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 テレジアの記憶にある限り、父や従者以外と共にどこかに出歩くといったことは初めてである。


 学院に入るまではカントリーハウスでひたすら礼儀作法を詰め込み、必要なものは家に商人を読んで買いつけ、学院に入ってからは寮と学舎と庭園の往復の日々。友人もおらず近寄りがたい雰囲気のテレジアに、遊びを誘う学生もいなかった。


 エリオットとは、お互いの邸宅で親同伴での面会が主だった。学院に入ってからは学舎内で話すことも増えたけれど、それぞれの交友関係やテリトリーからはなれてまでのものはない。テレジアも彼も、それぞれが親に「きちんと婚約者としての務めを果たしている」と示すためだけの逢瀬。

 貴族の婚姻とはそういうものだとテレジアはよく理解している。恋や愛とは全く別の場所に置かれた、ただしく家を存続繁栄させるのを目的とした行為だ。


 だからエリオットが、テレジアの父に二人の結婚を疑われない程度に役割をこなしてくれていれば、テレジアは不満に思うことはなかった。いつか心も通った夫婦になれるかも、なんて夢見がちな少女のような願望は元よりない。タイムリミットが来るまでの、短い関係で。

 だから、正直なところ――夢で知りえないというのも含めた未知の事態に、かなり戸惑っていた。



 髪型いかがされますか、と侍女のクリスに髪を梳かれながら問われ、テレジアは鏡に映る己を見つめた。

 いつもと変わり映えのしない紫がかった黒髪に、目尻のつり上がった青い瞳を持つ無表情の女。服は、制服ではなく市街地へ出かけても支障のない動きやすいワンピースだが、良く言えば年齢の割には落ち着いた、悪く言えば地味で固いデザインだ。


「せっかくのエリオット様とのお出かけですからね。お嬢様は普段髪の毛をずっと上げてらっしゃるので、あえて全部おろして流すだけでも印象が変わると思いますし、綺麗に編み込んでも素敵かと」

「…そうでしょうか」

「ええ」


 テレジアよりもよほど浮かれている侍女に、気付かれないようにそっと息をつく。


 結局テレジアはエリオットに押し切られ、出かけることになってしまった。今日がその約束の日。けれど、心が浮足立つよりも先に不安に襲われてしまう。

 彼と出かけるのは、テレジアの中にはない情報だ。夢が全てを網羅しているわけではないと知っているけれど、それでもそれからこんなにも早く逸れると落ち着かなかった。穏やかな終わりに向かっているのならいいが、夢よりもっとひどい現実の前ぶれなのかもしれない。

 安易に今だけはと浮かれたあとの落差は辛いだろう。


「クリス」

「はい、お嬢様」

「いつもの…髪型にしてもらえますか」


 少しだけ悩んで、テレジアは結局自分を戒めることを決めた。普段、腰まである黒髪をシニョンで隙なく結いあげているのは、父の求める淑女としての己を保つためだが、今回も自分に言い聞かせる必要を感じたのだ。

 一日外に二人で出かけることになったからといって、勘違いしてはいけない。あくまで今回のこれは婚約者としての義務感からきた埋め合わせでしかないのだから。




 週末の休日に限り、全寮制の学院からの外出が認められる。おおよその生徒の行先は、馬車で三十分ほどで着く王都だ。タウンハウスで家族と会う生徒や、友人と流行りのカフェを楽しんだりするものなど様々だが、息抜きとして楽しみにしている生徒は多い。

 テレジアは外出をするくらいなら部屋で本を読むか人目を盗んで寂れた庭園に赴くかをしているので、こうして出かけ支度をするのは本当に久しぶりだった。学院にいる間ではほとんど初めてと言ってもいい。


 あまりにも常にない出来事で動揺し、忘れてはならないことを忘れるほどには。



 女子寮の入り口まで迎えに来てくれたエリオットも、制服ではなく外出用の私服を着ていた。かしこまりすぎない動きやすそうな上下だったが、テレジアとは違い華やかさと品の良さが見える、洒落た格好だ。地味な己の姿に少しだけ恥ずかしさを覚える。


「おはようリザ」

「おはようございます」


 エリオットに頭を下げて、テレジアはふとエリオットの背後に視線をやり――小さく息を呑んだ。固まってしまった表情を和らげることが出来ず、急に様子をおかしくしたことに首を傾げられる。


「リザ?」

「……え、あ、はい」

「どうかした? 具合悪い?」

「いえ、いいえ……大丈夫です。久々に出かけるので、少し…緊張していて」

「緊張? 俺と出かけるのって、そんなに気を張ることかな」

「そんなことは…」


 エリオットと出かけることももちろん緊張に値するが、それ以上にテレジアに身構えさせるものが彼の背後に鎮座していた。

 しかし、それを伝える気はなく言葉を濁すテレジアの緊張で冷たい指を、エリオットがそっと取る。じんわりと彼の指から広がる温度は、けれどテレジアの強張りを解いてはくれなかった。


