04.
「精霊獣……ですか?」
イリクの広げた手の中を覗き込み、リファは首を捻った。
「うん、多分だけど」
両手の平にすっぽりと収まってしまう、黒くふんわりとした不思議な生き物。三つもある赤い瞳を瞬かせるようにしながら、こちらをじっと見つめていた。
ワズが赤目と呼んでいたものの正体は、精霊だった。それもまだきちんとした形の定まっていない子供の精霊獣で、この状態で人目に触れる事は非常に珍しかった。
「積み荷に紛れ込んだのか、それとも元々この船に住み着いていたのか……僕も実物を見るのは初めてだ」
「随分と、興味がおありのようですね」
イリクは目を輝かせ微笑んだ。
精霊研究に熱を上げるクルシュナ帝国では、それらの知識はいつ誰もが自由に学べるようになっている。塔の地下にもいくつか精霊学に関する書籍が取り揃えられており、イリクはそれを飽くほどに読み返していたのだった。
「私にも、よく見せてください」
そう言うと、リファはすぐ傍にしゃがみ込み、頭がぶつかりそうになる位置まで平然と顔を近づけてきた。その距離感にイリクは何故か緊張し、精霊を包んだ手だけを残し少し体を遠ざけた。
甲板には幸い船乗り達の姿はなく、まだ朝も随分早かった事もあってか、殆どの船員が仮眠をとっている最中だった。
「あ、あのさ……大丈夫だった?」
「何がですか?」
「その、船での生活、とか」
まともな会話をするのは、三日ぶりの事である。
イリクは一応気を遣って尋ねたつもりだったが、リファは少し驚いたように目を見開くと、すぐに立ち上がり、白けたようにそっぽを向いてしまった。
「問題ありません……それより、私はあなたの方が心配です」
「え、なぜ?」
「なぜって、曲がりなりにもこれから一国の王を目指そうという人がですね、朝から晩まで楽しそうに雑用に勤しみ、挙げ句大量の芋に埋もれ情けない姿で倉庫から出てきたら、それは先行きも不安になりますよ」
イリクは思わず口を噤んだ。見られていたとは思ってもいなかった。雑用仕事を楽しんでいた事は、無意識ではあるが事実だった。
しかし下働きとしてこの船に乗ると提案したのはリファであり、イリクはあくまでその指示に従ったに過ぎない。その点では反論の余地はあったような気もしたが、敢えてそれ以上は何も言わない事にした。
「それで、どうするんですその精霊は……私はそのようなものの扱いには長けておりませんよ」
リファに尋ねられ、イリクは未だ手に持ったままだったその黒い塊を、そっと船の縁に置いた。すぐに逃げてしまうかと思ったが、意外にも精霊はイリクの方をじっと見つめたまま、頭を傾けその場を動こうとしなかった。
「そう言えば、あの雑用の方が災いを呼ぶだ何だと騒いでいたのは、一体何だったんでしょうね」
「ああそれは、ただの勘違いだと思うよ」
本来精霊には未来と過去、そして現在を見る三つの目が備わっており、古来より厄災が起こる前に度々姿を現していたことから、いつしか災いの元凶として認識されるようになった。
その事をイリクが手短に説明すると、リファは始めは納得するように頷いていたが、次第に表情が強張っていき、やがて核心をつくように言った。
「それって結局、勘違いじゃないですよね……?」
「え……?」
二人は顔を見合わせ、しばしの沈黙が流れた。
そして次の瞬間、凄まじい轟音が鳴り響き、まるで船底から巨大な拳に叩かれたような衝撃が船を襲った。
「な、何だ……!?」
イリクはそのあまりの衝撃に体が跳ね上がったが、咄嗟にリファが腕を掴んでくれたおかげで、樽や木箱と共に海へ投げ出されずに済んだ。
吹き上げた海水が甲板に降り注ぎ、船は大きく左右に揺れ動いた。
「船喰いだぁぁ! 武器を持ってこい!!」
「急げ! もたもたするな!」
船乗り達の叫ぶ声が聞こえてきた。
二人のいた後方甲板からはよく見えなかったが、槍や剣を持った船乗り達が次々と船首側へと向かう中、イリクもそれに続くと、海面から首を伸ばした何かが船首に組み付き、船の床や壁を食い破っていた。
まるで鋭い歯が幾重にも並んだ蛇のような生物で、その体格は地上の動物の比ではなく、小さな帆船など簡単に真っ二つにできそうだった。そして巨大な頭と尾が交互に甲板に叩きつけられ、その度に、碧い鱗があちこちに飛び散った。
「くそ、なんでこんな時期に深層生物と出くわすんだ……!」
「武器が足りないぞ! 頭を押さえろ!」
船乗りたちは必死に戦おうとしていたが、まるで歯が立っていなかった。そもそも有効な武器が少なすぎるのだ。
ワズに聞いた話では、最近の貿易ルートは大陸近海だけを通るものが開拓され、ここ数年は深層生物の出現による被害は激減していたのだという。
しかしそれ故に船乗り達の間には油断と怠慢が生まれ、いざ危機に陥った船の上は、すでに統制を失った小虫の群れと化していた。
イリクが帆柱にしがみつき何とか体勢を保っていると、船の隅に、長い銛を抱えたまま震えるワズの姿が見えた。銛と言っても、先端の錆びついた飾りのようなもので、ましてやワズのような非力な人間が持ったところで、何の役にも立たない事は明白だった。
「だから言ったんだ……言わんこっちゃ無い、俺の言った通りになった……!」
ワズは独り言のように何度もそう唱え、その場にへたり込んだ。
「おい! 後ろだ!」
「くるぞ!」
蹴散らされ這いつくばった船乗りの何人かが、そう叫んだ。
海獣の頭にばかり気を取られていたワズの背後に、水面から再び巨大な尾が伸びてきて、そのまま船に向かって勢い良く振り下ろされた。
——間一髪。咄嗟に飛び込んだイリクがワズの体を引っ張り、そのまま海水で濡れた甲板を滑り船縁へと激突した。ワズの立っていた場所は振り下ろされた尾によって粉々になり、衝撃によって船はまた大きく揺れた。
「おいイリク……大丈夫か、しっかりしろ!」
ワズに肩を揺さぶられ、イリクは目を開けた。どうやら頭を強く打ち少しの間意識が飛んでいたようで、確かめるように額をなぞると、生温かい血が指を伝った。
「また来るぞ、早く逃げよう!」
顔を上げると、今度は海獣の頭がこちらを見降ろしており、緑色の目を光らせ鋭い牙の並んだ大口を開けると、一直線に突っ込んできた。
しかしどうにもイリクは体を上手く動かす事が出来ず、その場に立ち上がるのが精一杯だった。ワズは泣きそうな声を上げ必死になって腕を引いてくれていたが、それでも足は床にへばりついたまま、動かないのだ。
そんな時にふと頭をよぎったのは、塔を襲撃したあの男の言葉である。自らの手で戦おうとしないのかと、再び問われたような気がした。
やがてワズが諦めたようにその場に蹲ると、イリクは足元に落ちていた古い曲剣を拾い上げ、体の前で構えた。
人間以外の生き物と対峙した事など一度も無かったが、ここで戦わなければ、自分もワズも死んでしまう。海獣の頭は、もうすぐそこまで迫ってきているのだ。
イリクは剣を強く握りしめた。




