かわいい後輩
近所のカフェは平日ともあって客は少ないが、翼たちと同じように制服姿の学生が半分ほどの席を埋めていた。友恵と二人、窓際の席に腰をおろす。
「あたしアイスコーヒー。翼は?」
「私はねえ、じゃあ抹茶ラテ」
「さっきも思ったけど、翼ってお茶好きだよね」
そんな他愛もない会話をしながら注文を済ませると、ではさっそく、と友恵が翼の後輩について訊いてきた。
迅速に届けられた抹茶ラテをすすりながら翼は”桜庭そら”について話す。
「くらばっちはね、それそれはかわいい––––」
「ちょっと待って」
話し始めた途端止められた。
「くらばっちって誰」
「ああ、ごめん。桜庭空ちゃんのあだ名。苗字に”っち”をつけて桜庭っちってみんな呼んでたんだけど、いつのまにか”さ”が省略されて”くらばっち”になったんだよ」
「小学生らしい安直なあだ名だね」
「”ゆえっちゃん”もそう変わらないけどね」
つい脱線してしまった。翼は抹茶ラテを口に含んで舌の上で少し遊ばす。抹茶の味がしっかりと残りつつも柔らかい甘味がしてとても美味しい。
「でね、そのくらばっちはかわいい子でね。いつも翼さん翼さんって私のあとに着いてきてね」
「えっと、あたしが訊きたいのはそういう話ではなくて」
「ああ、見た目? 見た目はね、髪とか結構明るい色しててね、地毛なんだけどさ、それをリボンで結んでポニーテールにしててね、それはもうかわいくってね。あと私よりも小さかった」
「だからそういうことじゃないんだけども。というか、ちょっと興奮しすぎ。おっさんかよ」
友恵は呆れ顔でストローに口をつけるとグラス一杯に注がれていたアイスコーヒーを一瞬で空にしてしまった。
対して翼は抹茶ラテを少しずつ減らしていく。
「かわいいの。野球も上手だよ。あの子にショート守らせると三遊間のヒットがほとんどなくなる」
「それを先に言いなよ。すごいじゃん」
すごい。そんな言葉では言い表しきれないくらいにとんでもない守備範囲の持ち主だ。それほど足が速いわけではないが、打球への反応速度が並ではなかった。小学生の時にあの守備範囲だったのだから、野球を続けていればさらに上手になっていることだろう。
「あ、来たんじゃない。ほらあの子」
用済みになったストローで友恵が窓の外を指す。
窓の外にはT字路があり、その横断歩道の向こう側にリュックを背負った制服姿の女の子が足踏みをしながら信号が変わるのを待っていた。その子の髪は明るめの色をしていて、それを後頭部の高い位置でリボンを使って結い上げられていた。
間違いない。そらだ。
「そうそうあの子。変わってないなあ」
信号が青に変わったのを確認して横断歩道を渡り始める。半分くらい渡ったところで、店内にいる翼たちに気づいたのか明るい笑みを浮かべて歩調を早めた。
やがて自動ドアが開き、向こうからそらがポニーテールを揺らしながら席にやってくる。
「翼さん、おひさしぶりです」
「くらばっち会いたかったよ」
思わず立ち上がって感動の対面を演出する––––がしかしすぐに異変に気がついた。翼は静かに腰を席に落ち着かせると、そらにとなりを勧めた。
そらは突然スクワットのように立って座ってをした翼に不思議そうな顔を向けながらも素直に腰を下ろした。
そこで友恵が余分な一言。
「今、自分より桜庭さんのほうが背が高くなってることに気づいて座ったんでしょ」
「そうなんですか翼さん。ごめんなさい」
謝らないで。余計惨めな気持ちになるから。
突きつけられた現実に打ちひしがれながらも、翼はそらにメニュー表を差し出す。そらは、大丈夫です、と言ってメニュー表を受けとらなかった。代わりに近くにいた店員を呼ぶと、抹茶ラテを注文した。
