17
まさかこんなところで会うとは。
学院に入ってからずっと図書館には通っているが、一度もユリウスと遭遇したことがなく若干呆気に取られ、礼をするのが遅れてしまう。慌てて裾をつまんで頭を下げた。
エリオットと共にいるのだから、執行部の用事か何かだろうか。
「ごきげんよう、殿下。エリオット」
「やあテレジア嬢。ベルンが随分懐いてるらしいね」
親しげな呼び名に、テレジアは顔を上げてベルンハルトとユリウスを見比べた。アンチェロッティ家に王族は目をかけていると父から聞かされていたが、そこまで親密な関係だというのは予想外だ。もし父が知っていたのであれば、なるほど味方につけろという命令も頷ける。
しかし、友好的なユリウスとは反対に、ベルンハルトがユリウスに向ける視線は苦いものが含まれていた。
「なんでこんなとこにいんの? 王城の書庫にでもいけよ」
「別に本を借りにきたわけではないんだが……、そういうお前もこんなところにいるのは珍しいじゃないか。真面目に学ぶ姿勢が見られないと、男爵が嘆いてたぞ」
「デンカに心配いただくこっちゃねーです」
「……ベルンハルト」
いくら親しいと言っても王子相手に砕けすぎた言葉使いに、テレジアは窘めるために名前を呼ぶ。だが、ユリウスは軽く笑って気にするなと逆にテレジアを制した。
「いい、いい。昔からこいつはこんな感じなんだ」
「仲が……よろしいんですね」
「待ってリザ、落ち着いて。仲なんてこれっぽっちもよくないから!」
強めの語気で否定するベルンハルトに、背後からゴホンと咳払いが飛ぶ。司書からの「うるさい」という注意だ。テレジアと同じように意図を察したベルンハルトは、気まずそうに口をもごもごと動かした。
そんな様子を、ユリウスが笑う。
「君たちこそ、随分と仲がいい」
「そりゃあんたよりはな。……リザ、行こう」
「え、ええ。それでは」
二度も注意されてしまい、このままここで立ち話を続けているのは憚られる。二人の用事の邪魔をするのも気は進まず、また、しきりにユリウスがテレジア達の仲に言及するのが気になった。
いつどこで知り合ったのか、訊かれてうまく答えられる自信がない。正直にあの日の出来事を話すことは、エリオットに土いじりを知られてしまうということで。なんのためにこそこそと人目を盗んで寂れた温室で手入れをし、ベルンハルトに付き合っているのか。
先ほどと同様に一礼をし、エリオットの横を通って外に出ようとしたら――腕を掴まれた。
「……待って、リザ」
呼び止めたのはエリオットだった。
なんとも言えない苦笑に近い形でテレジアを見下ろすエリオットに足を止めて、首を傾げる。
「どうしました?」
「ちょっと話したいことあって。このあと用事ある?」
「いいえ、もう部屋に戻るだけですが。貴方こそ殿下とご用事がおありでは?」
「そんなに急いでないから」
わざわざ呼び止めるほどの用事とは。直近で、何か大きな行事も出来事もテレジアの記憶する限りではなかったが。
思い浮かぶとしたら、この間のノエルとのお茶会ぐらいだ。一応和やかに終わった、はず、である。それでも、何か知りたいのだろうか。
早く、と片手が本で埋まっているために体全体で扉を押さえていたベルンハルトに、テレジアは先に行けと促した。
「戻っていて大丈夫ですよ。私は少しエリオットと話していきます」
「んー。デンカには気を付けてね」
「おいおいオレを悪者みたいに言うんじゃないよ」
やれやれと肩を竦めるユリウスは、言葉ほど気にしていないように見えた。
「ま、なんかあったら聞くから、その時はよろしく」
最後にいつものようにへらりと笑って、ベルンハルトは扉の向こうに姿を消した。
ゆっくりと閉まる扉に向かって、腕を組みながらユリウスがぼそりと呟く。
「ほんと、どういう心境の変化だか」
扉を見つめるユリウスのアイスブルーの瞳に乗った感情は、テレジアでは読み取れない。テレジアの視線を感じたユリウスは、いつもの気さくな笑みに戻り横髪をかき上げる。
「不思議そうな顔。オレとのこと、あいつから聞いてない?」
「彼の交友関係に口を出すほど、親しいわけではございませんから」
「そりゃ、君はそうか。アンチェロッティが騎士家系っていうのは?」
「……父から軽く」
「伯爵もめざといねぇ。あそこの家はおじい様と父上のお気に入りで、ちょくちょく子供も一緒に城に招いてたわけ。あいつとはそこからの知り合い」
功績を認められて爵位を下賜されたという話は知っていたが、ダストンの言う様に覚えがめでたいよりも更に気に入られているようだ。男爵夫妻のみならず、家族丸ごとを城に招待するなんて。
そうなんですか、と相槌を打つテレジアに、ユリウスはふとにやりと唇を弧に描いた。