「今日はリザの好きにしていいから、リラックスしてなんでもわがまま言ってよ」

「わがままですか」

「行きたいところとか食べたいものとか、なんでもいって」

「――……ごめんなさい、あまり思いつかなくて」

「じゃあ、とりあえず王都にでるのでいいかな」

「…………はい」


 できるのであれば回れ右して部屋に帰りたいが、そんなこともできるはずもなく。

 手を取られたままテレジアは、オステルヴェルク家の紋章が刻まれた馬車に乗り込んだ。真っ青な顔色が、これ以上色を失わないことを祈って。



 テレジアは、馬車が苦手だった。


 理由は単純だ。夢で何度も何度も、繰り返し馬車の事故で死ぬ体験をしたせいで、馬車の中の逃げ場のない狭い空間がダメになったのだ。夢の辻馬車とは似ても似つかない貴族所有の豪奢な馬車でも、息が浅くなり震えが止まらなくなる。

 エリオットと二人で出かけることのみを意識していて、出かけるためには馬車に乗る必要があるのを失念していた。覚えていたら、絶対断固拒否をしていただろう。



 たった三十分馬車で座っていただけなのに、かなりの体力を持って行かれてしまっている。産まれたての小鹿のように震えそうになる足を叱咤して、テレジアは王都の石畳に立っていた。隣に立つエリオットは、そんなテレジアには気づいていない。ほっと、かすかに震える息を逃がす。


 馬車の中では、眠いのだといって壁にもたれ掛り眠るフリでなんとか誤魔化した。幸い、公爵家所有の高性能の馬車とはいえ消せない揺れに、体の震えはまぎれてくれたし、自身を落ち着けるための深呼吸は寝息に聴こえただろう。隣に密着して座られていたら伝わっただろうが、エリオットはテレジアの向かいの席に腰を下ろしていたので、その心配もない。


「よく眠れた?」

「はい」


 心配そうにテレジアを覗き込むエリオットに、なんでもないと首を振って、普段馴染みのない石畳から顔を上げる。すると、道行く女性たちが皆テレジアたちに視線を向けて惚けた表情をしているのが見えた。もしかして、と、馬車の中の恐怖も忘れて婚約者の顔を見つめる。

 ラフに下ろされた輝く赤の髪に、柔らかく光をたたえる金の双眸。スッと通った鼻筋に上品に弧を描く唇は、惚れた欲目を抜きにしても魅力に満ち溢れている。


 彼女らは、エリオットに見蕩れているのだ。


 その事実を意識して、テレジアは丸まりかけていた背筋を正した。

 釣り合わないのは重々に承知しているけれど、気後れしていても仕方がない。せめて胸を張って、横に立っていて少しでも劣らないようにしなければ。

 自分はまだ、この人の正式な婚約者なのだから。


 そこでようやく、テレジアは馬車内の自分の行いを顧みれる冷静さを取り戻し、はっとした。


「エリオット、ごめんなさい」

「どうしたの急に」

「馬車で貴方のお相手ができなかったので……」


 いくら婚約者とはいえ、自分より身分の高い人を放って寝るなんて。とんでもないことをしてしまったと自省する。退屈させないよう、会話の相手にならなければならないのに。

 正式デビュー前で父以外の貴族とは同席したことはないが、それでも父を前にして気をぬくそぶりを見せれば、その場で手を十回は打たれている。

 己の失礼な行いに恐縮して顔を強張らせるテレジアに、しかしエリオットは茶目っ気を含めて笑った。


「いいよ。今日は君はお姫様で、俺は君の言うことをなんでもきく日だから」

「……お姫、様……?」

「そう。言っただろう、何か要望があればなんでもきくよって」


 気にしていないどころか、わがままを聞くのに乗り気なエリオットに肩の力を抜きつつ、テレジアは困惑した。


 好きなようにふるまえと言われても、何も浮かんでこない。本は学院の図書館の蔵書で事足りるし、育てている植物はまさかエリオットの前で買う訳にもいかないだろう。そうなると、テレジアには何もなかった。

 お姫様の知識はある。可愛く、可憐で、テレジアから見たら眉をしかめてしまうようなわがままや身勝手な振る舞いも、その愛らしさ一つで許され愛される存在だ。テレジアとは対極の。


 お姫様。

 わがまま。

 お姫様。

 わがまま。


 口の中だけでその二つの単語を繰り返し、途方に暮れた。お詫びをする側なのに、エリオットの方がよほどわがままで意地悪だ。テレジアがパッと、そんな振る舞いできるわけがないのはわからないのだろうか。


