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過剰な躾の表現があります。ご注意ください。

 エリオットに買ってもらったカンザシを見せると、テレジアよりも余程興奮してテンションを上げたクリスに、湯から上がった後いつもより念入りに髪の毛に香油を塗りこまれる。

 「カンザシでの結わえ方をすぐにマスターして見せますから!」なんて前のめりに意気込む侍女を下がらせて、ようやく一人になった寮の室内で、テレジアはベッドに倒れ込んだ。


 ――なんだか今日は、とても疲れた。


 起きた出来事を反芻すると、ふわふわと落ち着かない気分になる。いつも寝る前の日課にしている夢の日記の読み返しは、出来そうになかった。この気分を壊してしまうのが、今日だけは憚られて。


 おそらく、今後何かしらの揺り戻しがくるだろう。ピークに上り詰めてしまったらあとは落ちるのみだ。

 幸せなイベントは落ちていった時の落差に、苦しめられる要因になる。けれど、一つでも温かなものがあればそれを支えにして進めもする。


 とても久々に、凪いだ心でテレジアは眠りについた。




 テレジアがエリオットに出会ったのは五歳の春のことだ。



 肉をナイフで切り分ける際に力を入れすぎて容器にあたり、静かな食堂にカチャリと音が響く。自身のたてた音にびくりと体を揺らしたテレジアは、そのせいでもう一度ナイフの音を立ててしまった。

 対面に座る父の脇に控える執事がメモに何事を書き記していくのを、色をなくした表情で見つめ、かたかた震える手をなんとか動かして肉を口に運んだ。味は、わからなかった。


 婚約者が決まった。半月後に訪問して顔合わせをするから、テーブルマナーを完璧に身につけろ。


 一人で夕食をとっていたテレジアの元に現れた父親が、娘に対しても厳しい無表情を崩さずに告げたのが十日前。それから、簡単な文字の綴りの書き取りやダンスのレッスンの中に、テーブルマナーの講習が加わり、及第点に至っているかのテストを兼ねた食事会が父とテレジアの二人だけで行われていた。


 一通り食事が終わると、父であるダストン・トゥルニエ伯爵は、カトラリーを下げる指示をだしてから自身の元にテレジアを呼んだ。ダストンの元へ向かうテレジアの気分は、さながら絞首刑にのぞむ囚人だ。蒼白な顔面を取り繕えず、びくびくと父親の脇に立つ。

 自身を睥睨する熱のない青の瞳は、テレジアをいつも萎縮させた。茶に近い濃いブロンドは一部の隙もなく撫でつけられ、おろしているところも乱れたところも見たことがない。


「テレジア」

「はい、おとうさま」

「何回粗相をしたか、覚えているか」


 問われ必死で回数を数える。


 最初のスープで間違った方向からスプーンを運んだ、スープを飲みきれず滴らせてしまった、カトラリーの置き方を間違えた、メインで二回音を立てた、あとは、どうだったか。


「テレジア」


 即座に答えられなかったことを責めるように、名前を呼ばれる。体を震わせて、テレジアは急いでこたえた。


「十回…です、おとうさま」

「だそうだが」

「私の記録では十一回でございます」

「私もそう思う」


 自身のカウントと噛み合っていない父と執事の数えに、喉の奥で悲鳴を上げる。


 間違えてしまった。しかも、把握しているミスの数が事実よりも少ない。


 失敗が引き起こす父からの懲罰を想像して、テレジアはくらりと目眩を起こしそうになる。しかし気をやってしまってもどうにもならないことは、これまでの経験上わかっていた。


「オステルヴェルクに招かれているから、マナーは完璧にせよと。私はそう言ったのだが」

「す、すみませ、ん……おとうさま…」

「”すみません”?」

「い、いえ! 申し訳ございません…!」

「言葉は正しく使いなさい、と、これも教えているはずだな」


 もうしわけございません。消え入りそうな声で繰り返し謝罪をする。必死で瞬きをして、涙を一つでも溢さないように必死のテレジアに、ダストンはすっと目を細めた。


「手を出しなさい」


 嫌ですと叫びそうになる自分をおさえて、テレジアはのろのろと手の甲を差し出した。それと同時に、執事がダストンに乗馬鞭を差し出す。


「ミスが十一回。自分で把握できていなかったことと、言葉使いのミスでプラス五回」


 間髪入れず、ヒュンと空を切った鞭がテレジアの手を打った。


「……っ」


 悲鳴をかみ殺して、テレジアは鞭を受ける。


 ダストンはそれが昔から決まっているルールのように、テレジアが何か粗相や課された課題を失敗すると、仕置きと称して今のように鞭をふるった。場所は手の甲が常で、何か重大なミスになると尻や背中にくる。