「伯爵は、その話を君にしたとき他に何もなかったのか?」
「何も、とは?」
「ベルンに取り入れとか、うまく使って王家と渡りをつけろ、とか」
よく御存じで、と思わず手を打ちそうになったが、エリオットにつかまれたままの腕ではそれもできなかった。傍から見ていても、父の上昇志向はわかりやすいらしい。
国内でも数家しか存在しない公爵家との縁談をまとめるくらいだから、野心家であるのを否定するのは、まあ無理があるだろう。
「機嫌は損ねるな、とは申しつけられております」
「なるほど。余程のことが――あいつの地雷を踏み抜くとか、がない限り、怒らないだろうから安心したらいい。とは言っても……、君のことはかなり気に入っているみたいだから、君なら平気かもしれないけどな」
地雷を踏み抜くほど親しくするつもりはないが、肝に銘じると神妙に頷いておく。今の状態がかなり親しい間柄に見えるかもしれないという考えは、頭の片隅においやった。どのみち来年の夏には繋がりがなくなるのだから。
「さて、あんまり館内で無駄話するのもなんだな。エリオット、話すなら外で話せよ」
「わかってる。リザ、行こう」
「はい。殿下、失礼いたします」
頭を再び下げ、エリオットの話を聴くべく図書館の外へと腕を引かれて出た。
図書館は、学舎から渡り廊下でつながれた独立した建物だ。外に出ると、すっかり冬になった冷たい空気にふるりと体を震わせる。もう一月すれば年も明けるし、あと半月で学院も冬の休みに入るのだ。
寒さに体を縮めたテレジアに、エリオットは慌てて風のできるだけこない隅へと誘導した。
「ごめん、すぐ済ますから」
「いえ、すみませんこれくらいなら平、気……っ」
自身の体温より幾分か暖かい手で、両手を包まれる。驚きで上ずった語尾に、エリオットは小さく笑みを溢した。
「え、エリオット…?」
「せめて寒くないように、ね」
「あの、そんな、大丈夫ですから」
「俺も寒いんだ。こうしてたら少しはあったかいだろう?」
エリオットが寒いのならば仕方ない。風の防波堤になってくれているので、そう言われてしまったらテレジアはそれ以上の反論ができなかった。
触れる男らしい筋張った長い指に、ソワソワと落ち着かない気持ちにさせられる。心なしか体温も上がっているようで、確かにこうしていれば暖かいのは間違いなかった。心臓にはすこぶる悪いが。
「まず、この前のノエルのことありがとう。すごく楽しかったって、喜んでいたよ」
「自分の責任を果たしたまでです。気にしないでください」
やはりノエルのことだったか。
しゅるしゅると、触れている手でもたらされた浮ついた気持ちが萎んでいった。触れあいに、暖を取る以上の何かがあるわけではない。そんなこと、わかっている。誰に対してもこうして触れはしないと思うが、テレジアを意識していないからこそできるのだろう。
落胆を、そっと白い息に逃がした。
「それで、彼女がどうかしましたか」
「うん? それだけだけど、どうかって?」
「……そのことではないんですか?」
「違うよ。お茶会っていうのであれば近いけど、その時、俺ともお茶しようって誘ったの覚えてる?」
「はい」
予想と違う話の続きににテレジアは目を瞬かせた。
まさかあの誘いが有効だったなんて。寒くなる前に、という話だけしてその後は音沙汰がなかったので、てっきり流れたものだとばかり思っていた。
「それなんだけど、今王都に母上がきていて」
「エリーゼ様が?」
年越しを控えるこの時期に、領地から公爵夫人が出てくるのは珍しい。通常ですら五日かかる行程が雪に足を取られ時間がさらにかかるので、テレジアたちの住む地域の人間は極力領地から出ないのが一般的だ。
しかも公爵は、内政で深い部分を担う重要なお方で、王都滞在時間も多い。その間、邸宅を守るのは屋敷の女主人である公爵夫人だ。年明けの王家の挨拶のために、公爵は年末年始王城で過ごす。だから、この時期に公爵夫人がオステルヴェルク領から離れるのは滅多になかった。
「領地は兄上に任せて、たまには王都で羽を伸ばしたいらしいんだ。それで、茶葉のお礼ついでに何のお菓子が合うかきいたら、誰と食べるのかって話になって」
「私と、とお伝えされたのですか?」
「もちろん。そしたら、……母上が君と久々に会いたい、と」
「ええ、それは構いませんが」
少し言いづらそうに切り出されて、身構えていたテレジアはなんだそんなことか、と肩の力を抜いて誘いに頷いた。
公爵夫人とはかれこれ数年は顔を合わせていない。たまの公爵家訪問時に都合悪く不在だったり、トゥルニエ邸で親を伴わず会ったりする機会が増えたからだ。愛想の悪いテレジアにも優しくにこやかに接してくれて、会えば必ず気にかけてくれる素敵な女性。
