1ー6話
『別に待っていた訳じゃない』スケッチブックに視線を落としたまま僕が言うと、
『そ、別に何でもいいけど』美希はそう言って僕の隣、長椅子の片側に座った。
人ひとり分あけて微妙な距離感だ。
先週と同じコロンの甘いにおいが微かに漂ってきて、僕はまたうっかり警戒心を緩めそうになった。
でも、今回はそうはいかない。
僕は横目で美希の様子をうかがった。すると美希は何やら持っていた手提げ鞄をゴソゴソしている。何をするつもりだろうか。
『お昼まだなんだよね、あーお腹すいた』
言いながら美希が取り出したのは、小さめのコンビニ袋だった。言う通り昼食らしいが、続けて美希はそれを僕の方に向けて問いかけてきた。
『さて問題です。あたしは一体何を買ってきたでしょう?』
『サンドイッチと野菜ジュース』
考えるまでもない。僕は即答した。
『正解! すごいね! キミもしかして超能力者?』
美希は驚嘆の素振りをみせるけれど、答えられて当然だった。なぜかというと、
『いや、中身透けてるから』
まったくくだらない茶番だ。僕はペースを乱されないように、いたって冷静な口調で言った。
でも、まぁ、美希が仕組んでいたのは単なる茶番ではなくて、恐るべき陰謀だった訳だけれど。
僕はただ揶揄ってきただけとしか思わなかったから、残念ながら、またしても、この時点で僕の敗北は決定的だった。
『そっかー。キミ、覗きは得意だもんねー。超能力者じゃなくて変質者だ』
美希はにっこり微笑んで言った。
しかもあまりにテンポよく、棒読み口調で言ってきたものだから、最初からそれを言いたいがために聞いてきたのだろうと僕は思った。
ーーああ、こいつの性格の悪さははじめから分かりきっている。
本来なら即反論、自身の正当性を主張すべきところだけれど、僕は我慢した。
ここは潔く認めた方が、本当に隠したい、美希を描きたいと思っている心をカモフラージュできる、そう考えたからだった。
『あんなふうにされたら、男なら誰だって視線を向けてしまう』
『だからって、あんなに慌てて顔を真っ赤にするのはキミくらいだよ。あー、今思い出しても可笑しい。キミ、女性経験ゼロでしょ?』
くそう、何を言われてもここは耐えるべきだ。僕が今度は黙秘権を行使すると、少しの間の後、
『そういえば、先週のあの絵は描くのやめたの?』
美希が野菜ジュースにストローを突き刺し、聞いてきた。
そうだ、まずはその礼からだった。が、僕の中の、美希に感謝を伝えたいという気持ちは、だいぶ薄れてしまっていた。当然だ。
だから僕はこう言った。あるいは皮肉として伝わる可能性の方が高いけれど、それならそれで良いとさえ思った。
『ああ。キミのおかげで、新しい絵を描こうと思った』
ーーキミが余計なことを言ってきたせいで、前の絵を描き続ける気が失せた。
もちろん僕にそんな気持ちはなかったけれど、嫌味ったらしい反撃のつもりで。
でも、そんな子供騙しの攻撃が美希に通じるはずはなく、
『ふーん。で、それなんだ?』
美希はどうでも良さそうに流すと、僕のスケッチブックを指差した。
続けて同じような口調で『見せて』と言ってきたので、僕は素直にスケッチブックを手渡した。
今回は何を言われるだろうか。いや、さすがに構図の段階で何かを言われることはないだろう。
僕はこの隙に心を落ち着けようと思い、コスモスに視線を逸らした。
コスモスは穏やかなまま咲き、その健気な微笑みで僕を癒してくれる。次第に僕の心に立った荒波は静まり、陽が差していく。まさに《乙女》のなせるわざだった。
なのにまったくこいつときたら……少しはこのコスモスを見習って欲しいものだ。
しかし、そう思った時だった。
隙を見せたのは、僕の方だったのだ。
僕の隣で突然、雷鳴が轟いた。
『ビリビリビリビリー』
美希の声だった。
ハッと視線を戻した時には手遅れだった。スケッチブックは美希の声とともに落雷に遭い、僕の午前中の成果は、雷様の手によって、容赦なく引き裂かれてしまった。
『なっ、何をする!』
