8
夕暮れ時になり、あらかじめ馬車との合流地点として定めていた東地区の出入り口に着くと、しかしオステルヴェルクの紋の入った馬車はまだきていないようだった。
適度に休憩をはさんではいたが、それでも半日歩き回ったおかげで足が既にむくんでいるのがわかる。戻ったら、クリスにマッサージを頼もうか。そんなことを頭の片隅で考えつつ、テレジアは夕暮れの橙に染まる街を見つめた。
いつか、自分も混ざるかもしれない人の群れ。気にかけた事のなかった人々の生活は、夜を迎えようとしてもなお賑やかで。
「お疲れ様、リザ。ごめん、いっぱい歩かせて」
「いいえ。色々なところを案内していただいてありがとうございました」
「少しは楽しんでもらえたかな」
「知らないことをたくさん知れて、有意義でした」
思ったことを素直にそのまま口にすると、エリオットはふは、と息を漏らして格好を崩した。
リザらしい感想、なんて肩を揺らして笑う。
「おかしかったでしょうか」
「いいや。埋め合わせが成功したみたいで、何よりだよ」
「……まだ気にしていたんですか」
「一応、それが今回の目的だからね」
「ならご安心を。十分すぎるくらいです」
そう、自分にはもったいないくらいの一日だった。内省することも多かったけれど、久しく感じていなかった胸が弾む瞬間もあって。出かけてきてよかったと、心から言える。
いつにない穏やかな気持ちでエリオットを見つめていると、エリオットは胸元から一つの包みを取り出した。
「これ」
「先ほど購入されていたものですね」
それは、あの東の国から輸入したというカンザシが包装された袋だった。包装用の深い紅に染まった、羊皮紙をもっと薄く柔らかにしたような粗い紙も、その国から手に入れたものだそうだ。
「リザにプレゼントしようと思って」
「…………え?」
この人は一体何を言い出したのだろう。
「貴方が気に入られたから、買われたのでは?」
「リザも結構気に入ってただろう? つけてるところ見せてほしいんだ」
「ええと」
確かに店で似合うとは言われたけれど、まさかそこからエリオットの購入意欲につながったとは考えていなくて、呆然としてしまった。
気に入ったかどうかと問われたら、おそらく気に入っている。不思議な意匠の繊細な細工は興味深いし、好きな人と同じ色を持っているのに嫌えはしない。
けれど、だからといって即座に「はい、いただきます」とはテレジアは言えなかった。
「今年の誕生日のプレゼントはいただきましたよね?」
「うん、贈った」
「でしたら、貴方から何かいただく理由がありません」
「俺がリザに渡したいっていうだけじゃ駄目かな」
「それは、理由になるのでしょうか」
テレジアにとって、人から何かを貰うのには相応の条件が付随するものだった。
大概が父の望む伯爵家の令嬢として、ふさわしい行いができたかどうかにかかってくる。対エリオットの場合は、婚約者という両家の契約という条件の元、年に一度誕生祝が贈られてきた。それはエリオット本人が選んでいるのか、彼の家の使用人が言いつけられて購入しているのかはわからないが、そういう義務から成立しているのだ。
だから、今みたいなイレギュラーは――はっきり言ってとても困る。受け取れるだけの何かを、テレジアはエリオットに一切していない。
「リザ」
真剣な――それでいてどこか安心させるような、そんな強さでテレジアの名前を呼んだエリオットは、テレジアに包みを自身の手で包み込んで握らせた。
「君は、嬉しくない? 俺からのこのプレゼント」
「それは…」
嬉しくないなんて、ありえない。困惑が強く素直な受け取り方がわからないだけで、彼がくれるもので嫌なものなんて一つもなかった。
戸惑いで瞳を揺らすテレジアに、エリオットは苦笑した。
「嫌だったら突き返していいよ。けど、少しでも嬉しく思ってくれるなら――受け取ってくれないかな。リザが受け取って、つけてくれたら俺も嬉しいから」
「エリオットが……?」
「もちろん。じゃなきゃ渡さないよ」
そっと、エリオットの手を外して包みを胸元まで持ち上げる。まじまじと深い紅を見下ろして、テレジアは沸き上がってきた熱に目を閉じた。