同じのです、と微笑むそらを翼は天使だと思った。
「で、この方は?」
指された先にいるのはストローを弄んでいる友恵。
そういえば結局伝えていなかった。
「このでっかいのは、橘友恵。通称ゆえっちゃん。今度私が入る草野球チームのキャプテンで正捕手で四番の子」
「そうなんですか。なんだかすごいんですね」
ふわっとした感想を述べると、届いていた抹茶ラテを口に含むそら。
「翼さん、また野球やるんですか?」
「うん。このでっかいののおかげでね」
「でっかいのって言うな、ちっこいの」
そうですか、とそらは浮かない顔でつぶやいた。彼女は今「また」と言った。ということは中学で翼が野球をやめていたことを知っていたということだろうか。
もし知っていたのなら、そらなら今の話を聞いて喜んでくれそうなものだが、なぜこのような反応をしたのだろう。翼は思案する。
友恵は、そらの顔をじっと見つめていた。
「私も野球やりたいな」そらが言う。
「それなら話は早い。あたしたちは桜庭さんを誘おうと思ってて」
友恵が身を乗り出す。しかし、そらの返答は友恵たちが期待してたものではなかった。
「ごめんなさい。私もう野球はできないんです」
「なんで。もしかして怪我?」
「いえ、怪我じゃないんですけど、小学校卒業と同時に野球はやめててブランクもあるので」
「翼も含め、チームのメンバー何人かはブランクある人が何人かいるからそれは気にしなくていいんじゃないかな」
友恵がなんとか説得しようとするが、そらは俯いてしまって返事をしない。
「そういえば、くらばっちって身長何センチになったの?」
翼が慌てて別の話題を振る。
「え? ああ、152cmです」
聞かなければよかった。
でも話題を変えなければいけない気がした。この前の自分と同じ、これ以上踏み込んでほしくない時にする反応だと思ったからだ。
誰にでも触れてほしくない話題くらいある。翼はあのときゆえっちゃんが踏み込んでくれたから、もう一度野球をする気になれたのだが、今回そらに翼や友恵が同じようにしてあげられる保証はどこにもない。
翼はそらを傷つけたくなかった。
「大きくなったね。あのころは私よりも小さかったのに」
「え、小学生のときから私の方が少しですけど大きかったような気がします」
私を傷つけないで。翼が俯く。
しかし、そらの声はは少しだけ明るくなり、顔も上げてくれた。友恵には悪いが、今日はこのまま楽しく世間話だけして終わりにしよう、と翼は話を続けた。
友恵も翼の考えを察したらしく、世間話に付き合ってくれた。
それからは三人でガールズトークをすることに。小学校のときから仲のよかった友達のこと、最近飼い始めた犬のこと、学校の近所にあるかわいい雑貨屋のこと。くらばっちは、野球以外はたくさん話してくれた。帰り際に見せてくれた笑顔は本当に楽しそうで、また会ってくださいね、と言うそらは、翼にとってやはり天使であった。
それだけに、やはり野球の話題でのあの反応は気になる。
「で、どうする。くらばっちちゃん、このままでいいの?」
「気になる。あんなに野球が好きだったあの子が、野球の話題を出すだけであんなに気を落とすなんて絶対になにかあるから」
「でも、本人はなんにも話してくれなさそうだよ」
「そうだね。だから今度、さっきの話にも出てた、小学校のときから仲のいい友達に聞いてみようか」
「なんだっけ。沼田さんだっけか? 今も同じ高校で親友って言ってたね」
「そう。ちなみにくらばっちは言わなかったけど、沼田さんは小学校のとき私たちのライバルチームのサードだった子だよ」
「そうだったんだ。じゃああわよくば親友共々勧誘しちゃおうか」
そう言う友恵の顔は、なにか企んでいるような悪そうな顔だった。