2
ノエル・ヴィッテンブルグ。
テレジアより一つ下で、代々外交で王を補佐するヴィッテンブルグ侯爵家の娘だ。
本来ならば他の貴族の子息子女と同じく十二で入学して然るべき地位にいるノエルには、しかしこの時期の転入を余儀なくされたわけがあった。
ノエルが産まれた当初、ヴィッテンブルグ家には結婚しているが子を望めない侍女がいた。侯爵夫人つきで身の回りの世話をしていた侍女は、侯爵が夫人を連れ添っての公務にのぞむ際の、赤子のお目付け役として配置された。
泣いたノエルをあやすため抱き上げる侍女。揺らして背中を擦ると徐々に泣き止み、安心したようにすぅと眠る赤子を見て――侍女はある誘惑にかられてしまった。
「今なら、この子を連れて帰ってもバレないのでは」
そうして、侍女はノエルを連れて侯爵家から姿を消し、その後侯爵がノエルを見つけるまで十五年の月日を要した。
お嬢様、と気遣わしげに声をかけられて、テレジアははっと目を瞬かせた。傍付き侍女のクリスが、自室に戻るなり疲れたように椅子に腰かけた主を見下ろしている。
「やはりご体調が優れないのではないでしょうか。本日は、殊更眠りも浅いようでしたし」
「大丈夫です。少し慌ただしかっただけ」
「お顔色も悪く見えます」
「元からこの色ですよ」
「お嬢様」
「それより、紅茶をお願いしてもいいですか?」
頑なに不調を認めようとしない主人に息を吐き、クリスは無言で頭を下げる。従者用の控室に戻っていくのを見送って、テレジアは眉間を指できつく揉んだ。
この学園は、従者を一人ともなっての入学が許されている。今でこそ優秀な平民出のものも受け入れているが、設立当初は純然たる貴族のための学び舎だったからだ。将来民の上にたった時、正しい領主として導けるように多角的な視野を学ぶ必要がある、という理念から成り立っている。
暫くしてポットとティーカップを持ってきたクリスに、今日は下がるように命じる。主の心配をしつつ、忠実な侍女は先ほどと同じく無言で頭を下げて控室へ行った。
一人になった自室で、胸元のポケットから二つの鍵を取り出す。古ぼけた銅と銀の小さな鍵だ。
銅の鍵を、机の一番上の引き出しに差し込み、引き出しをあける。一見何も入っていないように見えるそこの側面のくぼみに指をかけると、底板が傾いた。そのまま板を取り払えば、引き出しの底の手前半分に、更なるスペースが現れる。
知らず知らずに震える手で取りだしたのは、手のひらサイズの日記帳。
もう一つの銀の鍵で留め具を外し、豪奢なカバーとは裏腹に所々よれ、シミのついたページをめくっていく。
これは、今までの夢の出来事をまとめたものだ。夢に出てくる出来事は時間の整合性がないため、順序立てて描かれてはいないが、何度も書き足したり読み返したりしているうちに、大体何がどのページに書いてあるのか覚えている。
その中でも最初の方にあるページを開いて、テレジアは今の自分よりも随分と幼く拙い文字を追う。
”何度もみたストロベリーブロンドは、髪型も輝きもずっと同じ。
ごきげんよう、から始まる挨拶だって、どこでつっかえるのか、声の震えだって再生できる。
『ご、ごきげんよう。明日からここで学ぶことになりました、ノエル・ヴィッテンブルグ……です。以後、お見知りおきください』
見知っているのに、これから彼女が自分にどんな影響を与えるのかわかるのに、私は特に感慨もなく彼女を見つめる。平民の出が、いきなり貴族社会の小さな縮図のようなこの学院に果たして馴染めるのか、余計なことを考えながら。
そのあとの交流会で、ノエルと少しだけ話す。伯爵より身分が上の侯爵の令嬢である彼女にかしこまった態度を取ると、ノエルは慄いたように縮こまっていた。『そんな風にしないでください』というので『貴方の方が例え嫌だとしても、お互いの身分にふさわしい態度を取らないと侯爵の顔や自分の父の顔に泥を塗ることになる』と返すと、更に恐縮したようだったので、溜息を溢した。
ヴィッテンブルグ侯爵家について、家の図書室で調べてみた。生まれてすぐに亡くなった子供がいるらしい。これが、彼女のことなのだろうか?”
ノエルを見たテレジアの反応は、当たり前だけれど夢とは随分と違う。
現実でのテレジアは耳を塞ぎたい衝動と戦って、自由交流の時間になるとすぐに部屋に引き上げたので、ノエルとはまだ会話をしていない。
夢の中ではどんなに別の行動を取ろうと思っても、きまって同じ言葉、同じ表情、同じ動きをしてしまうのに、そうではない。そのことに安堵と戸惑いを覚えていた。
安堵は、夢の中と同じでみっともなく取り乱してエリオットに幻滅される可能性が減ったから。離れるとわかっている人間を引き留めるような行いは、絶対にしないと決めている。
戸惑いは、本当に夢と同じ出来事が起こるのかわからなくなったから。ノエルは現れた。言葉も一緒。けれど、テレジアは違う。この齟齬を抱えて、夢のシナリオ通りにことは進むのか? 進まずに――万が一、エリオットは彼女を見初めなかったら?
