そらの事情
次の日の放課後、翼と友恵はさっそく行動を起こした。
そらの通う戸鳴女子高等学校の門の見える位置である人物を待ち伏せる。それは昨日の会話の中でも出てきたそらの親友・沼田詩音だ。
翼は小学生の頃に顔を合わせたことがあるが、もう何年も前のことなのでよく思い出せないでいる。なので、手がかりは昨日そらの言っていた情報だけである。
黒髪でおさげ。雰囲気がボーイッシュ。その二つだけ。
「ねえ、本当に見つけられるの?」
翼が友恵に訊く。
「わかんないけど、なにもしないよりはいいでしょ」
友恵はそう言って、スマートフォンを見る。時間はまもなく16時30分。学校からチャイムが聞こえると、昇降口から続々と生徒が出てきた。
当たり前だがみんな同じ制服を着ていて、黒髪おさげの子もちらほらといる。
「これ、無理じゃないかな」
「あたしもそんな気がしてきた」
そらに見つかる前に帰ったほうがいいのかもしれない。そう思っていた矢先に二人は願ってもいない光景を目の当たりにした。
昇降口からそらと、もう一人黒髪おさげの子が談笑しながら出てきたのだ。
翼と友恵は声を殺して、あれだ、と言うと、さっそく二人の尾行を開始した。
狙い目はそらと別れて詩音が一人になったところ。翼はカバンから葵高校野球部の帽子を目深にかぶって電柱の物陰に隠れる。友恵はだて眼鏡をかけて翼の後ろについた。
「ゆえっちゃん、でかいから目立つね。見つからないでよ」
「翼は小さいから安心だね」
「安心じゃない」
おそらく、周りにいる人たちからしたら二人とも目立っているのだろう。
そんなこともお構い無しに二人は尾行を続けていく。いくつ角を曲がり、いくつ横断歩道を渡っただろう。しばらくすると、大きな和風のお屋敷のような家が見えてきた。
すごい。こんな家、こんなところにあったんだ。そう思いながら歩いていると、そらが詩音に手を振って、じゃあね、と言った。
そらの家はこの辺りだったのか。ようやく……。
「え、そこ?」
思わず声を上げる翼。友恵も横で口を開いたまま固まっている。
そらが入っていったのは、あの大きなお屋敷だった。
「翼、知らなかったの?」
「うん。家に遊びに行ったことはなかったから」
「お嬢様だったんだな」
そう二人が話しているうちに詩音は歩いて行ってしまう。
驚いている場合ではない。ふと足先に気づいた翼が駆けて詩音を呼び止める。
「ちょっとごめん、いいかな」
「なんですかあなた」
「あの、くらばっち––––桜庭そらさんの話を聞かせて欲しいんだけど、えっと、怪しいものではないから」
「いや怪しいですよ」
詩音は警戒したまま去ろうとする。
しかし、友恵が後ろからものすごい迫力で追いかけてきた。長い髪を振り乱しながら自分よりかなり背の高い人が追いかけてくる。それに恐怖を感じたのか、詩音は、ひえっ、と声をあげて走り出した。
「ゆえっちゃん怖すぎ!」
「あたしが悪いのか!」
歩幅の違いもあり、翼は友恵に置いてかれる形になった。やがて翼は追いかけるのをやめて見守ることにしたようだ。
友恵は少しずつ詩音との距離を縮めていき、最後は右腕を伸ばして詩音の背負っていたリュックを掴んで捕まえる。
「捕まえたぞ、子猫ちゃんめぇ」
「なんですか一体! 不審者ですか? 不審者ですね!」
「違うあたしは不審者じゃない。あなたの友達について教えてほしいだけ」
「そらについてですよね。教えませんよ。あなた不審ですから!」
詩音は頑として口を割ろうとしない。
そこに翼が歩いて追いついてきた。
「あの、沼田詩音さん」翼が声をかける。
「なんで私の名前知ってるんですか」
「覚えてないかもしれないんだけど、私は風野翼です。小学生の時、くらばっちと同じチームで野球やってました」
