1ー4話
噴水広場は家から歩いて30分ほどの距離にある。
歩けない距離じゃないけれど、画架や折りたたみ式の椅子など、画材一式を持ち運ぶのには少々距離があるから、絵を描きに行く場合、バスを利用することが多かった。
でもこの日、僕は噴水広場までを歩くことにした。
先週同様、秋晴れを予感させる清々しい朝だ。新しく絵を描き始める前の緊張感と高揚感が合わさって、僕の足取りも必然的に喜びに満ちたものになる。
だからこんな日にバスに乗るなんてもったいない。このままどこまでも歩いていけそうな勢いだ。
などと言えれば良かったのだけれど……。
当日、僕の実際の足取りは重く、頭の中にはどんよりとした曇り空のような、疑心と不安が渦巻いていた。
それは前日になってようやく、ある重大な抜け落ちに気付いたからだった。
何かと言うと、僕は美希を描く気満々で準備を進めていた訳だけれど、そもそもの話、美希は本当に来るのだろうか?
思えばあの日、美希が僕の返事を待たずに去っていったのは、僕が来ようが来まいがどちらでも良かったからではないのか。
ただその場限りの自己顕示欲を満たすために僕に声をかけ、それが満たされたのなら、もう僕に用はなくなったのではないのか。
あれらの言葉がイタズラ目的の軽い気持ちで出るとは思えないが、いきなり初対面の歳上相手にダメ出しするようなやつだ。何を考えているのか分からない。
それに本当に来るつもりだったとしても、何か急用が入って、来られなくなる可能性だって十分にある。
せめて連絡先を聞くか教えるかしておけば、こんな事態にはならなかっただろうと後悔したけれど、それはそれで別の心配を招きそうだった。
要するに、この一週間で僕がしておくべきだったことは、意気揚々と絵の具や筆を買い揃えることではなく、美希が来なかった場合の心構えだったという訳だ。まったく間抜けな話だ。
そんな事情があって、噴水広場での待ち時間もなるべく短くしたかったから、僕は適度に回り道をしながら、噴水広場までを歩くことにした。
※
僕が噴水広場に着いたのは、午前10時過ぎだった。
家を出たのは9時前だったから、僕の鈍足っぷりを分かって貰えると思う。その上、得体の知れない荷物を多く背負っていた訳だから、はたから見て、僕は街をさまよう奇怪なカタツムリだったろう。
カタツムリらしく傘まで差そうものなら、僕はこの日、この街一番の注目を集めていた可能性も否めないけれど、もちろん僕にそんな勇気はなかった。
先週美希と会ったのは13時頃だったから、それまでまだ2時間以上ある、ひとまず荷物をどこかに置こう。僕はそう思って辺りを見回した。
平日の午前中にも関わらず、噴水広場には既に結構な人数が集まっていた。
これから取引先に向かうスーツ姿の会社員、犬の散歩の途中でお喋りに花を咲かせるご婦人方、噴水の前で賑やかに記念写真を撮る修学旅行生達。
当たり前なことだけど、ここに居る理由や目的は皆様々だ。物事に対する価値観や、これまでの人生だってまるで違う。でも、それなのに、今この瞬間こうして同じ場所に居る。
その巡り合わせが一体どれくらいの確率なのか、それは神様以外には分かりようがないけれど、例えば美希がもう噴水広場に居て、僕を待ってくれている確率と比べて、どちらが現実的だろうか。
僕はそんなことを何気なく考えながら、場所を探すフリをして美希の姿を探していた。
背の高い棒状の両面時計の傍、色とりどりの長椅子の一つ一つ、今僕が来た方とは逆側の出入り口、など。待ち合わせの役目を果たしそうな場所は一通り確認した。
結局、そのどこにも美希の姿はなかった訳だけれど、僕の中には『もしかしたら』の期待が少しばかり残されていたから、僕は同程度がっかりした。
指定の時間に来るかどうかすら分からないと、散々自分に言い聞かせながらやって来たというのに、回り道の意味は何だったのか。
間抜けを通り越してとんだ笑い者だ。勝手に期待して、勝手に裏切られたような気持ちになる。僕の悪い癖だ。分かってる。
あの生意気な言葉遣いや、脅迫まがいの行動は抜きにして、僕に新たな心境を与えてくれただけでも、美希には感謝すべきなのだ。
とにかく、もし今日美希ともう一度会えたら、まずは先週の礼から言おうと僕は思っていた。おかげで絵を描くきっかけを思い出すことができたと。
そして美希が来る来ないどちらにしても、美希の言葉と前回までの絵を糧にして、今日から新しい絵を描こうと僕は決めていた。
まずは構図を練るところからだ。
僕は空いていた近くの長椅子に腰を下ろすと、持ち運び鞄の中からスケッチブックを取り出した。
新しいページを開いて鉛筆を持ち、実際にどんな絵を描こうか考えるはじめると、僕の曇り空は消え去り、ようやく心地良い秋晴れを感じることができた。
美希を描く場合と描かない場合、どちらを用意しておくべきか。そんなことはどちらでもいい、今感じたことを、感じたまま描こう。
『ふぅー』僕は大きく息を吐いて伸びをした。
さて、今日はどんな一日になるだろうか。
爽やかな風が草木を揺らしながら近くを通り抜けていく。今日一日がずっと穏やかでありますようにと、僕はそれに願いを乗せた。
ーーでも。
僕のそんな些細な願い事は、この後やってくる美希によって、木っ端微塵にされることになるのだった。