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日記のページをめくり、古くかさついた紙を指で撫でる。
冬の年越しの短期休みまで、主だったイベントはあと一つだ。明日に迫ったノエルとのお茶会は完全にイレギュラーなので除外するとして、それを乗り越えれば休みに入れるのは嬉しい。
夢の通りに事が進むのか、そうではないのか。いい方向へ進んだと思っても、予想外の出来事に疲弊する。特にテレジアを混乱させているのは、エリオットの言動だった。
彼は――あんなに、甘かっただろうか?
優しいのは昔から変わらない。テレジアみたいな不愛想な女にも、婚約者というのを抜きにしても親切だ。しかし最近は、それだけではどうにも片づけられないような、ノエルと出会いによってもたらされると身構えていたテレジアへの態度の変化とは、正反対なのだ。
テレジアは彼に対して何も変わっていないし、ノエルへの注意は不快そうにたしなめられた。エリオットの好感度を稼げるようなこともない。それならば、執行部で関わりの強いノエルの方がよっぽど機会は多いし、彼女はうまくやっているはず。
「夢は、ただの夢……?」
予知夢でもなんでもなくて、これまでの出来事が実現したのはただの偶然で、エリオットは自分との結婚を受け入れてくれている?
呟いてから、ありえないとテレジアは首を振った。諦めが悪いにもほどがある。偶然にしてはすべてが出来すぎだというのに。
夢では、散々エリオットの逆鱗に触れ、最後に取り返しのつかないミスをしてようやく「君とは一緒にいられない」と告げられる。エリオットは情に厚いから、あそこまで大事になりテレジアが糾弾されるまで堕ちなければ、もしかしたら婚約破棄にまで及ばなかったかもしれないが、その先の生活は必ず破綻しているだろう。
今がどうであれ、揺れるな、とテレジアは自分に言い聞かせる。自分は彼にふさわしくない。こんな自分にも優しくしてくれたエリオットに、少しでもいい形で終わらせるのが彼への報いなのだから。
考え込みながらぼぅ、と追っていた文字列に、テレジアは意識を留めた。このページは、この前のお茶会を夢でみた時の記述だ。
”どうして、と、ノエルをかばうようにして支え建物に向かうエリオット様に、私が小さく呟いた。どうしてその子ばかり、と。
それに対して私は思う。エリオット様の好みが彼女だというのなら、私がどんなに努力をしたところで、ノエル・ヴィッテンブルグでない時点で敵うわけがないのに。
夢の私もきっと、それはわかっているんだと思う。わかっているからこそ、ノエルになれない自分に苛立って、その苛立ちを彼女にぶつけてしまうのだ。その嫉妬をみっともない、やめて、と思いつつ気持ちが理解できてしまうから、夢の中で泣けずに唇をかむ私のために、寝ながら泣いている自分に私は朝起きて気づく。
まわりにバレないように取り繕わなくては。特にクリスは目ざといから、起きる時間を早めにした方がいいかもしれない。”
もしも彼女になれたとしても、テレジアがノエルと同じようにエリオットに好意を向けられるのは、きっと難しいだろうと、テレジアは数年前の自身の筆跡を指でなぞった。
いいお天気になってよかったですね、と、クリスが机上に活けた花を整えながら笑う。
ノエルとの約束の日は、ここ最近で特に暖かい日となった。肌寒いかもしれない、と不安に思っていたガラス張りのサンルームの中は、日差しも手伝って心地よく、日暮れまでは快適に過ごせるだろう。
サンルームの中は、学院の庭から先ほど分けてもらった大ぶりの薔薇の馨しい香りと、三段のハイティースタンドに乗った軽食、スコーン、ケーキにたっぷりのジャムの匂いが広がっている。
約束の時間までもうすぐ。テレジアは、伝えられるはずのノエルからの”お願い”を考えるぞ落ち着かず、サンルームのの端の観葉植物の葉を無意味に揺らした。こういう上背のある植物も、落ち着いたら育ててみようか。なんて、考えながら。
そんな時、カタリと扉の開く音がした。
きた。
さっと葉から指を離し、入り口を振り返る。扉を開けた格好のノエルは、いつも下ろしているストロベリーブロンドをハーフアップにしていて、それだけで少し大人びて見えるから不思議だ。
きょろり視線をさまよわせテレジアと目が合うと、ノエルはスカートの裾をつまんで優雅に頭を下げた。
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
それは、入寮時にたどたどしく挨拶をしていた少女とは思えない、完璧な淑女の礼だった。
甘いものが好きだろう、とミルクによく合う茶葉を使った色の濃い紅茶をカップにつがれ、その様子をにこにことノエルが見守る。笑うと、いつも通りの可愛らしい年下の少女だ。
角砂糖を二つにミルクをたっぷりと。混ぜながら、匂いにうっとりとするノエルを、自身もカップにミルクを注ぎながら伺う。
両手でカップを持ち上げて、湯気を立てるミルクティーをそっと口に含んだノエルは、更に顔をほころばせた。
「……、おいしい! すごい、まろやかです!」
「気に入られたのでしたら、差し上げましょうか」
「本当ですか!? あ、うーん、でも私だとこんなに美味しく淹れられないなぁ」
「侍従に頼めばよろしいのでは?」
「私、今年は侍女さん連れてきてないんです。だから、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「……連れていらっしゃらないのですか」
