1ー7話
『ごちそうさまでした』
少しすると両手を合わせて美希が言った。
続けて美希はサンドイッチのビニールと、空っぽになった野菜ジュースをコンビニ袋にまとめて、それを手提げ鞄の中にしまった。
自分のゴミは自分で持ち帰る。変なところだけマナーを守るやつだ、いや、僕のスケッチブックの切れ端はゴミではないが。などと思っていると、
『いいよ』美希が言った。あまりにあっけなく言われたものだから、僕は一瞬戸惑ったけれど、
『キミの条件守ってあげる。その代わりキミもあたしの条件を守ってね』
美希の言葉に実感が込み上げてきた。本当は喜びを抑えきれないくらい嬉しかったけれど、もちろん僕がそれを顔に出すはずはなく、
『そうか』僕は冷静ぶって言った。
でも、美希の陰謀が明るみに出たのはここからだった。
『ただ』
美希の短い言葉に僕はドキッとした。このままで済むはずがない、心のどこかにそんな予感があったからだった。
『今、キミは《描いてやる》って言ったけど、それは違うと思うの。あたしが《描かせてあげる》側でしょ?』
やはり言ってきやがったか。そう、常識的に考えて美希の言う通りなのだ。有名な画家に描いて貰うならまだしも、未熟な僕の練習台となる訳だから。
ただ今回の場合、『あたしの絵を描いて』と言ってきたのは美希の方だったから、僕にも付け入る隙はあった。それを美希も分かっているらしく、
『まぁ、キミにも言い分はあると思うから、そう言いたくなる気持ちも分からなくはないけど』
美希がやけに素直に言った。さらに美希は、美希らしくない言葉を続ける。
『でも、今のあたし達にとって大切なことは、それを言い争うことじゃない。より良い絵を完成させるために、お互い協力し合うことだよ』
『あ、ああ……確かにその通りだが……』
怪しいにおいがプンプンする。そしてその懸念通り、美希は話を進めていく。
『でもね、あやふやな関係のままにしておくと、その肝心の絵がボヤけたものになってしまうかもしれない。だからね、やっぱり、お互いの立場ははっきりさせておいた方がいいと思うの』
『ああ、そうかもしれないが……』
そうは言ったものの、僕に絵を《描いてやる》の立場を崩すつもりはなかった。それはおそらく美希も同様なのだろう、そんな美希の打ち出した案というのが、
『ここは恨みっこなしのじゃんけんで決めましょう。負けた方が、勝った方に改めてお願いするの。深々と頭を下げて、ちゃんと気持ちを込めてね』
そうきたか。やはりこいつは『絵を描かせて下さい』と僕に言わせるつもりなのだ。しかし、じゃんけんとなれば五分の勝負、僕にも勝ち目はあるはずだ。が。
『それはできない』
僕はひとまず拒否した。五分ならじゅうぶん僕寄りの提案と言えたけれど、軽々しく、こいつに頭を下げるリスクを負う訳にはいかなかった。
すると美希は小さくため息をつき、
『そう言うと思った。しょうがない。じゃあ、あたしの勝ち負けはキミが決めていいよ。あたしはパーを出すから』
割とサバサバした口調で言った。
本当にパーを出すのか? 疑うと同時に僕は気付いた。じゃんけんという心理戦は、既に始まっているのだ。
ーー面白い。僕はどうしてか乗り気になって、勝率を五分より高めようと思った。やめておけばいいのに、人間の欲深さのせいなのかもしれない。
『本当にパーを出すのか?』僕が率直に聞いてみると、
『出します。あたしのまごころに誓って』
コスモスの花言葉を知ってか知らずか、美希は胸元に手を当てて言った。
『でも、よく考えてね。あたしがこの格好でお辞儀をしたらどうなるか、キミはよーく知ってるよね? だからこれは、キミがどうしたいかじゃなくて、あたしをどうさせたいかってこと』
なるほど、チョキを出しづらくさせる作戦か。仮にチョキを出して僕が勝ったところで、『そんなにあたしの胸を覗きたかったの?』などと言われて、僕は再び変質者扱いだ。
だが、そんなものは負け犬の遠吠えというやつだ。僕に効くものか。
『それでも、あたしはキミの出した答えを尊重する。あたしが負けたら、約束通りキミにお願いするよ。心を込めて、絵を描いてくださいって』
ーー悪くない。美希が健気さを演じようと、僕はそう思うだけだった。
よし、チョキを出そう。僕はそう決めた。
でも。
『心の準備はいい? じゃあいくよ』
美希に聞かれて、僕は慎重になった。
いや、待て。こいつがそんなに単純だろうか。チョキを出させないようにしているようで、実はチョキを出させようとしているのではないか。
だから僕は念のためにもう一度聞いた。
『本当にパーを出すんだな?』
『何回も言わせないで』
『出さなかったらどうする?』
『くだらないこと聞かないで』
ーーいや、こいつはパーを出さない。こいつは僕を騙すつもりだ。ここにきて美希が明言を避けるものだから、僕の心は揺らいだ。
だったら何を出してくる? こちらは何を出すべきだ? それともただの考え過ぎか? やはりここは勝負を避けるべきか?
僕は落ち着いて考え直す必要があった。
でも、そうはさせまいと美希が言ってきた。僕に釘をさすように、ドスの効いた口調で。
『はい、制限時間あと十秒。言っとくけど、乗っかかってきたくせに、何も出さなかったりしたら許さないから』
美希の本性を垣間見た気がして僕はゾクッとした。
でもその時だった。僕にある電撃的思考が走った。それは僕にとって神様からの贈り物のように思えた。
ーー《僕がパーを出せばいいのではないか》。
言った通り美希がパーを出してくれば引き分けになる。そうすれば、『やはり対等な関係が良いと思う。これからよろしく』などと言って、汚名を着せられることなく、勝負を終わらせることができる。
そしてチョキを出す僕に勝とうと、美希が僕を騙してグーを出してきた場合、それは僕の勝ち、優越感に浸りながら、ご褒美タイムにあずかれる。しかも変質者呼ばわりされることなく、だ。
ーーいける、これしかない。
『よし、いいだろう』
僕は自信と安心感に満ちていた。なぜなら僕に負けはないのだから。さあ、思う存分騙してくるがいい。
そして運命の瞬間。『じゃんけんぽん』美希の合図とともに、僕はパーを出した。
なんと間抜けだろうか、美希によって植え付けられた陰謀の種の開花を、自ら告げるように。