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埃と古ぼけた紙とインクの匂い。本来なら紙をめくる音しか耳に入ってこない図書館に、今日は雨粒が窓を叩く音も響いていた。
学院の図書館は、利用者が少ない。大抵の貴族の生徒はほしい本があれば王都の書店から取り寄せるし、書名を指定すれば図書館の本でも部屋まで届けてくれる。お金をあまり持っていない平民の生徒が、課題や自身の研究のために訪れるぐらいだ。
人も少ないし静かなので、テレジアはよく足を運んでいる。学期中は学院からほとんど出ないから、必要な本はこの図書館で用立てることも多かった。なので、そこそこ蔵書にも詳しいと自負もしている、のだが。
分厚い緑色の背の本を書架から引き抜き、中身をパラパラと確認して目的の内容の本であるのを確かめたテレジアは、隣でいくつか本を抱えているベルンハルトに「これも」だと押し付けた。
「えぇ……、まだあんの?」
「最初から複数冊あわせて参考にしないと、必要な個所をすべてさらえないと申し上げましたが」
「全部分厚いじゃん、これ」
「しょうがないでしょう、娯楽用の大衆小説じゃないんですから」
げっそりと、大袈裟なまでにベルンハルトが顔を歪めるが、それには構わずテレジアはもうこの棚には用がないと踵を返した。
ベルンハルトに本を渡しているのは、何もテレジアが借りる本の荷物持ちにさせているわけではない。男子生徒には必須で女子生徒には選択制で受講する領地経営学のの課題で書かされる論文で、何をどう参考にすべきなのかわからないから、わかりやすい本を教えてくれと言うので、渋々付き合っているのである。
四年にあるその領地経営学は、講師が気難しいことで有名で、きちんと資料提示をした上で論文を書かないと認めてくれないのである。受ける必要がないその講義の受講を申し込んだ時、周りからは奇異の目で見られた。
この学院の授業は必修と選択の科目にわかれているが、正直なところ必修でいい評価をもらえなくても落第はしない。どんなに授業に出なくても学年は自動的に上がっていくし、サボっていても卒業はできる。けれど、卒業時に出される七年間の成績の総合評価が卒業後の人生に関わってくるのだ。
いい成績を収めていれば官吏になりたい場合は有利であるし、王宮での侍女職を希望する女子にとっても、働くにふさわしい品格を身に着けているという証になる。もちろん、結婚する場合も相手がどんな人間かを判断する上で重要視する家もあった。
「嫌ならば、無理に課題を終わらせなくても良いのではないですか? 失礼ですが、必死に良い成績をとるタイプには私には見えませんし」
「俺は確かに気にしないんだけどねー。入ったからにはそれなりにしろって父さんがうるさくて」
「でしたら、我慢することですね」
「リザが去年書いたやつ見せてくれてもいいんだよ?」
「残念ながら、あの先生は過去の生徒の課題内容を全て転記された上で、都度不正していないか確認される方です。私の評価まで下げられてしまうので、お断りします」
「あはは、デスヨネー」
知ってたと、断られても意に介した様子のないベルンハルトは、本を抱えなおした。厚みのある専門書を数冊は、男性でも持ち辛いかもしれない。
「まぁいいや。つまったとこあったら訊けばいいし」
「つまる前提ですか…?」
「かわいい後輩のために相談くらいは受けてよ」
「……かわいい?」
「疑問に思うのそこ? ひどい! 俺とリザの仲なのに!」
「しっ! 声が大きいですよ」
ベルンハルトの張り上げた声に、図書館にいる生徒の責める視線が集まるのを感じて、テレジアは強く注意する。静寂を愛する館内で騒げばつまみだされるのだ。ただでさえあのさびれた温室を不本意ながらも共有しているのに、更にテレジアの憩いの場を奪われるのは勘弁してほしい。
ふざけすぎた自覚はあるのか、ひそひそとベルンハルトに謝られる。わかればいいと首を振って、テレジアは書架を抜け入り口のカウンターへと向かった。
「これで終わり?」
「はい。わからないものがあれば、都度補足の資料を探してください」
「わかった、訊くね」
「…………お好きにどうぞ」
せめてもの抵抗で、答えるかどうかは明言しなかった。
カウンターには、学院に入学した五年ですっかり顔見知りとなったいつもの司書が座っていた。細身の男性で、テレジアを目に留めると眉を下げて笑みを作る。
「館内ではお静かにお願いします」
「失礼いたしました。以後気を付けさせます」
「ごめんな、おにーさん」
カウンターに本をどさりと置きつつ、ベルンハルトは軽く謝罪した。
「いいえ、利用してくださる生徒さんが増えること自体は喜ばしいので。本日は貸し出し希望ですか?」
「そ。よろしく」
「では手続きしますので、こちらの書類に必要事項の記入をお願いします。部屋までの配達はいかがしますか?」
「いや、自分で持ってくよ。いないときに来られても受け取れないし」
「かしこまりました」
本を借りる時には、期日までに返却などのいくつかの要項に合意する、という書類を記入しなければならない。おそらくこの書類の手間もあって、利用者が増えないのだとテレジアは思っている。学院設立当初からある古い貴重な本などもあって、膨大な数の書籍を状態を出来るだけ最善に保ちながら運営していくには、必要な手間なのだろうが、自身の面倒が増えるのを貴族は嫌うので、不評なシステムだった。
