白紙との対話
「やぁ、今日も来てるね」
僕はほんの一瞬だけ本から目を離す。
声のする方を確認するわけでもない、ただ集中力がほんの一瞬だけ途切れただけだ。
本は好きだ。
もっとも僕にとっては文章の中身なんかはどうでも良い。
ただページをひたすらに、規則的にめくるという行為にこそ、本を楽しむという本質が有る。
まるで呼吸をするように、一定のリズムで、めくる、逃避する。
「今日は何の本を読んでいるんだい?」
僕はおもむろに本を閉じた。
「何故読むのを止めるんだ?」
無回答。
後、声の主に向き直る。
「邪魔をしてしまったかな?」
「いえ。丁度キリの良いところでしたので」
「ならば良かった」
彼、或いは彼女はいつも飽きもせずこうして僕に話し掛ける。
もっとも僕もこうして飽きもせずにここでページをめくり続けているのだから、人のことを言えた義理では無いのだが。
なんにせよ今重要なことは、いつも通りここで僕達が互いを意識し、対峙しているということ。
それは限りなく日常で、限りなく非日常。
「君は人間とは何だと思う?」
「それは純粋な質問ですか?」
「何、簡単な意見交換だよ」
僕達の会話に意味はない。
言葉遊びと言える程に娯楽性は無い上に、結果も、結論も、全ては僕達の中にだけ存在する。
そんな下らない暇潰し。
「漠然としすぎたテーマですね」
「そのテーマから何を捻り出すのかも私にとっては重要な意見なのだが」
成程。
ならば考えるまでもない。
「わかりません」
「ふむ。少しは考えてくれても良いのではないか?」
「そもそも僕は人間という言葉の意味から、その基本概念にいたるまで何一つ理解していませんから」
呆れた様なため息が耳に入る。
「まったく…また逃げるのか」
「それよりも僕は貴方の意見が聞きたいのですが」
「私が提示したのは意見交換だ。君が、君の言葉を話してくれないかぎり、私は何も話せないよ」
それこそ逃げではないか、とは言わない。
何故ならその選択は正し過ぎるほどに正しいから。
「わからない、と言ったのは本当ですよ」
「別に私は哲学的なこじつけを求めているわけではない。生物学的な規定情報などもっての他だ。私が求めているのはあくまで君の言葉なのだよ」
僕を…僕の意思を言葉で表すのは不可能だ。
誰にしたってそう、言葉なんてそれこそ人間が作ったこじつけだから。
僕達が真に意思を交わすことは事実上不可能…それをわかっていて声の主は僕に言葉をつむげと言う。
ならそうだな…少しでも相手に近付く為には、こうするしかない
「何をしているんだ?」
「これが僕の言葉です」
そう、文字通り近付けば良い。
声の主はしばらく黙っていたが、突然僕の耳元で笑い声を上げた。
「ははは…成程な、良くわかった」
「ならば会話成立です。貴方の意見は聞きましょうか?」
「残念ながら私ごときの言葉では君の意見とは等価になり得ないな」
結局逃げだ、とは言わない。
何故なら僕は声の主が言葉を持たないことを知っているから。
「さて、私はそろそろ行かせてもらおう。今日も楽しかったよ」
「こちらこそ」
限りなく近くに有った存在がふと離れて行く。
「また君と話をさせてくれ」
それは純粋なる願い。
或いはそれは約束。
「君はつくづく不思議な人間だよ」
「ただの欠陥品です」
「それは君の創造によってここに存在する私に対しても失礼だ。」
「謝罪しましょう」
その言葉が届いているのかは知らないし、知る必要もない。
重要なのはそこに確かに有った筈の存在が消えたという漠然とした事実。
声は確かに存在し、確かにそこにはなかった。
僕を欠陥品…或いは異分子たらしめるこの非日常的な創造だけが、皮肉にも僕を僕の日常へと誘う鍵だった。
ふと思う。
ただ毎日をこうして小さな図書館で過ごす僕は、驚く程に人間で、呆れる程に欠陥品なのだと。
本のしおりを外し、ページをめくる。
僕がめくるのを止めた時、直ぐに彼、或いは彼女の声が聞こえてくるだろう。
そしてその声はいつもと変わらぬ調子で僕にこう訪ねるのだ。
(やぁ、今日も居るね)
明日もまたあの無意味な…一見会話を気取った言葉の投げ合いが、少しづつ僕をいじくっていくのだろう。
僕は文字を追うと、また一枚ページをめくった。
『今日は晴れていた』
記憶の中に一行だけ書き込む。
ふと思いついたお話。
彼が本当に誰かと対話するのは、きっとずっと先なんでしょうね。