1ー2話
夏の陽気の残る昼下がり。繁華街の一角にある噴水広場。
『あー、全然ダメだね、キミの絵』
初対面の僕に対する、美希の一声はそれだった。
画架にキャンバスを張って、心地よく筆を持っている最中に、背後からいきなりそんな声を浴びせられたものだから、僕は明らかに不機嫌になった。
ーーなんだこいつ。
僕は無視しようと思ったけれど、絵を貶されることなんてこれまで一度もなかったから、少し興味も湧いてきた。好奇心のようなものなのかもしれない。
一体どんなやつが言ってきやがったのだろう。
声自体は若い女のものだったが、どうせまぁ、他人を批判することしか知らない性格の悪いやつが、ちょっとした退屈しのぎに声をかけてきたのだろうけど。
本当なら無視して当然だけど、こちらも昼食を済ませて、ちょうど眠くなりかけていたところだ。よし、眠気覚ましに、少しだけ相手をして貰うとしよう。僕はそう思って筆を止め、背後を振り返ることにした。
ーーと。僕と美希との出会いの場面は、こんなふうに始まる訳だけれど、例えばここで僕が振り返らずに、美希を上手くやり過ごせていたのなら。
きっと僕はこの数ヶ月後、地獄送りにされずに済むのだろうけれど、もし今の記憶をそのままに、もう一度この場面に戻れたとして、僕は懲りずにまた美希を振り返ってしまうと思う。
だからこれは、キャッチセールスに何度も引っかかってしまいそうな間抜けな僕と、冷酷無残、パーフェクトスナイパーの肩書きを隠し持つ美希との、開戦の瞬間でもあった。
つまり、僕に勝ち目なんてこれぽっちも無かった。
そんなことは知るはずもなく、この時僕は自分の絵に少々自信を持っていたから、真っ向からそれに勝負を挑もうとした。むしろ勇敢だと褒めて貰いたいくらいだ。
振り返った僕が見たのは、頭の中に思い描いた人物像とはまるで違う、華奢で、清楚で、優しそうに微笑む女の子だった。
夏の海を思わせる水色のワンピースを着て、秋を匂わせる乾いた風に、セミロングの艶やかな黒髪をなびかせている。ガラス細工のように精巧な顔立ちと、透明感のある肌。とびきりの美少女と言っても良かった。
僕は不意を突かれて戸惑いながらも、冷静な思考を試みた。
歳は二十歳とまではいかない。声をかけられる場合、相手も同じように絵を描いていることがほとんどだったから、年齢的に、女の子は美大に通う学生の可能性が高い。
その上見たことのない顔だから、今年の春に入学したばかりの新入生なのだろう、僕よりも歳下、一応は後輩ということになる。
だとするとそんな子が、しかもこんなに可愛い子が、僕に対していきなり暴言を吐いてくるはずがない。
そうだ、今のはきっと何か聞き間違えたのかもしれない。例えばどこかの方言だとか。
そんな僕の精一杯の希望的観測を、美希は容赦なく打ち砕いてくれた。
『ホント見てられない。絵を少し勉強しましたって感じの人間にありがちなコトをしてる。キミ、ここの美大生?』
美希は右手人差し指で、僕を真っ直ぐ指差して言った。まるで僕に拳銃を向けるみたいに。
やっぱり聞き間違いなんかじゃなかった。僕はまた少し腹が立ってきたけれど、歳下の女の子相手にムキになるのも大人気ないと思ったから、あくまで冷静に対応することにした。
『キミって……キミこそ何? いきなり失礼だと思うけど?』
『聞いてるのはあたし。質問に答えなさい』
命令口調。どうやら性格に問題があることだけは間違いないようだ。
『美大はもう辞めた。だから僕には関わらないでくれ……』
見た目だけなら文句の付けようがないのに。僕は何となく『もったいない』と思いながら、美希に背を向けた。
まあ何でも良い、そろそろ絵描きを再開するとしよう。放って置けばこいつも飽きて、そのうちどこかに行くだろう。僕はそう思って、何事もなかったかのように筆を動かし始めた。
でも、美希はなかなか立ち去ろうとはせず、ちょくちょく言葉を挟んできた。
『ね、美大を辞めたのに、キミはどうして絵を描いてるの?』
『キミには関係ない』
『ね、キミ、もしかしてまだ画家になりたいの?』
『キミには関係ないと言った』
『ふーん』美希は適当に相づちを打った。
僕は黙々と筆を動かし続ける。するとその様子を4、5分眺めた後、美希がまたポツリと口を開いた。
『キミの絵のダメなとこ、教えてあげよっか?』
まったくしつこいやつだ。どうせ評論家ぶった指摘をするだけだろうが、それで気が済んだら今度こそどこかに行ってくれるかもしれない。僕はそう期待して、
『ああ、言えるものなら言ってくれ』
美希の言葉に耳を傾けるフリをした。そうしたら、
『キミの絵は、ただ綺麗なだけなんだよ』
と、美希はとても落ち着いた口調で、僕の絵の品評を述べ始めた。