「いや、それはない……」
ここにきても諦めの悪い己に、テレジアは眉を寄せた。
ノエルは、エリオットのいる執行部に必ず入る。執行部は、侯爵・公爵の身分を持つ貴族が代々所属する。今代のように王族が入学している場合はそちらも含まれたりするが、主なメンバーはその二つの爵位持ちの家柄だ。
ただ、その二つの爵位が与えられている家はもちろん数は少なく、一人も入学しない学年だってある。少ない人数で回していくために、執行部以外の生徒が都度手伝いとして入ったりもする。テレジアも、何度かエリオットに請われて手伝いで行事に参加をした。
ノエルは侯爵家。ただでさえ微妙な立ち位置にいる彼女の後ろ盾を作る意味でも、執行部にいれて交流を深めた方がよい。もし何かあって、学院もヴィッテンブルグ家を敵には回したくないはずだ。
入った場合、ノエルの面倒を見るのは十中八九エリオットである。夢ではそうであったし、以前執行部の会長が教育係を任せてきて困る、と笑っていたことがあった。会長はエリオットと同級だし、早々役割を変えるつもりはないだろう。
右も左も分からない学院に放り込まれて戸惑い、怯えているノエル。そんな彼女を優しく導くエリオット。何かと関わることが多い仲間として距離が縮まらないわけがない。
クリスの淹れてくれた紅茶で心を落ち着けながら、テレジアは夜通し日記を見続けた。
一睡もしなかったのを侍女に咎められたくなくて、テレジアは書置きを残し、日が昇るとすぐに部屋を出た。
いくら夏の終わりと言え、早朝は肌寒いくらいである。冷たさを感じる風に、酷使していた眼を刺激され潤むのを指でこすりながら、学舎とは反対方向に二十分ほど歩いてたどり着いたのは荒れた庭園だ。
広大な敷地を有する学院の中に、庭はいくつかある。それぞれの寮に設置された小さなもの、学舎の真ん中に陣取る大きな中庭、たまに外部の人間が訪れた際に通すゲストハウスの入り口、そして、ここの庭園。
ただし、ここは既に使われていないようで、生垣は形が崩れるほど枝葉が生い茂っているし、薔薇のアーチは枯れている。近くに建物もないが、昔は寮が今の場所ではなかったというので、おそらく旧寮に併設されていたのだろう。
テレジアの目的は、この庭園の奥の温室だ。
庭園と同じく植物は枯れ、埃がつもったままの温室を見つけたのは、三年の頃だったか。夢のことで考え込みながら誰にも見つからない場所を探して歩いていたところ、偶然庭園に足を踏み入れた。そして鍵のかかっていない温室に、テレジアはよいところを見つけたと珍しく高揚を覚えた。
きぃ、と、耳障りな音と共に温室の扉を開ける。かつて土のみを残した鉢には、植物が新たに植わっていた。植えたのはテレジアだ。
植物や庭の世話をするのは、下働きの人間だと決まっている。トゥルニエ家ももちろんそうであるが、テレジアは植物の世話が好きだった。当主の厳格さを知らない新入りの庭師が、世話の様子をみていたテレジアにたまたま弄り方を教えてくれたのだ。その後、一人娘に余計なことを教えたとして新入りの庭師は解雇され、テレジアはきつい罰を受けたが、機会があればまた自分で土をいじってみたいと、テレジアはずっと思っていた。
植物は、テレジアの心を慰めてくれる。長年夢の実現に怯え恐怖しているテレジアにとって、植物は裏切らないからだ。テレジアの育てた通りに花を咲かせ、決まった通りに枯れていく。
一年後家を出て市井へ下ったら、何か植物に関する仕事につきたいという願望がある。そのためには、夢の通りに進んで馬車で死ぬなんて困るのだ。
人の目(主に侍女の)を盗んで、来れるだけここには来ている。特に気分が落ち込んで夢を見たくないと眠れなかった朝は、温室で植物の世話をしていれば徹夜の辛さも心のつかえも緩和された。
鞄と上着をベンチに預け、近くを流れる川から水をくむ。落ちていた蓋のかけたジョウロで必要量だけ水をやり、不要な葉や蕾は間引いていく。
このひと時だけ、テレジアは煩わしいあれこれを忘れられた。
そうして、どのくらい経ったのか。ふいに蝶番のきしむ音がして、テレジアはぎくりと肩を強張らせた。たまに風で鳴ったりするが、続く足音にそうではないと悟った。
「――やっぱ人いた」
少し高めの男の声だった。
テレジアは背を向けているが、この状況で何をしているのかは一目瞭然だ。小さな温室で、顔を見られずに出ていくのはまず無理であるし、テレジアの髪の色はこの学院では珍しい方に入る。
どうするべきか、逡巡する。夢ではこの温室に乱入者なんて一度も見ていなかったので、うろたえそうだった。一年を追うものではあったけれど、全ての出来事をカバーできているわけではないらしい。
