1ー8話
結果は、言うまでもなく僕の負けだった。
長椅子の真ん中で対面する手と手。握手を求めるように差し出した僕の右手のパーの前には、それを引き裂こうとする美希の左手のチョキがあった。
僕の思考に間違いはなかった。『パーを出す』と言われてパーを出せば、きっと8割以上の確率で引き分けか勝ちになるはずだった。
でも問題なのは、その思考を僕に植え付けたのが美希ということだった。
『パーを出す』と言われた場合、僕はほぼ間違いなくグーを出さない。性格上、あえて負けにいくことなど考えられないからだ。
それを見抜いて、美希はチョキを出すことを決め、さらに言葉巧みに『引き分けでも良い』と僕に思わせ、パーを出させるように仕向けた。
つまり、勝ちにいく訳ではなく、引き分け以上の可能性が最も高い《安全策》を選んだことで、僕の負ける確率が最も高くなってしまったという訳だ。
美希の言葉を遮断して、何も考えず適当に出すのが、きっと僕にとって最善の策だったのだろう、それで6割6分は引き分けか勝ちになるのだから。
でもそんなことを思ったところで後の祭り、間抜けな僕は、勝負が終わってから頭の中を真っ白にした。
僕は目の前で起きた事態を、まったく受け止められずにいた。《負け》を覚悟していなかった僕にとって、あまりに衝撃が大きすぎた。
頭の中に思い描いていた、『絵を描いて下さい』美希が頭を下げて頼んでくる場面と、真逆の現実が差し迫っている訳だから、それは天と地がひっくり返るような感覚だ。
どのくらい経っただろう、美希が言ってきた。僕の中の世界に破滅を告げる、悪魔的な微笑みで。
『キミらしいね。頭がパーってね』
言いながら美希はチョキを顔の横で揺らす。それは僕に見せつける、勝利を誇示するVサイン。
おのれ、それをしたいがために『パーを出す』と言ったのか。終末の時を前に、僕は悔しさを燃えたぎらせた。
『パーを出すと言っただろう! 今のは無効だ!』
『ふふ。そういうの何て言うか知ってる?』
負け犬の遠吠えとでも言いたいのか。ああ、言われなくても分かっている。
でも、僕は引き下がる訳にいかなかった。少しでも負けを回避できる可能性が残されているのなら。
『協力し合うべきだと言ったくせに、騙すなんて卑怯だ!』
『ちゃんと協力してあげてるよ。愚かなキミに現実を分からせてあげてる』
『そんな協力など必要ない! そんなふうに他人を貶めて何が楽しい?』
『楽しくなんてないよ……。あたしだって本当はこんなことしたくないけど、これもキミのためだから……』
美希がわざとらしくトーンを下げて言った。僕はここぞとばかりに攻め入る。もっともらしい口調で。
『心遣い感謝する。では僕のために、この勝負は引き分けということにしてくれないか。キミとは対等な関係でいたいと思う』
でも。
『それはダメ』あっさり断られた。
美希は少々うんざりした様子で続ける。
『もう、ホント分かってないなぁ……。絵を描くのはあたしじゃなくてキミなんだよ? 引き分けでもいいなんて妥協を見せられて、まともな絵を描いて貰えると思う?』
不覚にも、その通りだと思ってしまった。
要するに、何を言われても勝ちにいく意思の強さを持つ者が生き残れて、あえて負けにいく器の大きさを持つ者が勝者になれる。
そして引き分け狙いなどと言う、甘ったれた考えを持つ者は、敗者となって当然なのだ。
『言い忘れていたが、僕は三回勝負を提案する』
『却下』
それでも僕は諦めきれず、敗者らしく言ってみたけれど、それもあっけなく一蹴され、僕はとうとう追い詰められた。
『さ、早くして。じゃないとあたしもう帰っちゃうよ?』
僕は決断を迫られていた。
このままでは美希を描けなくなってしまう可能性すら出てきた。だから僕は決めた。こうなったら心を無にしてさっさと済ませてしまおう。描く側と描かれる側、あくまで慣例的なやり取りだ。
僕はスッと長椅子から立ち上がると、美希の前に立った。ほんの少し前傾姿勢になって小声で言った。美希から視線を逸らして。
『……キミの絵を描かせてくれ』
『聞こえない』
『絵を描かせてくれと言った』
『人にお願いするときは、敬語でしょ?』
ーーこっ、こいつは。
僕は反射的に美希を見た。本当に、本当に嫌なやつだと思ったけれど、美希は僕を真っ直ぐ見つめていた。
この時、僕は初めて美希と真正面から向かい合って、目と目を合わせた。その表情がどうしようもなく魅力的で、僕は美希を描きたいと改めて思った。
『さ、どうぞ』
美希も長椅子から立って僕にそれを促す。もはや僕に退路はなかった。ここまでされてようやくだ。
これは臆病者の僕が初めて迎えた《脱皮》の瞬間だ。少しばかり祝って欲しい。
僕は深々と頭を下げて、震える声で言った。
『絵を描かせてください。お願いします……』
『しょうがないなぁ。そこまで言うなら、描かせてあげてもいいよ』
完全敗北とはこういうことなのだろう、噴水広場では、五分咲きのコスモスが、僕を慰めるように咲いていた。
こうして僕の心の1ページは、スケッチブックとともに傷を負った訳だけれど、何はともあれ、僕は美希の絵を描かせてもらえることになった。