僕は思わず長椅子から立ち上がった。そんな僕に、美希はすかさずページの一片を突き付けてくる。
『何って、これあたしでしょ? 著作権』
そこに描いてあったのは、ただの人形のようなものだ。個人を特定することなんてできないし、男女すら分からない。
まぁ、確かに美希を想定して描いたものに違いなかったけれど、言わなければ分からない。
『そんなものにまで著作権が認められてたまるか!』
僕は声を荒げて抗議した。でも美希はまるで動じる様子はなく、右手人差し指をピンと立てた。
『あたしを描く条件そのいち。あたしが居ない間にあたしの絵を描くのは禁止。こういうのもダメ』
言うと、美希はそれをクルクル丸めてコンビニ袋の中に詰め込んだ。まるでゴミを扱うみたいにして。
な、なんてやつだ……美希のあまりの傍若無人っぷりに僕は絶句した。
『とりあえず座ったら? 周り、みんな見てるよ』
お前が言うか! 僕はつっこみたくなった。
でも、僕としても、よく来るこの噴水広場で、不要な注目を集めることは避けたかった。
『そんな条件聞いてない』僕がおとなしく座って言うと、
『今言った』美希はスケッチブックをパタンと閉じ、返してきた。
もしかしたら美希を出迎えずに、スケッチブックに視線を逸らした罰だろうか。強めに閉じられた動作から、そんな意思が伝わってくるようだった。
※
まさか僕が美希を描きたいと思っていることも見透かされているのではないか。僕は少々不安に思いながら、美希の次の行動をうかがった。
すると美希は何事もなかったかのように、コンビニ袋からサンドイッチを取り出し、ビニールの包装を解きはじめた。
食事時を狙うなんて紳士的じゃないけれど、おそらく今が攻め時だ、そんな予感がした。
そう、僕はあくまで描いてやる立場だということを主張しなくてはならない。何のためにかは、馬鹿らしく思われるかもしれないけれど、僕自身のプライドのために。
『まだキミの絵を描くと決まった訳じゃない』
『んー?』
『僕からも条件がある』
そして僕は、例の条件を美希に告げた。
『一つは絵が完成するまで、僕の描く絵に対して何も意見しないこと。指図や要望は受け付けない。僕が思った通りに描かせてもらう』
『ほーほー』
美希がサンドイッチの包装を解き終えた。新発売のタマゴサンドだ。美希の関心は今それに向けられている。
『理由は僕自身の成長のためにだ。誰かに言われてではなく、自分の力で絵を完成させたい。その代わり、完成してからの批評ならいくらでも受ける』
『いただきまーす』
ハムッと美希がタマゴサンドにかじりついた。こちらに噛みつかれるより遥かにマシだ。
『それからもう一つ。納得いく絵が完成するまで付き合うこと。キミがどのくらいの頻度で来られるかにもよるが、完成までの期間は明言できない。でも、途中で面倒くさくなったりして、やっぱりやめたは無しだ』
『んーっ、おいしー』
美希はご満悦のようすだ。パンのサクサク感とタマゴのしっとり感の相性が素晴らしい一品だと聞く。今度僕も食べてみようか。
『この二つを約束できるのなら、僕がキミの絵を描いてやる。いや、もう一つ、今のように物理的に妨害する行為も当然禁止だから、全部で三つだ』
僕は膝の上のスケッチブックをポンポンと叩いた。そして美希に問いかける。
『以上だ。さあ、どうする? 条件を呑めないのなら断ってくれて全く構わない。僕は別の絵を描くだけだ』
内心、祈るような気持ちで。すると、
『ん? おしまい? ちょっと待ってね、まだ食べてるから』
聞いていたのか聞いていなかったのか、はっきりとは分からないけれど、美希はそう言った。
美希はじっくりと味わうようにタマゴサンドを食べ続けている。しかし、たかだかタマゴサンド一つを幸せそうに食べるものだ。
美希の向こう側に咲くコスモスが一緒に視界に入って、僕はうっかり『良く似合う』なんて思ってしまいそうになった。
危ない危ない。僕はすぐさまその思考をかき消すと、警戒を緩めないまま、美希が食べ終わるのを待った。