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エリオットから離れることをは確定しているが、何も夢の出来事を順序だててこなす必要はない。
たしかに、回避したと思った会話が別日に起きることはあるけれど、それもテレジアがもっと意識して避ければきっと起こらないはずだ。テレジアのアドバンテージは、日記につづった出来事を反芻し、対処ができること。
幸いというべきか不幸にというべきか、ダンス講習会を過ぎてもエリオットとは食堂の一件のことが尾を引いていて、話していない。元々エリオットが気を使ってテレジアの様子を見に来てくれているので成り立っている交流関係で、あちらが気まずさを得て近寄らなければ接点はゼロだ。
あの二人が心を通わせていく過程を見るのも辛いものがあるし、このまま来たるべき時期まで必要最低限の関わりだけを持ち、折りを見て婚約破棄を申し入れるのがよいのかもしれない。
自分の手で世話ができなくても、学舎の中庭は好きな場所の一つだった。少し奥に行けば人影もまばらになるし、静かなのでゆったりと一人の時間を過ごせるからだ。
食堂でエリオットと鉢合わせないよう急いで食事を切り上げやってきた中庭の奥は、狙い通り人があまりいなかった。たまに中庭を通らないと向かえない管理棟に用がある人間が、足早に通り過ぎていく。
本格的に秋が始まり昼間でも風が冷たい日もあるが、今日は温かな日差しも手伝って外で過ごすのは心地よい。持ってきた本は膝の上に置いて開かずに、しばらく心地よさを堪能する。
「あれ、テレジアじゃん」
日差しを受ける秋薔薇のアーチを眺めて、薔薇も育ててみたいと観察していると、ここ一ヶ月で聞きなれてしまった声に名前を呼ばれて、テレジアは視線をやった。
「………ベルンハルト」
こんなところでまで会いたくない相手が、テレジアを見つけて顔を明るくさせて近づいてきている。学年が違うせいか、あの温室以外行動範囲が被らないせいか、実は学舎内では一度も遭遇したことがなかったので、声をかけられて驚いた。相変わらず制服は着崩れている。
テレジアに許可を取るまでもなく肩が触れるほどの距離で横に腰掛けたベルンハルトは、適切な男女の距離と言うものを知らないようだ。さりげなく体を横にずらしたがその分だけ詰められてしまい、無駄だとはわかっているが、抗議の意も込めてわざとらしく大きくため息を吐く。
もちろん、気にした様子は皆無である。
「一人? 前々から思ってたけど、テレジアって俺以外に友達いないの?」
「貴方といつどこで誰が友達になったんですか」
「俺の口から言うのは恥ずかしいんだけど」
「恥ずかしそうな顔にはまったく見えませんが」
にんまりとした表情と言葉が清々しい程に合っていない。胡乱げに見やってもどこ吹く風で足を組み、ベンチの背もたれに頬杖をつく。
「何も用事がないなら、もう行ったらどうですか。どこかへ向かう途中だったのでしょう」
「管理棟に鍵返しに行くだけだから時間はよゆー。それよりここでテレジアに会えて丁度よかった」
そう言ってベルンハルトが差し出したのは、手のひらサイズの缶だ。女性が好みそうなデザインの装飾が施されている。
動かした拍子にカツンと軽い乾いた音が鳴った。中に入っているのは何かのお菓子だろうか。
「なんです、それ」
「テレジアが前に言ってた、花を使ったお菓子ってやつ。どんなんか気になったから買ってみた」
「ああ」
開けて見せてくれた中には、薔薇の形を模したクッキーが詰まっていた。真ん中の花芯にあたるだろう部分に艶やかな赤のジャムが盛られている。きっと薔薇のジャムだ。
「わざわざ買って食べたんですか?」
「だから気になったんだって。でも俺にはちょっと匂いキツすぎるんだよね」
薔薇を使用しているのをわかりやすくするために、あえてキツイ匂いをつけているタイプだろう。蓋をあけているだけでも、テレジアに匂いを運んできている。
あんまり美味しくなかった、と眉をひそめつつ一つ摘んだベルンハルトは、どうしてかそれをテレジアの口元まで持ってきた。
「テレジアも食べてみろよ。ほら、あーん」
「あ、あーん……? ちょっと、自分で食べられます…っ」
甘えた子供みたいな真似、この歳でできるわけがない。普通に食べるとベルンハルトの手を押し返すが、ひょいと避けられまた口元までクッキーを近づけられる。
「聞いてますか? 貴方の手を借りなくても大丈夫です」
「俺の手から食べても自分で食べても一緒だろ?」
