マネージャーとして
グラウンドに掛け声がこだまする。イーッチ、ニッ、イッチ、ニッ、ソーレ。一定のリズムで耳に届いている。この野太くて汗臭い声が翼は好きだった。
集中すると掛け声の裏に、スパイクが地面を蹴る音も一定のリズムで聴こえてくる。ザッザッザッザッ。右左右左。ウォーミングアップのランニングとはいえ、高校野球ともなればかなりの距離を走る。それでも音のリズムは崩れることなく最後まで心地のいい四拍子。
ランニングが終わると、それぞれ柔軟を始める。
葵高校野球部マネージャーの風野翼は、グラウンドの端で選手たちを眺めていた。
「今日はみんな調子よさそう」
手に持った手帳に、選手たちの様子を書き込んでいく。そのページは自作のコンディション表だった。
「見ただけでコンディションまでわかるんだな」
「はい。ある程度は、ですけど」
いつのまにかキャプテンの二宮が翼の前に立っていた。柔軟を抜けて翼に指示を出しに来たようだ。
「このあとフリーバッティングだから、ボールのカゴをマウンドに持って行ってくれ」
「はい。そのあとは部室で道具の手入れをしてますね」
ああ、任せた。二宮はそう言って選手たちのもとに戻って行く。
この葵高校硬式野球部は県立高校にも関わらず、近隣の私立高校にも劣らない実力があり、夏の大会では何度か甲子園に出場したこともある。
その野球部のキャプテンともあって二宮にはただならぬ風格がある。強靭な肉体から生み出される規格外のプレーは観客や、時に敵チームさえも魅了し、優しさと厳しさを兼ね備えたその性格は、彼のカリスマ性へと直結している。
翼も二宮に惹かれている。彼と彼の束ねるチームが甲子園に行くために全力でサポートする。入部した時にそう決めていた。
「風野」
ボールの入ったカゴを運ぼうとしていると、いつのまにか戻ってきていた二宮に声をかけられる。翼が、なんですか、と振り返ると二宮は少し小さめのグローブを差し出していた。
「すまない。今日は中村が休みでバッティングピッチャーがいないことを忘れていた。また代わりに投げてくれないか」
翼はこうしてバッティングピッチャーをすることがたまにある。監督が翼の中学時代のことを知っていたようで、以前バッティングピッチャーが足りなくなった時に推薦されたのがきっかけだ。
女子だからプレイヤーとして甲子園を目指すことはできないが、マネージャーとしてみんなのサポートをして甲子園に行きたい。
「いいですよ」
「ありがとう。十五分後にむこうを切り上げてこっちに来るから、そうしたら頼む」
そう言い残して戻っていく二宮の背中は大きく、やはりたくましい。正直羨ましい。男に生まれたかったとは思わない。でも、男女で身体に差があるから、同じグラウンドで戦うことができないなんて本当に理不尽なことだと思う。男女の身体に差なんてものがなかったら、堂々と二宮さんと一緒に戦えた。いや違う。二宮さんと勝負がしたかった。
翼は二宮の背中を見送ると、ボールの入ったカゴをマウンドに運んで行く。
中学のときのマウンドよりも少しだけ高いマウンド。スパイクではない真っ白な運動靴でプレートの前の土を削ってみた。中学生の時に投げてきたどのマウンドよりも土の粒子が細かく柔らかい。
このマウンドからの投球は、本当に気持ちが良い。
しばらくすると、二宮がほかの部員たちを連れてグラウンドに戻ってきた。私立の強豪校と比べれば人数こそ少ないが、実力では引けを取らない精鋭揃いだ。みんな身体が大きく、引き締まった筋肉がユニフォーム越しでもよくわかる。日々積み重ねられた努力によって作り上げられたその肉体は実力の裏付けとなるだろう。
とはいえ、彼らにも得手不得手はある。翼は彼らの不得手を極力得手に変えるためのサポートをこれからしていく。
「お願いします」
一人目が挨拶をして打席に立つ。
まずはストライクゾーンのど真ん中に二、三球ほど投げ込む。そこで、その選手の今日の調子を確認する。
翼がセットポジションから直球を投げると、バッターはいともたやすくボールをはじき返した。乾いた金属音がグラウンドに響く。打球は三遊間を抜けてヒットになった。その後も彼は続けてヒットを打つ。
この選手は調子が良い。そう確信したので次のステップに移る。
「次からコース散らしていきますね」
調子が良い選手には、積極的に苦手なコースを攻める。すると最初こそ打ち損じたりもするが、徐々に安定してヒットを打てるようになってくる。
この選手はインコースとアウトコースの低目を交互に狙われるのを嫌う。まずインコースの低めにストレートを投げる。球速自体は遅いので空振りこそしないが、先ほどの打球と比べると当たりが弱い。
続いてアウトコースの低めに投げ込む。すると今度はさらに打球の威力が落ちた。ボールはショートの前を力なく転々としていく。
「今の感じで続けてきますね」
「お願いします」
こうして続けていくと苦手なコースにも対応して打てるようになってくる。そして残り数球になった辺りでまた投球のパターンを変える。
最後は、思い切って打ってもらうために得意なコースに投げていく。終わりよければすべてよし、というわけではないが、ヒットを打ってスッキリとした気分でバッティングを終わってもらえればいいなと思っている。
ここで、あまりパワーのない選手でも稀にホームラン性の当たりを打つことがある。こういうことがあるとその選手が一気に伸びたりするので、この終わり方は翼としてはかなり有効だと感じていた。ただ、自分の球が打たれるのは少々癪である。
「おお、飛んだ」
快音を響かせて飛んだ打球はレフトを守る選手の頭上を越えていった。
「気持ち良く打てたよ。ありがとう」
そう言って打席から一人目の選手が出て行く。そして次の選手、また次の選手、と繰り返して投げていく。いろいろな打者を見ることができるので、割と楽しめていると思う。しかし、たまに思ってしまう。真剣勝負がしたい。
高校進学時にマネージャーとして男子部員のサポートをしていく。それが自分の仕事だと決めた。それでも、翼の本質はやはりピッチャーなのだろう。マウンドに立つと闘争心が溢れてきてしまう。
思い切り投げたい。
「風野。ちょっと注文、いいか」
打席に立った二宮が声をかけてきた。あふれてくる闘争心をどうにか抑えてサポートに徹しようと思っていた。しかし、二宮の続けた言葉は翼をさらに奮い立たせてしまうものだった。
「実践を想定して投げてほしい。本気で、だ」