 打たれる鞭には、仕置き以外の何の他意も含まれていない。虐げる愉悦も、幼子に手を上げる憐憫も、何も。無感動な表情は動かず、淡々と義務がこなされていく。トゥルニエ家が昔からそういう教育方法であるのか、それともダストンが特別なのかはテレジアにはわからなかった。


 きっちり十六回鞭が振るわれると、テレジアの手の甲は赤く腫れあがる。けれど切れて血が出たり骨を痛めたりはしていない。ダストンは、痛めつける加減を間違えたことがない。それが余計に「教育のための鞭」であると幼少のテレジアにも察せられて、段々としょうがないことなのだと受け入れさせた。

 父は、意地悪でテレジアを鞭で打つわけではない。ダストンからかされた課題をクリアできない、テレジアにミスの大きさを知らせるためにしていることである。それ以上でも、それ以下でもなかった。


「訪問の日取りはずらせない。明日、もう一度テストするから、粗相を減らすようにもう一度練習をしろ」

「……は、い。おとうさま」

「カール」


 淡々と告げたダストンは、テレジアの返事を聞くともう用は済んだとばかりに執事を呼び、鞭を渡して席を立つ。


「執務に戻る。テレジアは手当の後、自室へ戻すように」

「かしこまりました」


 そのまま、テレジアを一瞥することなく食堂を後にした。


 主人から命を受けた執事は、ダストンと入れ替わりに食堂に入ってきた古株のメイドに同じ様に指示を出して、自身も後を追う。残されたメイドは、しずしずとテレジアの前にやってくると、テレジアの腫れた手をとった。


「冷やした後、薬を塗りましょう。お嬢様」


 状態を見て処置を提案してくる声色は、ダストンと同じように平淡だ。父や、執事、このメイドだけではない。屋敷にいる皆、こうだった。

 誰も、色も温もりもなく、必要なことをこなす機械のよう。仕置きが辛かったですねと気づかわれたことなんて、一度もない。父親の期待に応えられないテレジアが悪いのだ。


「さきに、お風呂にはいってもいいですか」

「それでは冷やせませんよ」

「でたらきちんと冷やします。すぐにでますから」

「……かしこまりました」


 すぐに冷やさず、むしろ温めるなんてよくないとわかっていたけれど、テレジアはどうしても風呂に入りたかった。そこならば、泣いていても誰にもばれたりしないからだ。


 無理を言って風呂の支度をしてもらい、温めたせいで痛みを増す手の甲の腫れに、湯船で一人になったテレジアは――ようやくボロボロと涙を流した。声を出さず、ただ大粒の涙が目からこぼしていく。

 五歳の子供にとって、この日々はただ心を削られるだけのものだった。唯一の肉親の父親は、テレジアが伯爵令嬢としてふさわしい品格を身に着けるための「教育」にしか興味がなく、屋敷に仕える人間は全員伯爵の意向に従ってテレジアに接する。


 もしかしたらテレジアを甘やかしてくれたかもしれない母親のことを、テレジアは肖像画でしか知らない。テレジアと同じ黒くてまっすぐな髪と、ペリドットのような瞳をもった綺麗な女性。体が丈夫でなくて、テレジアを産んですぐに亡くなってしまった。


 ずっとずっと、大きな屋敷の中で、テレジアはひとりぼっちだ。



 なんとか父親が満足するくらいまでにカトラリーを扱えるようになって、テレジアは婚約者だという少年がいるらしい屋敷へと向かった。馬車の中で相手の家について覚えたか問われ、つっかえつっかえ答える。


 相手は、オステルヴェルクという国の中でもひときわ広い領地を持った公爵様(デューク)。の、次男。家を継ぐのは長男で、ある程度自由がきく次男だから少し格が落ちるトゥルニエ家との婚約が認められた。らしい。