素直に甘受してもいいのだろうか。婚約者の義務でなく、彼個人の意思でテレジアのために買ってくれたと、喜んで受け取っても許されるのだろうか。
感じたことのない強い感情に、顔が歪んでいくのがわかる。なんとかそれらを逃がしたくて深呼吸をしても、唇が震えてうまくいかなかった。
こんななんてことのない髪飾り一つで大げさだと我ながら自覚はある。でも、抑えられなくて。
みっともない顔を見せたくはなかったけれど、礼はしなければ、とテレジアは顔を上げた。
「ありがとう、ございます……」
よほど酷い表情だったのか、エリオットは瞠目して固まってしまう。さっと口元を手で覆って、反射的にテレジアは謝罪の言葉を口にした。
「す、すみません…。取り乱しました」
「……いや」
何度かゆっくりとまばたきをしたエリオットは、次第にゆるゆると頬を緩めて、テレジアが今まで見たことのない――とろけるような笑みを浮かべた。ぽけ、と、テレジアは鮮やかな変化に見入ってしまう。
「つけてくれるの、楽しみにしてる」
なんとか、テレジアは頷いた。
しばらくしてテレジアも落ち着いた頃、オステルヴェルク家の馬車がテレジアたちの横に停まった。また三十分この大きな箱に揺られなければならないのか、と、膨れ上がっていた気持ちが一瞬で萎んでしまう。
帰りはどう誤魔化すべきか、エリオットに導かれながら馬車に乗り込みながら思案する。疲れたから、とまた寝るのはあまりにも失礼だろう。しかし、悟られずに話の相手が出来る自信はない。
先に窓際に腰掛けさせてもらう。行きと同じようにエリオットは前の席に座るのだ、というテレジアの予想を裏切って、何故だかエリオットはテレジアの横に腰を下ろした。
「エリオット?」
どうしてそこに。寝たふりをしても、そんな至近距離では震えがわかってしまう。なるべく平静を装いながら小首をかしげるテレジアに、エリオットはすまなそうに眉尻を下げた。
「リザさ、馬車苦手でしょ」
「……!?」
「あたりかな」
いつの間にバレていたのか。テレジアは指摘されて息を呑んだ。
「震えてるのわかったの、王都につく直前だったから行きは言わなかったんだけど、気付くの遅くてごめん。言ってくれればよかったのに」
「ごめんなさい。お伝えしてもしょうがないことだったので」
「そんなことないだろう。負担をかけたくて誘ったわけじゃないよ」
「それでもいいと誘いを受けたのは私です。貴方に非はありません」
最後の最後で水を差されてしまった。こうなるとも思ったから、知られたくなかったのに。苦手になった原因を追及されるのももちろん避けたかったが、交通手段として最重要の馬車に乗れないのはそれだけでマイナスだ。貴族として、ほとんどありえないと言っていい。それを喧伝されたくないというのもある。
申し訳なさそうに肩を落とすエリオットに、テレジアは気に病むことはないと首を振った。
「じっとしていればそれなりにやりすごせますから。……死ぬわけでは、ありませんし」
馬車の普及によってよほどのけもの道を選ばないかぎり、貴族の使用する街道は馬車用に舗装されている。ただそこを馬車で通るためには国の許可が必要になり、許可のためにはある程度の資金が必要なので、夢の中のような低質な辻馬車だとお金を出すのをしぶる場合がある。
舗装されていない山道は、揺れも酷いし事故も多い。警備兵もいないから、夜盗に襲われる可能性だって高い。
だから、貴族所有の馬車に乗っていれば、それらよりかは安全なのだ。
「それでも、苦手なものは苦手だろう? 怖かったら捕まってていいよ」
「いいえ、そんな……っ。大丈夫ですよ」
「人の体温に触れてるほうが安心するって言うし、こうしようか」
言葉とともに、テレジアの右手にエリオットの左手が重なり、指がからめられた。突然の触れ合いにぴくりと体を揺らしてしまう。
「え、エリオット……!」
「いいから」
思わず上げた抗議の声を笑いながら無視をして、エリオットは扉の前で待機をしていた侍従に馬車を出す指示を投げる。どこか微笑ましそうに二人を見ていた侍従は、丁寧な礼を取ると、静かに扉を閉めた。
結局、学院につくまで手は繋がれたままだったが、ずっと感じているエリオットの体温と、それでも消えてくれない沁みついた恐怖とで、テレジアはずっと落ち着かなかった。