源太最大の危機に瀕する
キシリ……天井から音がする。ミシミシ……。家鳴りの音。外は雨が強くなってきたのか、雨垂れの音が重く激しくなっている。
カタ、タタタ、タタタ………天井裏から走り回る音が。タタタ……、タタ、タタタ……。
ヒッ!源太は薄い夏掛け布団の中に潜る。寝る前に便所に行こうとしたのだが、その気になれなかった少年は、朝までは大丈夫だろうと、たかを括ったのだが……。
……、ネ!ネズミや。こ、怖ないもん。う……、あかん小便しとうなってきた。どないしよ、いや!気のせいや!気のせい……小便しとない、しとない、しとない……。
ムズムズ……、下腹のお知らせにより、目が覚めた彼。真っ暗闇の中で、必死に自分に言い聞かせる小学五年生。
……、便所、便所……、くそ!遠いやん!なんで奥にも作ってないねん!どうしよ、どうしよ、どうしよ……。えと、えと……そや!アカン押入れに隠したんやった!
寝間に使っている母屋の縁側の突き当り、増築された小部屋。以前は兄と二人で使っていたのだが、今は源太一人でそこで寝ている。便所に行くのには、部屋を出て縁側を歩き、前座敷から土間に下りて、引き戸を開けて、納屋とのふたたいにある便所にたどり着く。
絶体絶命の危機に瀕している源太、下腹がもぞもぞし始めた!そして、拾った棒っきれの中でもとっときの逸品を、押入れに隠した事を深く悔いている。
……、くそ!お母ちゃんが棒っきれを家の中に持って入ったらアカン!ちゅうから……、押入れに隠したんやった。行きたないなぁ……、アレさえあれば大丈夫やのに……、小便、行かなあかん、アカンか?いや!寝ちまえば大丈夫やないか?そや!寝よ………、そや、さっきもそやったやん。
まんじゅうの様に丸くなり、じっと耐える源太、じんじんビリビリとしてくる下腹部。額に汗がじんわりと滲み出る。このままだととんでもない事になってしまうと、頭の中で最悪の未来ばかりを考える。
……もひ……このままやっちまったら、布団を干される。明日は学校や……、干された布団を見られでもしたら……!カヨに見られたら大変や!
うっすらと覚えている、最後のおねしょ事件を思い出す。
……そや!俺がピカピカのイッチ年生の時に、兄ちゃんが便所に『カイナデ』ってケツ触るオバケがおるねんで、とか!ガッコの便所の二番目には『赤い紙、青い紙どっちがええ?』って聞くオバケがなとか、いらんこと言うさかい俺……やっちまったんや。
盛大に布団に地図を描いてしまった源太。もちろんちゃんと便所に行かんさかいにと、ゴツンと落とされた後に、日当たりの良い庭先にババーン!と干されてしまった濡れた布団。それを見ながらニヤニヤと、せらう諸悪の根源の兄。
「誰かに見られたらどうするんや」
「にっちよーやもん!つーがくろ、通らへんわ!」
日に一度、祖母に、日参に行こうやと来る、ご近所おばあちゃん組に見られても、どうってことはない。通学路の本道から見られても、近くまで来なければ、普通に布団が干してあるとしか見えない。
それに日曜日だし、休みの日は子供といえど、それなりに家の手伝いに忙しい皆は、遊びに来ることは無い。そや!誰も見られる心配あらへんと、思っていた源太天。だが天の神様仏様は……、彼に試練を与えた。
……、クソぉお。なんでカヨが卵買いにくんねん!アホ!クソぉお!兄ちゃんのアホぉ!アホぉ!アホぉ!うぐぐぬ……あかん!しょうもないこと思い出したら、余計に行きどうなってきたやん!ううう……、便所……なんか出たらどないすんねん!
男の総大将として、寝しょんべんなどしてはならぬ事。
しかしまだ小学五年生の彼にとって、思い出した過去の話や、今宵聞いた怪談話は、現実にある様な気がしてならない。
……、おらへん、おらへん、怖いのおらへん。小便しとないしとないしとない、朝まで平気や、平気や、もうふぐ眠とうなんねん!なんねん!なんねぇぇぇん!!