すると詩音は思い出したようで、何回か頷くような素振りを見せる。
「思い出しました。というより、さっきもそらがあなたの話してました。昨日、大好きな先輩と久しぶりに会ったって」
大好きな先輩。やっぱりあの子は天使だ。
翼が照れているのをよそに、詩音が続ける。
「じゃあ、こちらの背の高い方は橘友恵さんですか」
友恵が頷く。
詩音は、なんだ、と言わんばかりに力を抜いて警戒心を解いた。そして「多分、野球の話ですよね」と訊いた。
「ここじゃなんですから」
そう言って二人に移動を促すと、乱れたおさげを整えながら歩き出す。
翼と友恵は、やけに話がすんなり進むな、と思いながらも願ったり叶ったりの展開に乗っかることにした。
少し歩くと公園が見えてきた。三人はそこに入ると、テーブル付きのベンチを見つけて座る。
「単刀直入に言います」座るなり詩音は二人に頭を下げた。そして「そらにもう一度野球をさせてあげてください」
詩音は頭を下げたまま動かない。翼と友恵は予想外の言葉に顔を見合わせて返事をできずにいた。
夕方の五時を知らせるメロディーが町中に響きだした。日は傾き始めている。公園にいた小学生や親子連れが帰り支度を始めたころ、ようやく顔を上げた詩音の両目は涙で潤んでいた。
「私、そらと一緒に野球がしたいんです。小学生のときは敵同士だったから、今度は仲間として」
右手で涙を拭うと、詩音は翼の目をじっと見つめた。
「そらが野球できない事情って知ってますか?」
「じつは、それを訊くために沼田さんを捕まえたの」
「そうですか。じゃあ、まず、それから話しますね」
詩音は深呼吸をして心を落ち着かせようとした。二度、三度と息を吸って吐いてを繰り返すと、ようやく話し始める。
「そらのお父さんが、野球は男のスポーツだって言って」
そこから詩音は、声を震わせたり、ときに怒りをにじませたりしながら、そらの事情について詳しく話した。
まず、そらの父親が、女子が野球をすることに反対していること。
次に、小学生のころは、祖父が父親を説得してたおかげで野球をすることができていたこと。
そして、その祖父が小学校卒業のころ亡くなり、もともと野球をやることに反対していた父親がそらから野球を取り上げたこと。
そらの父親は、ずっと野球を続けてきて、甲子園にも出場したこともあるらしい。さらに、順位は高くないがプロ野球のドラフト指名にも名前が挙がっていたが、大会中隠していた怪我が悪化してプロの道を閉ざしてしまったという。その後は、怪我を治して社会人野球チームに所属し、四十歳を超えた今は監督をしている。
つまり、野球はそらの父にとって聖域で、女子が踏み入ることは許さない、という異常なプライドの持ち主ということだ。
「なんだよそれ」
友恵の声が怒りに震える。
「そんなことで娘から野球を取り上げるなんて、どうかしてる」
「本当、どうかしてるんです。でも、あのお父さん、恐くてそらもなにも言い返せなくて……」
翼はただ黙って俯いていた。
野球を取り上げられる苦しみは、彼女が一番わかっている。今回もまた、男子だから女子だからという理不尽な理由で野球を取り上げられた人がいる。そして、それは自分を慕ってくれている後輩だ。
握りしめた拳が震える。私がなんとかしなきゃ。
翼は詩音に「お父さんって、今家にいるの?」と訊く。
「いえ、たぶん今はいないと思います。平日はかなり遅くに帰ってきているみたいなので」
「じゃあ、今行って一回、くらばっちと話そうか。当事者に何も言わずにお父さんを説得するのもおかしな話だからね」
「説得……してくれるんですか? お願いします」
詩音は立ち上がって頭を下げる。
翼は詩音の頭を軽く撫でると、顔上げて、と言った。
「私も、くらばっちとまた一緒に野球したいんだ」