侯爵家が娘に侍従をつけないなんて。
ありえないと訝しむテレジアに、ノエルが苦笑する。
「連れていけとは言われたんですけど、まだ人にお世話をされるっていうのがちょっとむずがゆくて。色々慣れる方が先だって説得して、今年はなんとか免除してもらったんです。だから、来年までにはなんとかしないとなんですけど」
それでもよく、当主が了承したものだと感心した。侍従は、身の回りの世話をさせるというのももちろんだが、おそらくノエルに対しては彼女をできる限り一人にさせたくない、という思いも強かったに違いない。幼少期に誘拐されている彼女に、侯爵が信頼できる誰かの目を常に起きたいと望むのは当然だ。
しかしノエルの思いを汲んで譲歩したのは、十数年ぶりに再会した娘への距離を測っているからか、相当娘に甘いのか。諦めずにずっとノエルを探していたくらいだから、おそらく後者だ。
長年離れていても侯爵に思い続けられたノエル。対して、一緒に暮らしていても血の通った交流などほとんどなかったテレジア。こういうところまで、差があるらしい。
テレジアの内心の自嘲に気付かないノエルは、そんなことより、とそわそわ浮かれたようにテレジアを上目遣いで見た。
「さ、さっきのどうでしたか」
「さっきの?」
「最初の挨拶です。う、うまくできてました?」
「あれですか」
じっと空色の瞳を見つめると、期待するようにごくりとノエルが喉を鳴らす。紅茶を淹れおわりサンドイッチを皿に取り分けていたクリスが、それに笑むのを横目に見つつ口を開いた。
「驚きました。とても、完璧な礼だったと思います」
「! やった!!」
素直な感想を口にすると、よほど嬉しかったのかノエルは飛び上がらんばかりに両手を上に上げて、声を上げた。
そこまで大げさに反応されるとは。テレジアは瞠目しつつ、こほんと咳払いをした。
「……今の大声ははしたないかと。私がマナー講習の講師であれば、今ので減点しています」
「うっ。はい」
「ですが」
テレジアのたしなめに項垂れるノエルに、テレジアは仕方ないと嘆息して続ける。
「今は私的なお茶会であってマナー講習の場ではございませんから」
よかったことに変わりはない、と、遅れて紅茶に口をつけたテレジアに、ノエルはしおれからみるみるうちに復活して、えへへ、なんて肩の力を抜いた。
「何か一つでもトゥルニエ様にいいと仰っていただけるように、とりあえず礼を練習したんです。最初にあっと驚かせられれば、きっとトゥルニエ様の印象もよくなるからって、エリオット様に言われて」
「私の印象をよくしないと、正式なお茶会に出られないのが嫌ですか?」
「そうではなく! トゥルニエ様はお厳しいので、そんなトゥルニエ様に認めてもらえたら、それはどこでも認められるようになると思うんです。だから、少しでも印象よくして合格ラインに近づけたらなぁって」
「……なんです、それは」
いつの間かにテレジアが基準になっているのはなぜだ。公平に認めるなんて限らないのに、その信頼がどこから来ているのか疑問で、テレジアは顔をしかめた。そんな己の主人に、クリスがクスクスと笑い声を漏らした。
「クリス……」
「失礼いたしました、お嬢様。いえ、随分と責任重大な役目を負われているなと思いまして」
「背負った覚えはありませんが」
「あっ、私が勝手に思ってるだけで、トゥルニエ様にご負担をおかけする気はまったくないんです……!!」
あわあわ否定のために手を大げさに振るノエルに、再びクリスがこらえきれずに笑うので名前を呼んでたしなめる。ごまかすように咳払いをした侍女は、もう一度失礼いたしましたと一歩下がり控える位置に動いた。
普段はこれでもきちんと場をわきまえてポーカーフェイスくらいは保てるのだが、どうやらクリスは今日は気を抜いてもいいという判断らしい。というより、この前の晩に続き、テレジアとノエルの女性同士の茶会に浮かれているのか。
それは構わないのだが、誰かに攻撃されても取り乱さないために、お茶会の雰囲気と流れを学ぶ会というにはいささか緊張感が欠けている気がした。
「申し訳ございません、ミス・ヴィッテンブルグ。当家のものがとんだ失礼を」
「え? 今のがですか? 全然平気ですし、むしろ私が今日ご迷惑をおかけする側なんですから。何かあれば、クリスさんも遠慮なく指摘してください」
「使用人は主人の許可なくお客様にお声がけはできません。……今の流れで言うのもなんですが、貴方がよかれと思って話を振っても、それが主人の気に触って使用人が罰せられる可能性もあります。安易に接するのはやめた方が賢明でしょう」
これほどしまらない注意はないな、と思いつつ一応忠告をしておく。専属の侍女がいないのであれば、使用人との距離感もいまいちつかめていないのだろう。
ノエルは、さっと顔を青ざめさせた。
「クリスさんに罰を与えられるんですか」
「私はそこまでいたしませんから、ご安心ください」
「そうですよね。うう、でも、気を付けます」
しょんぼりと肩を落として体を小さくさせるノエルに、テレジアはため息をつきたい気持ちを紅茶を飲むことでごまかした。
誰か彼女に、いっぺんに習得するのは強要しなくてもいいから作法リストでも渡してほしい。一々言及するのも、話の腰を折るようでテレジアだって本当はしたくない。
「さぁ、落ち込むのもいいですが、せっかくの料理がまずくなります。お召し上がりください」
取り急ぎ今は目の前の食事だ、とノエルを促し、テレジアはカトラリーに手をかけた。