王都にきているのであれば、テレジアとしても一言挨拶するのはやぶさかではなかった。
「リザ、年越しは領地に帰る?」
「冬の休みはいつもタウンハウスで過ごしています」
「伯爵は? 出てきてるの?」
「まさか。父は冬の間、滅多なことがない限り領地から出ませんよ」
「なら、年越しは一人?」
「はい」
学院に入ってからは、年末年始はクリスの作る料理と共に粛々と過ごすのが今までの年越し方だった。年始数日はクリスに暇を与えるから、一人と言えば一人である。
テレジアの返事にエリオットは、ほっとしたような――どこか痛ましさを耐えるような、そんな金の瞳を細めた。
「年越し、うちでしない? 父上は年明け少ししないと休みにならなくて、母上と俺の二人なんだ。母上も是非にと言っているし、リザさえよければ」
部屋も余ってるから、と、握った手に込める力を強くして誘うエリオットを、テレジアは暫し無言で見つめた。
新年は親しい人と迎え祝うのが、この国では普通だ。大体は家族とのんびり過ごす。――父は、テレジアが領地に帰らなくとも気にはしないが。帰っても雪のせいで始業までに学院へ戻れないことの方が、よくないという考えだ。かといって、王都にきたりはない。
だからずっとテレジアは広いタウンハウスで独り、学院が始まるのを待っているだけだった。年越しを一緒にしようなんて声をかけられるほど親密な相手が、今までいなかったからだ。
エリオットだって、婚約してから十二年経つが一度も年越しの話を出したことはない。エリオットは、年越しのためだけに領地に戻る人間だ。政務で家を空ける公爵の代わりに公爵夫人と過ごすためだろうが、それにテレジアを誘ったことはもちろんない。
そういうわけで、年越しの誘いが思いがけなくて――意味を噛み砕くのに時間がかかってしまうのは仕方なかった。
「リザ……?」
「……ど、うして。私、なのですか」
ようやく誘いを理解したテレジアがまず考えたのは、誘う人間を間違えているのではないか? という疑問だった。
「もっと、いるでしょう? 私でなくても」
ユリウスや、ノエル。テレジア以上にこの婚約者に近い、あるいはこれからもっと近づく相手はいる。わざわざテレジアをそんな日に誘わなくたって、侯爵夫人への挨拶は今週末にでもしたっていい。
拒絶とも取れるテレジアの返しに、エリオットは顔を曇らせた。
「じゃあ君は、誰と過ごすの」
「先ほど一人とお伝えしました」
「……なら、別にいいだろう?」
「わ、私がよくてもですね」
「俺や母上が招きたくて誘ってるんだから、リザがよければいいんだよ。リザは来たくない?」
行きたくないか行きたいかと問われれば、行きたいに決まっている。けれど、どうして。という思いが先立ってしまう。
エリオットが何を考えているかわからない。最近のエリオットは変だ。彼にとってテレジアは、ただの義務で接しているだけの相手のはずなのに。こんな風に、籍もいれていない時期に年越しを誘う相手では、決してない。むしろ、テレジアが学院を卒業して婚姻を結んでからずっと、一緒だ。それを考えれば、残りのわずかな時間をテレジアのいない自由な時間に当てたいと思っていても、おかしくないだろう。
困惑に揺れる瞳を隠したくて、顔を伏せる。エリオットの手に包まれた自身の手が視界に入って、テレジアはそっと下唇を噛んだ。
勘違いしそうになってしまう。エリオットにとって、自分も大切な相手の一人かもしれないと。好かれる資格などなくて、浮かれて後で叩き落されるのはテレジアだと重々承知しているのに。
瞳を閉じて、数秒。なんとか冷静さを取り戻して、顔を上げた。
「――…ご迷惑では、ありませんか」
「迷惑だったら誘ってないって」
「でしたら、お誘いをお受けいたします」
「本当? よかった」
安心したように顔を緩ませるエリオットの表情に、嘘は見えない。言葉通り、テレジアが誘いを受けてよかったと伝えてくる。
「ごめん、長く引き留めたからすっかり冷えちゃったね。教室まで送るよ」
「ありがとうございます。ですが、結構です。殿下をこれ以上お待たせできません」
「あいつもたまにはたくさん待った方がいいんだ」
「執行部のご用事でしょう? そちらを優先させてください」
やんわりと手を外させる。名残惜しそうに視線を落としたエリオットに、テレジアは頭を下げた。
「失礼いたします」
「あ、リザ」
「はい?」
「…………いや」
まだ何か、と首を傾げるテレジアにエリオットは何かを言い淀み、なんでもないと苦笑した。
「気をつけて」
「エリオットも、あまり無理をなされないよう」
ようやく私生活が落ち着いてきましたので、徐々にペース戻していきたいです。