怒りのスラッガー
五月の暖かな陽気を全身が感じている。花びらが散り、青葉だけを残した幾本もの桜の木が風になびいてざわめく。
行くあてもなく校内を駆け巡った結果、屋上にたどり着くあたりが、青春期真っ只中の高校生らしいのではないだろうか。そんな少し恥ずかしいようなことを考えながらフェンスにもたれかかる。
ここにくるまでの間に、翼はすっかりと冷静さを取り戻していた。同時に、自分が友恵にとった態度を気恥ずかしくなってきている。
もしまた話す機会があったら、謝ろう。なんとなくそう思えたときだった。
「怒って教室飛び出して屋上に来るって、なんだか漫画とか小説のヒロインみたいだね」
友恵が現れた。
「余計なお世話」
自分が思っていたことでも、他人に指摘されるとなぜか腹が立つ。
頭の中に浮かんだいくつかの悪態をぐっと飲み込んで、友恵から目をそらす。友恵はなんの躊躇いもなく翼に近づいてきた。
「さっきはごめん。ちょっとカッとなった」
友恵が口を開く前に言った。先になにか言われたくなかった。
すると、言われた彼女は意外にも翼に向かって謝罪をした。
「こっちもごめん。あんな茶化すようなこと言って。それと、さっき雪穂から風野さんの中学のときのこと聞いたの。勝手に聞いちゃってごめん」
「いいよ、べつに。むしろ知ってもらえれば、もう野球やろうなんて誘わないでしょ」
しかし、友恵は首を縦には降らない。
「あたし、実は中学生のときから風野さんのこと知ってるんだ」
「どうして? ストーカーじゃないよね」
「違うって。あたしも野球部だったの。それで一度だけだけど風野さんと勝負してたんだよ。あたし、そのとき四番で出てたんだけど、あなたの変化球に手も足も出なかった。三打数無安打。そんな試合、中学三年間で一度だけだった」
友恵は手のひらを見ていた。
その仕草を見て完全に思い出した。確かに一度だけ、女子が四番をやっているチームと試合をした。そのとき翼の投球に抑えられた四番の選手は、バットから手を離した後、しばらく手のひらを睨みつけていたんだ。
素振りでできた豆のある手のひらを見て、自分の努力が打ち破られた瞬間を、なんとも言えない悔しさを痛感しているようだった。
「悔しかったなあ。でもさ、あたしみたいに女子がチームの中心にいるのって、全然見たことなかったから嬉しかったんだ。勝手に、だけどライバルができたつもりでいたんだよ」
「でも、戦えたのはその一回だけだったんだよね。ちょっと残念に思えてきた」
翼がそう言うと、友恵は少しだけ口を開いて、すぐにまた噤んでしまった。
「どうかしたの」
しばらく迷っている様子だったが、言う決心がついたのか翼の目を、澄んだ両目ですっと見つめた。
「県大会の一回戦、あたしは風野さんのいない葵中学野球部と試合をしたの」
その言葉に対する返事がなにも思いつかなかった。
いつのまにか屋上に入ってきたカップルが、隅のベンチで談笑している。種類のわからない鳥が群れをなして飛んでいる。グラウンドから男子の野太い声が聞こえる。
友恵の言ったことをなんとなく理解したくなくて関係ないことを考えようとするが、まったく意味がなかった。彼女は言葉を続けていく。
「風野さんと対戦するの楽しみにしてたんだ。だけど、当日風野さんはいなくて、もしかして逃げたのかななんて考えたらなんだかむしゃくしゃして。本当に身勝手なことなんだけど」
「……うん」
「思いっきり相手に気持ちぶつけたの。とくに風野さんの代わりに投げたピッチャーがどうしても許せなくて。どうして風野さんじゃないの、って。だから思い切り打って四打数四安打。そのこともあって大勝だった
それが結果的に風野さんの中学野球を終わらせたことになるのは、さっき知ったことなんだけど複雑な気持ちになった。だからって、そのことには謝らないけど……」
言葉に詰まったのかようやく黙った友恵。翼は彼女のことを勘違いしていたようだ。
すごく失礼で、人のプライベートにずかずか踏み込んでくる無神経な子かと思っていた。でも本当は繊細で人のことを気遣える子だ。今も、翼がなるべく傷つかない言葉を選んでいる。
普段はあっけらかんとした性格だから、翼のことを「ちっこい」だなんて口を滑らせていたんだろうけど、本当に傷つけそうな言葉はしっかりと飲み込めるんだろう。
ただ、彼女なりに気を遣っていても、この話題は翼にとっていやな話題でしかない。
「あのね橘さん。私は勝ったあなたを責めるつもりはない。でも、私のトラウマの引き金になったことはかわりない。だから、できればもう私に野球しようなんて言わないでくれるかな」
「それはいやだ、というかダメだよ」
「なんでよ。私もう、野球したくないんだって」
つい声が大きくなる。つられて友恵も声量をあげる。
「だって昨日楽しそうに投げてたじゃん。あたし、最初から最後まで全部見てたんだよ。すっごくいい顔で投げてた。野球したくないなんて絶対うそ」
「うそじゃないの。あの時はたしかに、もう一度野球したいなって思ってたよ。でも、そのあと、また私は人を傷つけたの。私が女子だから。女子の私は男子と同じように野球をやっちゃいけないの。私よりも上手な人でさえ、私と比べられるだけでプライドを傷つけられるんだから」
「そんなのそいつがおかしいんじゃん。男子とか女子とか関係ないじゃん。プライドが傷つくだなんて、そんなのそいつが弱いだけだよ。風野さんは悪くない」
「そんなことない。真中くんは実力だってある。きっとエースになるすごいピッチャーなの」
「……真中、あいつか。あたし、同じクラスだ」
友恵がそう言った瞬間グラウンドから金属音のような乾いた音が響いた。硬式球がバットとぶつかった音。この一年半、何度も聞いてきた音だ。
翼と友恵は二人してフェンス越しにグラウンドを覗き込む。そこにはバットを持って仁王立ちしている二宮と、マウンドでうなだれる真中の姿があった。
そして翼がそれに気づくのと、友恵が翼のの横から走り出すのはほとんど同時だった。
「ちょっとどこ行くの」
「真中のとこ。ごめんあたし、余計なことする」