自己暗示をかける源太。しかしそうは問屋は下ろさない。目はランランとし、頭の仲は便所で一杯。手はしっかりとそこを抑えている始末。
「あかん!チビリそうになってしもた!」
布団を跳ね上げ飛び起きた!ここで気を抜けば、明日からの未来は無い。高台にある源太の家、その庭先に干される洗濯物及び布団類は、道から丸見えなのだ。
……、アカン、アカン、アカン!はよ便所に行かなアカン!
怖さよりも本脳が勝った!ガラ!ピシャ!硝子障子の建具を思いっきり開け放つ。そして真っ暗な縁側に出ると、ダダダダダッと!駆け出す。
……、便所、便所、便所、便所……!
ダダダダダダダ!走る音。仏間の前を通り過ぎ、ガララ!スパーン!!前座敷の戸を勢い良く開ける。襖戸一枚向こう側の茶の間では、朝が早い両親が寝床に使っている事など、忘れ果てている。
トストストス、畳の間を目に力を込め闇を睨みつけながらずんずん大股で歩く。股間に力を込めて、足にも腕にも全身をキリキ身を引き締めて歩く。
畳の間を走ってはいけん!と幼い頃から怒られつづけているからだ。それに、畳は意外と滑りやすい。源太も走り回り、ツルッと滑って仰向けに転んだことは、両手両足の指の数より多い。
……ここで転んだら出る!出る!きっと出る!!出たらアカン!!あ!誰か便所に行っとる!やった!
目の前にボゥ、と浮かび上がる硝子障子。誰かが便所にでも行っているのだろうか、式台の上の電灯がつけられている。橙色に照らされ、闇に浮かび上がる四角い硝子障子戸。
……、便所、便所、便所、便所!
呪文の様に唱えながら、ガラリと開けようとしたとき……、
カチ、コチ、カチ、カチ、コチ……カチ!……ボーン、ボーン。
「ひやぁぁぁぁ!ふお!ぬぬぬぬぬ!」
突然鳴り響く茶の間の柱時計!反射的に内股になる、身をかがめ、大惨事を防ぐべく両の手を使い、その場で固まる!
……と、時計や!時計や!なんでなるんや!ええ?2回にかい、午前2時って、お、おばけの時間やないんか?兄ちゃん前に……、ふぇ!べ、便所……便所ぉぉぉ!
夜中の2時はな……一番出る時間や……から始まった兄の怪談話をあれこれ思いだした源太は、ぎゅっと目を閉じ、その場から動けなくなってしまった!少年の尿意は既に限界点を迎えている。
一世一代の危機に瀕している!このままここで……アカン!それだけは!ガタガタと震えながら、片手を離すと、そろりと戸口に手を伸ばそうとした時、からりと向こう側から開いた。驚き一瞬、ちょろっと出た気がしたのだが……、
「お?そんなとこでくねくね何しとんや?」
頭の上からは脳天気な兄の声。
「便所行くなら待っといちゃろ」
ふおおぉ!ド!式台の上に下りた!誰のものか、わからないつっかけに足をいれ、兄の横を掠めて走る!バタンバタンと便所に向かう源太。カラ!ふたたいの戸を開ける!
……ふぇぇぇ!間に合ったぁぁ。
ホッとして用をすませた。彼の今宵最大の危機は、元凶を作った兄によって、救われたのだった。
ようやく一日が終わるというスローペースになってしまいました。お付き合い頂きありがとうございます。
ふたたい、母屋と納屋、もしくは母屋と離れの少しばかりある空間の事です。我が地方でそう呼んでるのですが、漢字が不明←聞き覚えです。簡単な屋根を設置したりして、続きになっております。
源太の家は元々外トイレだった場所に、納屋を継ぎ接ぎして建てているのです。←これは私の祖母の家の造りを参照してます。