――ごまかしきれない。
観念して、テレジアはゆっくりと振り向いた。とことん、この一年は私から全てを奪って行くらしい、と、思いながら。
立っていたのは、声の通りの男子学生だった。
おそらくは下級生だろう、長めの茶髪に、猫のような榛の瞳が特徴的だ。まだあとけなさが残りながらも、美形といってよい顔立ちをしている。着崩した制服を見るに、そんなに高い家柄ではなさそうだ。上流貴族は、人前に出る際の衣服の着用方法について叩きこまれるからだ。
「ここの花とかの世話してる妖精って、アンタ?」
人懐っこい笑みを浮かべて近づく男子学生を、テレジアは警戒心を持って見上げる。
「妖精ですか…?」
「そ。ずっと気になってたんだよね。サボるのにちょうどいい寂れた温室だったのに、なんか途中から綺麗になりはじめたからさ」
初対面の人間に対するその砕けた口調はなんだ、とか、変なあだ名をつけるな、とか、言いたいことはあったけれど、テレジアはまず自分のうかつさを呪った。
テレジア以外にも、ここを見つけている人間がいる可能性をどうして考慮していなかったのだろう。学院内の地図に記載がないし、寮から学舎までの道ですら馬車を使おうとする貴族の多さに、わざわざ木々をぬって長時間歩くのなんてありえないと思ったのだ。
しかも話しぶりから察するに、彼の方がテレジアよりも早くこの温室にたどり着いていたらしい。今日まで遭遇しなかったのが、奇跡だ。
「誰が弄ってるのかいつか見つけてやろうと思ってたけど、まさかこんな美人な妖精とはなぁ。嬉しい誤算ってやつ?」
「……妖精ではありません」
「じゃあ名前は?」
「っ……」
名前を告げるのは躊躇われた。名を知られていないのであれば、バレずにこのまま離れたい。
しかし目の前の男は、テレジアのためらいにニヤリと口の端を上げた。
「なんてね。知ってるよ、テレジア・トゥルニエ伯爵令嬢でしょ」
「……意地が悪いと言われませんか」
目に強く非難の色を乗せるが、どこ吹く風で続けられる。
「イイ性格だって褒められることはあるよ」
「私は褒めてません」
「あ、俺ベルンハルト。アンチェロッティ家の三男。気軽にベルンでいーよ。先輩の一個下だし」
アンチェロッティ家は、確か数代前に騎士が武勲を立てて男爵位を賜った、新興の一族だ。
「ミスター・アンチェロッティ、お父上は貴方に上のものへの接し方を教えなかったようですね」
「ベルンだって。俺はテレジアって呼んでもいい?」
「ミスター・アンチェロッティ、人の話を…」
「ベ・ル・ン」
ほら、と笑むベルンハルトに、テレジアは怒り、それから戸惑いを覚えた。
初対面の、しかも相手の方が高位だとわかっているのに、この態度はなんなのだろう。いくら新興で成り上がりの男爵家といえど、騎士の家系は礼節を重んじるのではないのか。
それにくわえて、テレジアは異性だ。一年後に破棄されるかもしれないとはいえ婚約者もいる。そんな相手に慣れ慣れしくして、不貞を疑われた場合に立場が弱くなるのはどちらかといえばアンチェロッティ側だ。トゥルニエ伯爵家にというよりも、オステルヴェルク公爵家に喧嘩を売っているようなものである。
公爵家に取り入る目的がある、とか? いやしかし、なんとなくテレジアの身分や立場には興味がないように見えた。
名前を呼ぶなど、金輪際関わり合いになりたくないし相手にしたくないのに、それをしなければ解放してもらえない雰囲気を感じる。テレジアがベルンハルトの名前を呼ぶことに、どうしてそんなにこだわるのか。
「いいじゃん。呼んでくれても」
「必要性を感じません」
「呼んでくれないと、口がすべっちゃうかも。温室の妖精は、テレジア・トゥルニエだって。お嬢様が土いじりしてるなんて、俺は気にしないけど気にする人多いよな?」
ひくりと口がひきつる。なんだこれは、脅しなのか。
「どうして、そこまで」
「ここの共有仲間だから。仲良くしたいじゃん」
そう告げるベルンハルトの顔には、脅しと言うには邪気がなかった。本当に、純粋に、植物を育てている風変りな妖精と仲良くしたいだけに見える。
テレジアは少し迷い、それから肩の力を抜いた。
「言わないでくれますか」
「名前で呼んでくれるなら、もちろん」
「…………。わかりました、ベルンハルト」
「ベルンでいいんだけど、ま、いいか」
どうせ、あと一年の仲だ。頻繁に会うとも思わないし、期限までに父にバレなければそれでよい。
「よろしく、テレジア」
よろしくしない方がいいですよ、とテレジアは心の中で呟いた。
不思議なことに、その夜から夢を見なくなった。