1ー3話
ここで僕の描く絵について少し触れておきたい。
僕の描く絵は油絵だ。油絵と言えば、歴史的な画家ーーモネやルノワール、ゴッホらの名は誰もが知るけれど、油絵自体がどのようにして描かれるのかは、あまり知られていないと思う。
油絵の一番の特徴は、透明性の高い油絵の具を利用して、色を塗り重ねていくことにある。そうすることによって、下層の色が表層に影響を及ぼし、油絵特有の《深み》ある表現を可能にしている。
具体的にどういうことかと言うと、例えばテーブルの上に置かれた赤いリンゴ。収穫時期を迎える前、それは酸っぱそうな黄緑色をしていたように、そのリンゴを油絵の具で描く場合、赤色の下に他色を潜ませて、これまでの経緯を描くことができる。
それはいわば《物語》を描くようなものだ。
絵とは本来、瞬間を切り取ったものに過ぎない。けれど、人々を感動させ得る素晴らしい絵においてそれは決して断片的なものではなく、停止した一場面の中にも、過去から現在、さらには未来へと続いていく連続性が描かれている。
世界で最も有名な絵画『モナ・リザ』について、ご存じだろうか。
そのたった一枚の絵に関して、数え切れないほどの文献が世界中に出回っているように、それを見て人々が持つ印象は様々だ。
喜びの絵だと言う人もいれば、悲しみの絵だと言う人もいる。絵の女性が幸せを感じていると思う人もいれば、恐怖を抱いていると思う人もいる。
同じ絵を見ているのに、こうも極端なのは何故なのか。
それは、一方の捉え方が正しくて、一方の捉え方が間違っているという訳ではなく、両方とも正しいというのが最も結論に近い。
モナ・リザの制作期間は3年から4年と言われているけれど、その期間の中で、今述べた重ね塗りが、実に数百回と繰り返し行われている。
そしてその一回一回に、かの天才、ダヴィンチの《意図》がそれぞれ込められているのだから、絵の持つ深みは計り知れない。
それはもはや物語と言うより、複雑に入り組んだ迷路のようなものなのかもしれない。
そこには喜びや悲しみ、幸せや恐怖といった感情も含まれていて然るべきで、その全てが、絵の中に迷い込んだ人々の感じ取る、モナ・リザの魅力なのだ。
つまり、人々は絵を見るという行為を通じて、瞬間に秘められた物語、ないしは現実ではない世界の中に身を置き、その一連の自己投影の過程で絵の持つ深み、作者の意図、すなわち《ココロ》に触れ、共感や衝動を生み出す。
それこそが絵画において、人々に感動という経験をもたらす仕組みなのだ。
これらのことについて、僕に改めて考えさせたのは、他でもないあの日の美希の言葉だった訳だけれど、僕に感謝の気持ちはまるでなく、美希と出会ったあの日、家に帰った僕は反発心で溢れていた。
先ほども言った通り、僕は描いていた絵に少々(と言いつつ実はかなり)自信を持っていたから、色仕掛けに引っかかったことはまだしも、自分の絵に対して的確な意見をされたことが悔しくて仕方なかった。
『この噴水と一緒にあたしを描いて』。
その言葉に対する返答を、僕は何もしていなかった。
僕の返事を待たずに、『じゃあ一週間後、同じ曜日、同じ時間にまた来るから』と言って、美希が立ち去ったからだった。
だからもう美希に会いたくないのなら、その時に噴水広場に居なければいいだけのことだった。
でも、僕はそこに居なくてもいい言い訳を、美大を辞めた時と同じように探そうとしていたけれど、その一方で、美希を描きたいと思っている自分を抑え切れずにいた。
半ば強要されたようなものなのに、忘れてしまえばいいだけなのに、どうしてなのか。
その理由は考えるまでもなかった。
人物を描ける機会なんて、そうそう無いのだ。
美大を辞めてからというもの、僕はいつも一人で街の景色ばかりを描いていた。最後に人物を描いたのといえば、中学の頃の美術の授業にまでさかのぼる。
何年もの間、人物画を描いていなかったのは、描きたくなかった訳じゃない。絵のモデルになってくれる相手なんて居ないから、描きたくても描けなかったのだ。
美大を辞めた僕にとって、今回を逃せばもう二度と人物を描く機会は訪れないだろうと、心のどこかにそんな予感があった。
しかも僕の高揚の原因はそれだけじゃなかった。
モデルとなる人物、美希がこの街の《二面性》を表現するのに最適と思えた。天使のような容姿と、悪魔のような性格。僕の探し求めていた《ギャップ》という題材が、まさにそこにある気がした。
だから僕は条件を二つ提示して、それが認められるのなら、美希を描こうと決めた。
有名な画家でもなければ、将来有望な美大生でもない。本来ならモデル代を払って描かせて貰うべき立場にも関わらず、一体何様のつもりだと思われかねないけれど。
条件の一つは、絵が完成するまで指図したり感想を述べたりしないこと。途中で何か言われると、今回のように変な意地や反発心が生まれて、自分の絵が描けなくなりそうだった。
そしてもう一つは、納得のいく絵が完成するまで付き合ってくれること。たいした理由もなく美大を辞めた僕が言うのも可笑しいけれど、そんな僕だからこそ、それなりの決意と覚悟をもって臨みたかった。
いつまでもこうして絵を描いている訳にはいかないから、今回が最後だという気持ちで、文句の付けようがない最高の絵を完成させてやるーー。
そして一週間が経ち、迎えた同じ水曜日。
僕はそれまでに人物を描くために必要な絵の具と筆を買い揃えて、噴水広場へと向かった。