 こんなことなら、クリスに意見を仰ぐべきだった。埋め合わせにおけるわがままな令嬢の振る舞いを、少しでも教えてもらえたかもしれない。

 余程テレジアが情けない表情を浮かべていたのか、エリオットはテレジアの頭を撫でて眉尻を下げた。


「浮かばない?」

「……ごめんなさい」

「本当になんでもいいんだよ。リザは休みの日ってどう過ごしてる? それに付き合うのでもいいし」


 休みの日の過ごし方。


 いつもどうしていたか、反芻しながら変わり映えのしない休日の行動サイクルを口にする。


「本を読んで勉強してます」

「それだけ?」

「他ですか? クリスの用意したご飯を食べて、湯につかって、紅茶を飲んで……」

「ごめんリザ。もういいよ、わかった大丈夫」


 流石に植物の世話は伝えられないな、と除外しつつ一つ一つ挙げたのだが、途中でエリオットに遮られてしまった。遮りたくなる気持ちはよくわかる。友人も多く執行部でも忙しくしているエリオットにとって、テレジアの休日の行動などあまりにもつまらないはずだ。


 気の利いた嘘でも何か言うべきだったか。しかし、それもすぐには浮かんでこない。

 どうしよう、と、エリオットが早くも困ってしまっているのを、テレジアははっきりと感じ取った。連れ出すのではなかったと、そう思っているのかもしれない。


 ――食事をするだけで十分だと伝えて、早めに学院に戻ろう。


 すぐにもう一度馬車に乗らなければいけないのは気が滅入るが、そもそも埋め合わせなんて必要なかったのだ。元より怒ってなどいないし、彼がテレジアのことを今までにない形で気にかけてくれた。それだけでいい。


「……エリオット」

「わかった、じゃあこうしようか」


 戻る提案をしようとしたテレジアの呼びかけを無視して、エリオットは思いついたと指を立てた。


「リザが気に入るものを、今日一日使って俺が探すのはどう?」

「それはどういう…」


 突然のエリオットの思いつきに、テレジアは目を瞬かせた。


「ないなら、見つければいいんじゃないかと思って。リザ、あまり王都には出てこないんだろう?」

「休暇の時にタウンハウスで過ごすことはそれなりにありますが」


 伯爵領は王都から馬車で五日はかかる。そんな長時間馬車に乗っているのはテレジアにとって拷問に等しいので、夏の長期休暇以外の帰省期間は、父に呼び出されない限りタウンハウスで過ごしていた。


「トゥルニエ家のタウンハウスは西側か。じゃあ東側にはあまり足を伸ばさないよね」

「ええ、まあ……そうです」


 それどころか自邸タウンハウスにいても極力外を出歩かないので、西側もそんなに詳しくない。とは、さすがに黙っておいた。

 曖昧に頷いたテレジアに、エリオットはにっこりと笑う。


「じゃあ東側に行こうか。丁度ここは中央でも東寄りだし行きやすい。折角だから歩きながら見て回ろう」

「待ってください。それで、貴方はいいんですか?」


 馬車嫌いが高じてテレジアは徒歩移動を苦には思わないが、エリオットは違うだろう。しかも、行きたい場所を真っ直ぐ目指すわけでもなく、あるかもわからない「テレジアが気に入るもの」を探すなんてふんわりとした目的だ。


「望むような反応はきっとできません。無駄足ばかりで疲労するだけです。この間のことは私は本当に気にしていませんから、エリオットもそんな無理をしてまで…」

「そんなことないよ。結構楽しみなんだけど、リザには無理をしているように見える?」


 問われて、テレジアは首を振った。エリオットの言う通り、表面上の彼は確かに苛立ちも嫌々付き合っている風でもなく、金の瞳は穏やかにきらめいている。

 けれど、今はよくても、と思ってしまう。最初は言葉通り楽しんでいても、徐々に疲れてきて嫌になってしまうのでは、なんて。そんな態度を取られたら辛くなるだろう。それならば最初から回避したいと考えるのは、テレジアとしては当然のことで。


「そもそもさ、言っただろう? リザは今日お姫様だって。むしろ、『気に入るもの一つ見つけられないなんてエリオットは役立たず』くらいの気持ちでツンと突っぱねてもいいよ。その方が俺も、怒っている婚約者のご機嫌取りって感じがするし」

「そ、そんな失礼なことしません…っ」


 慌てて否定するテレジアに、高飛車な令嬢の真似で顎を上げていたエリオットは、表情を一転させてクスクスとおかしそうに笑った。


 からかわれたのだろうか。

 そうだとしたら少し意地が悪い。


 意識せず責めるように見上げると、ごめんと目を細めて腕を取られた。


「ぶらり気ままに見て回るだけでも、結構楽しいものだよ。だから、ね?」

「……、無理は、しないでくださいね」

「もちろん。リザも、何かあればすぐに言ってね」


 歩き出したエリオットにテレジアも合わせて足を動かし始める。少し後ろに、オステルヴェルク家のエリオットの侍従も一定の距離を保ちつつついてくる。


 テレジアはそこで、はた、とあることに思い至り動揺から視線を泳がせた。斜め後ろから仰ぎ見るエリオットの楽しげな横顔に、更にその動揺は深まっていく。


 なんだか、これは。

 まるで本当の恋人のやり取りみたいだ。


 落ち着くまで、彼がこちらを振り返りませんように。と、テレジアは必至に祈った。


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