 テレジアの役目は、直系の男子に恵まれなかったトゥルニエ家のために、その次男との間に将来的に男子をもうけてトゥルニエ家の跡取りに据えること。貴族主義の考えが強いダストンは、跡取りの血にも拘っていた。


 強制的に強いられる緊張にテレジアがぐったりとしそうになった時、馬車はようやくオステルヴェルクの屋敷へとたどり着く。父に手を引かれて馬車を降りたテレジアは、トゥルニエの屋敷よりもずっと明るく華やかなオステルヴェルクの邸宅に目を丸くした。

 呆気に取られながら父のあとについて、オステルヴェルクの門をくぐる。屋敷のエントランスで大勢の侍従と共にテレジア達を迎えたのは、赤い髪を持った美しい夫人だった。


「ようこそお越しくださいました、トゥルニエ伯爵」

「お招きいただき光栄です、オステルヴェルク夫人」


 ゆったりと淑女の礼を取ったオステルヴェルク夫人に、父は帽子を外して頭を下げ、差し出された手にそっと口づける。それが終われば、次はテレジアの番だ。


「娘のテレジアです」


 体をよけ、テレジアの背に手をおいた父親に紹介されて、テレジアはぴしりと背筋を伸ばす。父の手から伝わってくる圧に、自然と体に力が入った。


「いらっしゃい、小さなお嬢様(レディ)。よくきてくれましたね」

「お、お招きいただきまして、ありがとうございます。トゥルニエはくしゃくのちゃく子、テレジアと申します。何卒、よろしくおねがいいたします」


 裾を掴んで、学んだとおりに一礼。粗相をしてはならない、貴族の令嬢として気品のある印象を持たせろ、とダストンから何度も繰り返されたのを裏切らないように、テレジアは指の先まで気を使ってその姿勢を保った。

 それをオステルヴェルク夫人がどう思ったのか。表情は見えなかったけれど、首を垂れるテレジアの肩にほっそりとした指がかかる。


「顔を上げてちょうだい。私に、可愛い顔をよく見せて」


 夫人の言葉に、テレジアはおずおずと顔を上げた。柔らかい夫人の笑みに咄嗟に瞳を伏せて、ちらりと父親をうかがった。いつもと変わらない表情は、今までのテレジアの作法に間違いがなかったと告げている。


 それに安堵して、テレジアは再び夫人に視線を戻し――そして、その声を聴いた。


「母上、いらっしゃったんですか」


 声変り前の高めだけれど落ち着いたソプラノに、夫人が振り返る。


「遅いですよ、エリオット」

「すみません」


 やってきたのは、夫人と同じ髪の色をした男の子だった。整った顔立ちに柔らかな微笑みをのせて、金の瞳にはちみつのような甘さをたたえている。その瞳と目があったテレジアは、視線が縫い付けられたようにじっと男の子を見つめた。


「紹介いたします、息子のエリオットです」

「どうも初めまして。エリオットです」


 まずはダストンとあいさつをしたエリオットは、それが終わるとテレジアに向き合う。金の瞳に自身が映って、テレジアはぴくりと肩を揺らした。


「はじめまして。君が、テレジア?」

「は、はい」

「よろしくね」


 にっこりと微笑まれて、心臓がとくりとはねた。そわそわと落ち着かなくなって、もじもじと指を絡ませる。なんてことない、名前を呼ばれて挨拶をされただけだ。それだけのことなのに、どうしてこんなにドキドキとするのだろう。

 小さく「よろしくお願いします」と返したテレジアの手袋に包まれた手を、エリオットは突然取ったので、驚いて声を上げてしまった。


「え、あ、あの……っ」

「今日は庭にお茶のよういをしてるんだ」


 そのまま、歩き出したエリオットに引っ張られる形で、テレジアも足を踏み出した。思わず父を見上げると、顎をしゃくってついていくように指示をされる。

 怒られはしないことにほっとして、テレジアは調度品の説明をしながら庭へ向かうエリオットについていった。



 楽しくない? と訊かれたのは、一通り食事がすんでエリオットと二人でのオステルヴェルク邸の庭園散策の最中だった。


 自身よりも少しだけ上背のあるエリオットを心持ち見上げたテレジアは、問いの意味を咀嚼し終えると、顔から血の気が引く気持ちになった。

 父から、婚約が嫌だとごねられないくらいには気に入られろ、と命じられている。鞭うちの記憶が蘇って緊張で味のしないお茶会では、とにかくマナーを間違えないことに必死すぎて、エリオットを全然気遣えていなかった。それに、今更気付いてしまう。