本と引き換えに書類を受け取ったベルンハルトは、普段の行いからは想像できないほど流麗な文字で必要事項を記入していく。失礼だが意外で、テレジアはマジマジと文字を見つめてしまった。
「ん、何?」
「文字、整っているんだな、と」
「みんなそれ言うんだよなぁ。母さんが厳しくて、無駄に練習させられただけ」
それも意外で、目を丸くする。親が厳しいにしては、ベルンハルトは緩い面が多すぎるのだ。
テレジアの驚嘆を感じ取ったベルンハルトは、文字を書く手をとめてにやりと口の端を上げた。
「躾が厳しい風に見えないって?」
「いえ、はい。そうですね」
「そりゃね。厳しかったけど、ちっこい頃に死んじゃったし」
「……すみません、踏み入ったことを」
「いーよ別に。未だにショックで夜も寝れないとか、そういうんじゃないから」
気にするなとベルンハルトは笑うが、テレジアは重ねて謝罪した。不躾な言及であったことには変わりがないからだ。
なんとなく、ベルンハルトは円満な家庭で育ってきたのだと、勝手に思い込んでいた。物おじしない姿勢や普段の騒がしさからは、身内に不幸があったなんてかけらも匂ってこない。二人いるという兄含め、亡くなった母親の穴を埋めるほど家族が親密なのだろう。テレジアのように生まれてすぐ亡くしたせいで、母親がいたという実感がないわけでもないのに。
前傾姿勢でベルンハルトが頬杖をつきながら、ペンの尾で紙をたたいた。
「見ての通り、全然躾の内容とか身についてないよ。あんま真面目に覚える気もなかったし。書き文字とか、たまーーに、昔取った杵柄って言うの? あーいう感じで出るだけ。どうにも文字は崩せないんだよなぁ」
「字が綺麗にこしたことはないと思いますが」
「意外だって顔されるの見るのは面白いけどねぇ。リザは死ぬほどきっちりした字書きそう。歪みは許さない系の」
「何系ですかそれは。整えるように意識してるのは事実ですけれど」
「でしょでしょ。というかそれだけじゃなくて、リザってあらゆることがクソ丁寧だよな」
すごいよね、なんて言いつつ、どちらかというと呆れを感じさせるトーンでベルンハルトは続けた。
「誰に対しても丁寧っつーか、かたすぎるっていうか。小さいころからずっとそんな話し方なの? 肩こんない?」
「ご心配なく。私にはこれが”普通”です」
元々テレジアはあまり器用な性質ではないから、相手の立場によって口調を切り替えて失敗することによって、父親に叱責されるのを恐れたのだ。とにかく怒られないようにと誰に対しても間違いのない敬語の練習をしていたら、自然とそれが身についていた。今は、砕けた話し方をするほうが難しい。
エリオットやクリスなど、多少慣れている相手には多少は緩くなるが。あの夢日記くらいだろうか。完全に敬語を取り払っているのは。
「貴方は、よくそれほど力を抜けますね」
ベルンハルトを表すならば緩いの一言だ。今だって、相変わらずジャケットの前は開いているしネクタイは緩くボタンもいくつかはまっていない。茶色の髪は、寝癖こそないものの無造作に流されている。
「俺の座右の銘、適当だから」
「……いいですね、気楽で」
羨ましいと思う。家の重圧も将来の不安も、何もないのだろう。そんな風にしがらみなく生きられたら、どれだけよかったか。
テレジアのため息交じりの返しに、ベルンハルトはふ、と彼らしくない――静かな笑みで応じた。今までにない表情で、テレジアはたじろぐ。
普段通りの応酬だったはずだ。このくらいのすげない対応、いつだってしてる。それなのに、今回だけどうしれそんな表情を。
しかしそれも一瞬で、すぐにベルンハルトはにへらと恰好を崩し、再びペンを進めた。
「貧乏下級貴族の三男のある意味特権? 兄貴二人が優秀だからありがたいよな……っと。よし、書けた。これでいーの?」
「ありがとうございます。確認いたしますね」
目録から顔を上げた司書は、ベルンハルトから書類を受け取る。ざっと目を通し、不備はないと頷いた。
「では、こちらで貸し出しを承ります。延長をご希望の場合は、別途申請ください。貸し出し証明書を本に挟んでおきますので、返却時までなくさずに保管をお願いいたします」
「ありがと。はー、めんどいけど持って帰るかぁ」
大袈裟にため息をつきベルンハルトは肩を落としてから、本を持って、そしてテレジアを伺うように首を傾けた。
「リザはなんか用事ある? 俺もう行くけど」
「……、いえ、私も今日はないので、戻ります」
「オッケー。じゃね、司書のおにーさん」
「またのご利用お待ちしています」
深々と頭を下げた司書に目礼して、入り口に歩き出したベルンハルトに続く。
さっきのは、謝るべきだっただろうか。
テレジアよりも十センチほど高くある横顔を盗み見ながら、思案して、否と結論付けた。すぐに流したということは、蒸し返すのを望んでいないに違いない。次から気を付ければいい話だ。
ベルンハルトなら何を言っても気にしないと、無意識に思い込んでいた。気づけばそれはあまりにも失礼で、意識を改める。夢でこじれたのも、こういう慢心が影響していたのかもしれない。
視線を前に戻すと、タイミングよく図書室の扉が開いて、入ってきた生徒たちにテレジアは思わず足を止めた。
「げぇ……」
同じように止まったベルンハルトは、小さく嫌そうな声を上げる。
しかし入室者はそんなベルンハルトとは真逆に、テレジアたちを見つけると興味深そうに笑った。
「話には聞いてたけど、ほんとに知り合いだったんだな。な、エリオット」
そこにいたのは、――ユリウスとエリオットだった。