離れ後ろへ反り返ると、リファは剣を持ち直し素早くその鱗だらけの巨体を駆け上がると、そのまま脳天から上顎までを真っ直ぐに突き刺した。
あまりに一瞬の出来事に、怪物は短く呻き声を上げると間もなく絶命した。重量感のある頭が甲板にずしりと音を立て落下し、甲板には再び静寂が訪れた。
そして船乗り達が弾けたように勝利の声を上げると、あちらこちらで怪我人の救出が始まった。
船の上には壊れた木箱や武器が散らばっており、所々の床板に穴も開いている。衝撃で海に投げ出された者も少なくは無かったが、幸い死者は一人も出なかった。
歓喜し肩を組み合う船員達をよそに、リファは一人海獣から剣を抜き取り、頬についた返り血を拭い振り返った。
「……あの、イリク様」
「ごめん」
イリクは叱咤を浴びる前に、先んじて謝罪をした。逃げろと言われたのに逃げなかった事、その結果リファの負担を増やしてしまった事を、謝りたかった。
そしてイリクはいつもの呆れるような冷たい視線を覚悟したが、流石のリファもこの戦闘では力を使い果たしたのか、剣を杖のように床に突き刺し、その場に膝をついた。
「いえ、あの……私こそすみません、使えそうな武器を見つけるのに手間取ってしまって」
「……え?」
「それより、さっきのは一体、」
言い掛けたところで、興奮した船乗り達が次々と二人の元へ押し寄せ、リファはあっという間に男達に取り囲まれ見えなくなった。
「あんた凄えな何者だよ! おかげで命拾いしたぜ」
「おい! この嬢ちゃんが仕留めたんだとよ!」
「こんな細っこい腕で大したもんだぜ」
イリクは張り詰めていた緊張から解き放たれ、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
やがて手負いの船乗り達が集まり力を合わせ、海獣の死体を海へと引きずり降ろした。もちろん鎮魂の為の祈祷師など乗っているはずもなく、その際リファが目を閉じ、自分が仕留めた獣を静かに弔っているのをイリクは知っていた。
それから船体の修復にはおよそ三日が費やされ、怪我人も多く出た事から、船は最初の船舶地である港町ユサへと足を早めた。
その後の進路についてはまだ話し合いの途中だったが、おそらくはユサで積み荷を下ろした後、船の傷みを鑑みそのまま帝都に引き返す事になりそうだった。
そもそも大型の深層生物に遭遇し帰還した船など、これまでに数えるほどしかいないのだ。帰り着いた船乗り達が詳しい事情聴取を受ければ、いずれは自分たちの足取りも議会に知れてしまうだろうと、イリクは思った。だが、それでも構わなかった。
命を拾った船乗り達は、共に困難を乗り越えた者同士打ち解け合い、波風の落ち着いた夜には身分関係なく酒を酌み交わしていた。
夜な夜な大勢ではしゃいだ事などまるで無かったイリクは、初めて口にする酒の味に酔いしれ、ワズを含む他の船員達とも交流を深めた。最初は高圧的な印象の強かった船乗り達も、打ち解けてみると気さくな連中ばかりに思えた。
「あ……そろそろ交代の時間だ」
泥酔した船乗り達に悪絡みされていたイリクは、程よく火照った体を起こし、船室をそそくさと抜け出した。
甲板に出ると外はすっかり薄暗闇に包まれ、少し湿り気のある潮風が心地よく頬をなぞった。見渡す限りに海は穏やかで、数日前の怪物との戦闘が嘘のようである。
イリクは縄梯子を下ろし一番太い帆柱を登っていくと、頭上にある小さな見張り台を見上げた。
そこにはすでに先客の姿があり、頬杖をつき遠くの水平線を見つめる人影に、イリクは驚かせないよう下からそっと声を掛けた。
「リファ」