「はしたないのでやめなさい、と言っているんです」
「大丈夫はしたなくないよ。皆やってるから」
「皆がやっていることが全て正しい訳ではないでしょう」
「テレジアって潔癖? 平気だって、あの温室での先輩の手より今の俺の指のが断然綺麗だから」
ああ言えばこう言う、で、テレジアの意見を聞き入れる気がゼロだ。半眼でじっとりと睨みつけてもにっこり笑うだけ。気にせず食べるのが早いのはわかっているのだが、この後輩を喜ばすのは気が引けた。
結果口を真一文字に引き結ぶ選択をしたテレジアに、ベルンハルトはおかしげに息をもらし、そしてテレジアの背後に何かを見つけ「あ、」と声を出した。
「エリオット・オステルヴェルク」
「え、」
ベルンハルトの呟きにテレジアも顔をそちらへ向け、存外近くにいた婚約者と目があった。驚いたように瞠目しているエリオットの隣には、ノエルもいる。
こんなところで会うなんて。
しかも、変な場面を見られてしまった。
咄嗟に弁解しようと口を開きかけたテレジアだったが、その隙をついて放り込まれた薔薇の香りの強いクッキーに阻まれてしまう。
「……!?」
「隙あり。ってやつ?」
ベルンハルト! と語気を荒げて名前を呼ぶのを寸でのところで押さえたのは、口に物を含んだ状態で話すのが嫌だったのと傍に寄ってきた二人を意識したからだ。
言葉のかわりに強く睨む。しかしベルンハルトは、どこ吹く風で首を傾げた。
「どう? 女性は好きなのそれ」
匂いは確かに強めだが、このくらいなら好む女性は多いだろう。全て嚥下したテレジアはそんな感想を抱いたが、素直に伝えるのは癪だと躊躇しているとエリオットが肩の上に手を置いたので、固まってしまった。
「リザ?」
こんなところで何をしているんだ。そう続けたエリオットは、穏やかな彼にしては珍しくテレジアたちに――正確にはおそらくベルンハルトに、眉を寄せる。
「君は、ベルンハルト・アンチェロッティだね」
「知ってるんですか…?」
高名な貴族という訳でもないのに、エリオットが顔を見ただけでベルンハルトの名前を言い当てるのが意外で、目を瞬かせる。学年も二つ離れているので、二人に交流はないはずだが。
そして何より、エリオットが不快げにしているなんて珍しい。ベルンハルトはテレジアだけにではなく、エリオットにまで無礼な態度で接したのだろうか。そこまで考え、ベルンハルトとほぼ密着していることを思い出す。
すかさず離れようとしたテレジアの腕をとったのは、問題の男だった。
「ベルンハルト、いい加減離れてください」
「テレジアだからリザ。そうか、なるほど。リザ、リザ…うん、いいな」
「は?」
何がいいんだ、何が。
テレジアの言葉を無視してぶつぶつと呟くベルンハルトに、まさか、とテレジアは冷や汗をかいた。
「俺もリザって呼んでもいい?」
「却下します。嫌です」
「いいの? ありがとう! お礼にこれ残りあげる」
「お礼にって私は許可をしていな……、ベルンハルト!」
まだクッキーの残る缶をテレジアの手に握らせたベルンハルトは、非難をかわすようにベンチから立ち上がる。
「もっと俺でも食べれるお菓子あったら教えてな、リザ」
ウィンクを一つ残し、ベルンハルトは飄々と去って行った。
残されたテレジアは迷惑な後輩の背中を唖然と見送り、手の缶に目をやって肩を落とす。絡んできた意図も読めない、理解不能な邂逅だった。買ったものの気に食わない菓子を体よく押し付けられただけだ。
今度温室で会ったら水でもかけてやろうか、なんて嘆息しつつ、あまり見たくない方へと顔を戻す。戸惑っているノエルと難しい顔のエリオット。二人一緒のところに居合わせているのもそうだが、久しぶりに話をするのに知らず知らず肩に力が入る。
「――…アンチェロッティとは仲がいいのか?」
ぽつりと切り出したのはエリオットだった。
「……良いように見えますか」
「君が敬称無しでファーストネームを口にするくらいには」
「あれは、その……不可抗力です」
まさか温室で土いじりしているのをバラされたくなかったら、という交換条件を飲んだから。なんて言えるわけがなく、歯切れ悪く誤魔化した。
「エリオットこそ、彼をご存じなんですね」
ベルンハルトの横やりのせいで途切れた質問を再度口にすれば、エリオットはふいと視線を逸らした。
「父親同士が少し縁があってね……。何回か面識がある程度だよ」
「そうですか」
なるほど、と思った。何故ベルンハルトがテレジアのことを知っていたのか疑問だったのだが、エリオットと面識があるのであれば彼の婚約者である自分のことも知る機会はあったろう。