「申し訳ございません、エリオットさま」

「なんで君があやまるの?」

「だ、って…、私、エリオットさまに失礼を……」

「べつに失礼なんてなかったよ? 僕はただ、あんまりたのしそうに見えないからきいただけ」

「たのしくないなんて……」

「そうでしょう? なにかに気をとられて、ずっときんちょう? してる」


 違うかな、と問われて、テレジアは答えられなかった。言われたのがその通りで、否定が咄嗟に浮かんでこなかったのだ。

 狼狽えるテレジアを見て何を思ったのか。エリオットは眉尻を下げて首を傾げると、テレジアの頭にそっと手を伸ばして撫でてきた。結い上げられた髪がくずれないように、優しく。


「エリオットさま…?」

「僕、よくおやつを盗み食いして怒られるんだよね」

「……はい?」

「おいしそうな焼き菓子の匂いがしたら、ちゅうぼうに行くんだ。そうすると、乳母や母上には内緒ですよってできたてをくれるんだけど、内緒なはずなのにお茶の時間になるとその分だけ僕のお菓子が少なくてね」

「それでおこられるんですか?」

「そう。でも、くれるコックは怒らないんだよ。僕が頼んだらことわれないだろう、って」


 突然、どうしてこんな話をエリオットがし始めたのかわからず、テレジアはわからないなりに相槌をうっていった。


「他にも、つづじの蜜は甘いってきいたから、こっそり舐めてみたらいつの間にかバレてて汚いって怒られるし、途中が気になる本を浴室にもちこんで読んでたら、それもはしたないって」

「はあ」


 つまり、これはどんな内容に帰結するのだろう。


 頭の中にはてなマークを浮かべたテレジアの髪を相変わらず撫でながら、エリオットは一通りの「こんなことをして怒られた」話をして、目を細める。


「だから、僕の前ではなにしてもいいよ」

「……?」

「お父上に怒られることをしても、僕は怒らないから。こっそりお菓子を食べても、ぎょうぎ悪く本を読んでも、楽しいことなら一緒にしよう」

「つつじの蜜を、なめたり?」

「うーん、それは正直あんまりおいしくなかったからおすすめはできないかなぁ」


 そういって苦笑するエリオットに、テレジアはぱちくりと目を瞬かせた。

 この人は、もしかして、テレジアの子供らしいわがままを聞きたいと、そういう話をしているのだろうか。屋敷の誰もが禁止したテレジアの伯爵令嬢らしくないと思われる振る舞いを、むしろ積極的に行え、と。


「お、怒られてしまいます」

「テレジアのお父上は厳しそうだよね」

「おとうさまは…、つねに、ただしいので……。ごめいわくをおかけしないよう、私はしっかりと」

「だから、こっそりとでいいよ?」

「けれど、それでは知られたときにエリオットさまにもごめいわくが」

「大丈夫大丈夫」


 何も大丈夫ではない。テレジアだけでなく、もしもエリオットまで鞭で打たれることになってしまったら。

 その光景を想像して、テレジアはぶるりと身を震わせた。


「いいえ、ごめいわくはおかけできません」

「テレジア…」

「けど、あの……、こうして、またこちらにおうかがいしてもいいですか?」


 迷惑をかけたくはないけれど、それ以上にこの少年の微笑みが見られなくなるのは、嫌だった。どうしてだかテレジアにはまだわからないけれど、エリオットの笑顔をずっと見ていたいと、そう思う。

 テレジアの提案に一瞬驚いたエリオットは、手を止めて、そしてテレジアの手をぎゅっと握りこみ満面の笑みを浮かべた。


「もちろん」


 その笑みに、ぽっと頬に熱が集まるのを感じる。


 鞭で打たれてまだ腫れの引かない手の甲が、掴まれて痛みを訴えたけれど、それ以上にぽかぽかと体を満たす温かな気持ちにテレジアは、そっと熱を逃がすように息を吐いた。


 この人が自分の、将来の伴侶となる。

 それは、とても奇跡のように思えて、せめて嫌われないようにしようとテレジアは心に決めた。


 まだ夢も見ていない、この先待ち受けている未来も知らない唯一の穏やかな時間だった。

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