『キミは自分の好きなモノを、ただ自分にとって都合のいいように描いてるだけ。絵を描くのに一番大切なことくらい、きっとキミも知ってるはずだよ。誰かを感動させたり、惹き付けたりするために不可欠なもの。それはね、ココロ。今のキミの絵にはそれが欠けてる。今のキミは殻の中に閉じこもって、殻の内側に自分の理想を描いてるだけ。一言でいって自己満足。そんなんじゃ誰もキミのことなんか見てくれないし、何も伝えられないよ』
本当は聞くつもりなんてなかったのに、美希の言葉を聞いて、僕はふとあることを思い出した。
それは僕が美大を目指すことになったきっかけ。
小学生の頃見に行った展示会の、自由で躍動感のある絵に感動して、僕も誰かを感動させたくて、絵を描くようになった。
僕のこの絵で、果たして誰かを感動させられるだろうか。『上手く描けてる』と誰かは褒めてくれるかもしれないが、例えばあの時の僕は、今の僕のこの絵を見て、あの時と同じように感動するだろうか。
確かにそうは思えなかった。
僕自身、妥協と惰性で絵を描き続けていると、どこかで思い始めていたからだった。
美希は続ける。観光写真のように綺麗に描かれた僕の絵を見て。
『ココロを持たないモノは描きやすいからね。季節や時間帯の飾り付けでごまかして、自分だけの絵を描いた気になるのはよくあることだよ。だからここの美大では、最初は同じ絵を描かせて《自分》を見つけさせることから始めるんだろうけど、臆病な人間は、本当の自分に気づきたくなくて、そこで逃げ出しちゃう』
なんて知ったようなことを言うやつだと思ったけれど、美希の言葉は見事に僕の現状を言い当てていた。ただの偶然に決まってる。僕はそう思おうとしたけれど、背筋につめたいものを感じずにはいられなかった。
そんな僕に寄り添ってくるように、美希はどこか優しげな口調で続ける。
『でもそれは人間だから当たり前のこと。才能の有る無しに関わらず、誰にでも起こり得ること。あたしだってわざわざ怖い思いはしたくないし。才能を開花させた人間が何人も居るように、たった一つの壁を越えられずに、才能を秘めたまま、夢を諦めてしまった人間だって何人も居る。でもそれは絶対的な神様の領域なんかじゃなくて、ほんの少しのきっかけを掴めたかどうかなんだと思う。キミに才能があるかどうかは分からないけど、もしキミも殻の中に閉じこもったまま人知れず消えていく一人だとしたら、ねぇ? もったいないと、思うでしょ?』
『もったいない』たった今、僕が美希に対して思った言葉を、美希は僕に対して強調気味に言った。それはつまり、この時点で僕の心は既に見透かされていたということだ。
コンコンコン。
背後から固い地面を叩く足音が近づいてくる。あるいは僕の心の扉をノックする音かもしれない。
『……きっかけ、欲しい?』
悪魔の囁き声。返事をしてはいけない予感がしたから、僕はじっと黙っていた。
『……ねぇ、欲しいんでしょ?』
それなのに、僕の鼓動は何かを期待するように高鳴っていく。
そして次の瞬間。
ふわり甘い匂いが漂ったかと思うと、僕とキャンバスの間の僅かな隙間、僕のすぐ目の前に、美希が割り込んできやがった。
しかもなんて計算高いやつだろうか、少し前かがみになって、ワンピースの緩い胸元の奥を僕に覗かせるようにして、だ。
『うわっ‼︎』
僕はお化けを見たような声を発して、思わずその場から飛び退いたけれど、僕の本能は、ちゃっかり視線をそこに置いたままにしていた。
柔らかな光に、白く慎ましい膨らみが見えて、僕は一瞬で虜になりそうになった。
それを美希が見逃してくれるはずはなく、
『ふふ。欲望に正直になることは、別に恥ずかしいことじゃないよ』
美希はいたずらっぽく笑いながら言った。
ーーバレた。具体的に何がかは分からないけれど、僕は無性に恥ずかしくなった。
大人の仮面を剥がされた僕は、赤面を隠せなかった。慌てて美希から視線を逸らして、『何のことだ』ととぼけるのが精一杯だった。
そんな僕に追い打ちをかけるように、美希は蔑んだ目線を向けてくる。
『まだ分からないの? キミにこのきっかけを拒むことは出来ないし、むしろありがたく思うべきなんだよ。それでもどうしても嫌だって言うのなら、キミの画家への道を完全に閉ざすために、今ここで叫んであげても良いけど? おっぱい見られたって』
脅迫まがい、ハニートラップもいいところだ。
しかし片や美大を中退した落ちこぼれ、片や美大でもトップクラス間違いなしの容姿を持つ新入生。事実云々以前に、九割五分の人間は僕を有罪と見なすだろう。
軽い気持ちで振り返っただけなのに、とんでもないやつに絡まれてしまった。僕は大きくため息をつくと、弱々しく声を発した。
『……何をすればいい?』
事実上の敗北宣言だった。
『まったく、最初から素直にそういえば良いのに』
美希は満足げな表情を浮かべながら言うと、その後、まさしく僕の人生にとって大きなきっかけとなる一言を告げた。
ただの女の子らしく、さりげなく髪を耳に掛ける仕草で、
『この噴水と一緒にあたしを描いて』。
よくも軽々しく言ってくれたものだと思う。
こうして僕は美希と出会い、美希という存在を知ることとなった。