それで会話が途切れたので、二人で何をしていたんですかと訊こうか迷い、けれどどんな答えをもらえば自身が傷つかず済むのかわからなくて、テレジアはどうするべきか思案した。
すぐに立ち去りたい。
ここから離れようときめたテレジアの髪に、どうしてかエリオットが指を伸ばした。長くて綺麗な指で前髪を何度か梳かれ、面白いくらいに動揺してしまう。
「ど、うしたんですか」
ノエルがいるまえで、何をするのだ。
「少し乱れてたから。それより、そういうの好きなの?」
「そういうの?」
「さっき食べさせてもらっていたやつ」
決して食べさせてもらっていたわけではない、という反論は、それまで黙っていたノエルの声に遮られた。
「ミシェル・マクレガーの新作クッキー…ですよね」
指摘されて改めて缶のパッケージを見ると、確かにノエルの言う「ミシェル・マクレガー」という綴りがデザインされた飾り文字で視認できた。
嗜好品には疎いテレジアが知らないだけで、もしかして有名なスイーツブランドのものなのだろうか。
「最近王都でも人気があるお店だね。ノエルは知ってるの?」
「あ、はい…っ。デザインも可愛いし美味しくて好きなんですけど、行列がすごくていつもすぐに売り切れちゃうんです。予約自体が埋まるのも早いから、中々買えないんです」
宝物をみるように、ノエルは瞳を輝かせた。味もそうだが、繊細で華やかな造形と可愛いパッケージで話題になっているらしい。最初に見た時女性受けしそうだ、と思ったのは外れていなかったのだ。
しかし、ベルンハルトがテレジアがただの一例として告げた花を使用したお菓子を試すにしては、ノエルの話だと手間がかかりすぎる気がした。侯爵家の令嬢が手に入れずらいとこぼすくらいだから、男爵家の三男には高嶺の花なのでは。
その上、かなり苦労しただろうそれを「匂いがキツいから好みではない」と一つしか食べずに譲り渡すなんて。テレジアだって、いるかいらないかと言われたらいらないのに。
「差し上げましょうか」
「えっ……!? でも、トゥルニエ様がいただいたんですよね」
「押し付けられただけです。彼の好みではなかったそうなので」
どうせなら、きちんと価値のわかる人間に貰われた方が作り手としても嬉しいだろう。
そう考え缶を差し出したが、ノエルは大きく首を振った。
「そんな、貰えません。結構高いですし…!」
「高価なものであれば余計、ほしい人が貰うべきでしょう」
「トゥルニエ様はいらないんですか」
「こういったものを進んで食べませんから」
「けど……」
「もらってあげてよ。多分リザは引かないよ」
「エリオット様…」
テレジアから缶をとりあげたエリオットは、戸惑うノエルの手のひらに缶を置いた。それでもどうしようかきょろきょろと缶と自分たちをノエルは見比べて、その後に宝物を手にしたようにほう、と息を吐く。そっと頬を緩めたノエルに、エリオットもまた緩く笑んだ。
――ああ、これも見たことがある。
いつもの、知っている光景だった。避けていてもやはり、夢は現実になってしまうらしい。
胸に落胆が広がった。テレジアができるのは、夢の通りならば起こるノエルの手の缶を何かしらで落とし、中身をばら撒いてしまうのを回避するだけ。
いい雰囲気の二人を邪魔せず、やはり立ち去るべきだ。
膝に乗せた本を、きゅっと握りしめる。
「ありがとうございます、トゥルニエ様」
「いえ。礼なら私ではなくベルンハルトへ直接どうぞ」
「それでも。……すごく嬉しいです。食べるのがもったいないくらい…。あっ、友達にもあげてもいいですか?」
「ご自由に」
喜びで頬を赤らめはにかむノエルは、とても愛らしい。
こんなに屈託なく素直に感情を伝えられたら、元平民というので敬遠していた人間もほだされるのだな、と思った。
そろそろ頃合いだろう。
不要な菓子も処分できたし、とテレジアが腰をあげかけた時、エリオットに名を呼ばれた。
「……リザ、ちょっと話したいことがあるんだけど、時間いいかな」
眉尻を下げて「駄目?」とエリオットがテレジアを伺う。まさか呼び止められるとは予想していなくて、咄嗟の返事はぼそぼそと小さくなってしまった。
「時間、は、ありますが」
「本当? よかった、ありがとう」
ほっと胸をなで下ろして、エリオットは今度は申し訳なさそうにノエルに詫びをいれた。
「ごめんノエル、さっき受け取ったものをユリウスに渡せば仕事は終わりだから、頼まれてくれる?」
「あ、はい。待ってない方が……いいですよね」
「出来れば二人で話したい」
