二年前のあの日
両手を目の前の扉に強く叩きつける。八月でもひやりと冷たいアルミの扉は、大きな音こそ立てるがビクともしない。
風野翼の頭の中には「なんで」「どうして」という言葉ばかりが浮かんでくる。なんでこうなったのか、どうしてこうなったのかはわかっているはずなのに、それを頑として認めたくない。
翼の所属している市立葵中学校野球部は、彼女ら三年生にとって最後の大会だった中体連の地区予選を勝ち抜き、見事に県大会への切符を勝ち取った。翼は、そのチームのエースとしてマウンドから相手打者を何人もねじ伏せて、勝利に大きく貢献をした。貢献したと思っていた。
県大会一回戦の今日、伝えられていた集合時間に部室前に行くと、そこに監督やチームメイトの姿はなかった。しかし、部室の扉は開け放たれていて、部で所有しているバットやキャッチャーミットが外から見える位置に無造作に置かれていた。
「不用心だなあ」
つぶやいて部室に近づいたとき、後ろから影がさして翼の背中を突き飛ばした。そして振り返る間もくれないまま、大きな音を立てて扉が閉まる。
不穏な予感と部室内に籠もった蒸し暑さで全身から汗が噴き出す。「1」の背番号が背中に張り付くのがわかった。
「風野先輩ごめんなさい。ほかの先輩たちに命令されて……逆らえなくて……」
扉の向こう側から聞こえてきたのは、聞きなれた後輩の声だった。同じピッチャーで、才能があって、翼になついた一年生の男子。
「ねえ誰に命令されたの、冗談でしょ、出してよ、なんでこんなことをするの、出してよ、誰が私を、なんで私が、ねえここから出して」
必死になりすぎて、もうなにを言っているのか自分でもわからなかった。そうして、支離滅裂な言葉をぶつけていると、向こう側から返事が聞こえた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
そのあと聞こえたのは、遠ざかっていく足音だけだった。
それからは、どれだけ叫んで、どれだけ扉を叩いても反応が返ってくることはなく、やがて凶悪なまでの暑さで体力を奪われてその場にへたり込んでしまった。
やかましい蝉の声の中、徐々に自分が冷静になっていくのがわかった。そして、今まで気づかなかったチームメイトの「プライド」とそこから生まれた「悪意」に気づいてしまう。
「私は、悪くないよ……」
翼の背中についているのは「1」の背番号。これが欲しいチームメイトは何人もいた。そんな彼らを抑えて、この番号を手にした翼は、みんなとは決定的に違っているところがある。翼は女子だ。
中学生の男子なんて思春期の真っ只中で、男女差別なんて言葉は知っていても自分がそれをしてしまっているなんてことには、そうそう気づかない。
女子にスポーツで負けるはずがない。女子が自分より野球が上手いわけがない。女子にエースナンバーを取られるなんて、そんなことは絶対にありえない。
その絶対にありえないことを翼がしてしまった。さらに、勝ち抜いた地区大会すべての試合で翼は勝利に大きく貢献してしまった。きっと、こう思った人もいるだろう。「女子に勝たせてもらうなんて、ありえない。」
翼抜きで県大会を勝ち抜けば、女子に勝たせてもらったなんて思わなくて済む。自分のプライドが守られる。そう思ったんだろう。
翼は、もう一度立ち上がって強固な扉を叩いた。
「そんなつまんないことで私から野球をとらないで」
涙が溢れてきた。野球を始めてからどんなに苦しくても、どんなに悔しくても流さなかった涙だ。
全身からすうっと力が抜けてきて、ついにはコンクリートの床に四つん這いになってしまう。もう大きな声を出すことも扉を叩き続けることもできなくなってしまった。
それから何時間が経っただろうか。ついに開けられた扉の先には、惨敗して泣きながら崩れ落ちるチームメイト達がいた。
こうして翼の中学野球はなにもできないまま幕を閉じてしまった。