「わかりました。では、先に戻ります」
「うん。気を付けて」
「はい」
残念そうに俯いたあとぎこちなく笑みを浮かべ、ノエルはぺこりとお辞儀をした。
「失礼します、トゥルニエ様」
「…ええ、ごきげんよう」
ノエルを見送るテレジアの横、先ほどベルンハルトが座っていたのとは逆側に、エリオットも腰を下ろしす。
「それで、お話というのは」
背筋を伸ばし直したテレジアは、ぴったりと肩がぶつかるほどの距離をエリオットがつめてきて、体を強張らせた。
近い。
ダンスは密着するのが普通だから意識していなかったけれど、そうではないときにこれは、あまりにも近いのでは。
すわりの悪さに身じろきをしたい気持ちを我慢していて、ふと、テレジアは大げさに体を揺らしてしまった。
肩や結い上げているためにむき出しの首筋に、何か触れている。
これはなんだとおそるおそる視線だけ動かし、さらさらとした赤髪を見つけて首にかかるくすぐったさの正体を知ったテレジアは、眩暈がしそうになった。
「…………ごめん」
「……。何への、謝罪ですか」
声を掠れさせずに返答できたのは、我ながら奇跡だ。
「リザ以外の子と踊ったこととか、食堂できつく言ったこととか」
「そんなこと」
今更すぎる話題で肩透かしを感じたおかげで、少しずつ気持ちを落ち着かせていく。
それらに関してエリオットが謝る必要なんてない。そう遠くない未来に切り捨てる婚約者より、惹かれている女性の側につくのはしょうがないことだ。
「そんなことじゃない。食堂のあれは…、君は誤解されやすいから、彼女に変にとってほしくなかったんだ」
「思ったままを告げただけですから、それをどう彼女が受け取っていても構いませんよ」
「俺は構うよ」
「きつい女と婚約者だと思われたくありませんか」
「そうじゃない。リザが悪く思われるのを、俺が我慢できないんだ」
何言ってるんだ、と正直思った。急にそんな。
そんなの、まるでテレジアを気にかけているようではないか。
にわかに混乱して口を噤んだテレジアを気にせず、エリオットが続ける。
「言い訳にしかならないけど、本当は講習会の時に話をするつもりだったんだ。けど、会の間はあまり話す機会もなかったし終わったら君はすぐに帰っていたから、切りだせなくて。しかもその時謝れなかった上に成り行きとはいえ他の女の子と踊ったりして、本当ごめん」
エリオットが喋るたびに、吐息が肩にかかる。その温かさを認識するたび混乱は深まっていった。
何故。
何故。
エリオットは急に何を喋り出した。
夢では、エリオットからの謝罪はなかった。ノエルにきつく接するテレジアを諌めこそすれ、ノエルより優先なんて彼女が現れてからされたことなどない。
必死で脳を回転させ、この状況の示す意味を考える。暫しの逡巡ののち――夢で見ていなかったのは、大筋に関係ないからだと一旦結論づけた。
謝罪を受けても突っぱねても、彼の中で自分の印象はおそらく変わらないのだ。取るに足らない、小さな出来事。そう思えば気は楽になったが、テレジアはこんなにも翻弄されているのにエリオットに揺さぶりかけられさえできないのかと、同時に悲しくもなった。
そんな悲しみが、漏れてしまったのだろうか。
「やはり、謝罪の必要を感じません」
「でも、リザ」
「……だって貴方は、会の後、しようと思えばいくらでも私を呼び出して謝れたのに、今日偶然出会うまで何もしなかった。それは、その程度ってことでしょう?」
言いきった後にテレジアは、はた、と我に返った。これではエリオットが自発的に謝りにこなかったのを気にして、非難しているみたいではないか。
「と、とにかく。私は気にしていないのでこの話は終わりでいいですか」
「嘘だ。怒ってる」
「怒ってないです…っ」
怒りというよりかは、優先順位の低さに改めて打ちのめされているだけだ。非難するつもりなんて全くなかった。
失言だったと後悔するテレジアに、垂れていた頭を上げたエリオットは体を自身の方へと向けさせた。直前までのしおらしさとは打って変わって、どこか喜色の浮かんでいる表情に口をぽかんと開けてしまう。
エリオットの機嫌がよくなる要素が、今までの会話の中で何かあっただろうか。
「今度の休みの日、リザの時間を俺にくれないかな」
目を細め、エリオットがテレジアの手を握る。
「怒らせて、なのに時間をおいてしまった俺に、埋め合わせのチャンスをください」
間抜けな顔で、陽の光を受けいつもより明るい金の瞳を、ただただテレジアは見つめ返すしかなかった。
――こんな展開、テレジアは知らない。