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序章

 どうやら、キミが寝ている間に電車に乗って、こっそり街を出て行こうなんて考えた僕が、愚かだったみたいだ。


 電車の到着時刻を知らせる電光掲示板は、『運転見合わせ中』の赤い文字で埋め尽くされている。


 昨日から続いた、何年か振りの大雪の影響だ。


 夜中のうちに雪は止んでいたから、もしかしたらと淡い期待を抱きながら駅に来てみたのだけれど、僕の計画は、降り積もった雪とともに綺麗さっぱり白紙になってしまった。


優樹ユウキの考えることくらい、全部お見通しなんだから』なんて、キミはさぞ得意げな顔を浮かべて、立ち尽くす僕を笑っていることだろう。


 この様子だといつ電車が動き出すのか分からないから、一度引き返した方が良いのかもしれない。でも、家まで戻るという行為は、なかなか躊躇ためらうものがあった。


 家まで歩いて一時間近くかかる上に、今日、僕はどうしてもこの街を出ないといけないから、同じ時間をかけて、同じ道をもう一度ここまで戻ってこないといけない。


 それに、ただ歩くだけじゃなくて、鉛のようにズンと重いこの大きなトランクを引き連れなくてはならないのだから、相当な体力と気力の消耗は免れない。


 バスやタクシーを利用するという手も考えられなくはないが、この積雪に加えて今日は日曜だ。ただでさえ本数が少ない上に、観光客の多いこの街の道路は平日以上に混雑する。


 となると、僕に選択はあってないようなものだった。


 とことんひねくれ者で、意地の悪いキミ。今の今まで僕を周到に困らせてくれる。


『ふぅー』深くため息をつくと、それが白旗を上げさせられたみたいにモワッと浮かんで、それすらキミの仕業のように思えた。

 くそう、ここまでやるか。僕は悔しさを呟きながら、改札へと進んだ。


 駅員に尋ねる。


『電車、いつ頃来ますかね?』

『申し訳ありません、到着の目処は立って無いんです』

『そうですか。上で待っていてもいいですか?』

『それは構いませんが……恐らく長時間お待たせしてしまうことになると思いますよ』


 何時になろうと待ってる他にないから、別に何時でもよかった。だから本当は、電車が何時に来るかなんて聞く必要もなかった。

 でも改札を通り抜ける前に、誰かと会話をしておきたかった。これが、僕のこの街での最後の会話になるかもしれないから。


『はい、大丈夫です。きっと昼過ぎには来ると思いますので』

 僕はそう言って、駅員に切符を差し出した。


『いつ頃来ますか?』とたった今聞いておきながら、僕のあべこべな応答に、駅員は戸惑いを隠せないようだったけれど、すぐに冷静さを取り戻して切符に判子を押してくれた。


 これまで街を出て行く、僕と同じような事情を持った人間を多く見送ってきたのだろう、駅員は改札を通り抜けた僕の背中に、『いってらっしゃい』と静かな声をかけてくれた。


 さりげない言葉が心にしみる。おかげで僕はこれからもずっと、この街を好きでいられると思う。

『いってきます』僕は振り返らずに、お礼の気持ちを込めた。


 ※


 日曜の朝、時刻は午前6時過ぎ。駅のホームは静まり返っていて、僕以外誰も居ない。こんな日のこんな時間だから、当然と言えば当然だ。


 ホームに降雪対策はされてなく、屋根も雨避け用の簡易的なものでしかないから、案の定、ホームの大部分に積雪が残されている。


 冬のこの時間だから辺りはまだ薄暗く、ぼんやりと橙色に灯る外灯が、その真新しい雪に僅かな暖かみを与えている。


 まるで雪の絨毯のようだ、なんて言ってみても寒いものはやっぱり寒いから、僕はひとまず自販機に向かうと、暖かい缶コーヒーと小さなペットボトルに入ったミルクティーを買った。


 この駅は上り下りの2ホーム、計4つの乗り場と、特別広くもないごく平凡な駅だけど、唯一、ホームからの眺めだけは素晴らしいものがあった。


 今、僕も、やけに長いエスカレータを上がってきたように、山手の、他の建物よりも高い位置にある駅のホームからは、なだらかに下る街並みを一望することができる。


 僕はホームの端まで移動すると、木の長椅子に積もった雪を払い除けてそこに座った。

 ホームの中でも、ここからが一番、街全体を広く見渡せる。


 今は薄闇の幕がかかっているけれど、あと一時間もすれば朝陽が顔を覗かせて、街を白銀に輝かせはじめることだろう。


 つい先月完成したばかりのマンションも、あるいは何十年も昔からある住宅も、街の大通りも、街路樹も、その間を走る不揃いな車たちも、今日は皆一様に雪の衣をまとって朝を迎える。


 遠くでは、僕たちが出会ったあの噴水広場も、この日限りの装いを済ませて、目覚めの時を待っているのに違いない。


 今日の日付は12月9日。今日が特別な日だということを、僕は知っている。


 キミの二十歳の誕生日だ。


 だからキミは無邪気な笑顔ぶって、雪化粧した噴水を指差して、『見て。誕生日ケーキっていうよりも、ウェディングケーキみたいじゃない?』と、僕を試すように言ってくるかもしれない。


『うん、だから結婚しよう』

 そんな言葉、臆病な僕にはとても言えないと、今もキミは僕のことをあなどっているのだろうけれど、今の僕なら一生分の勇気と引き換えにしてでも、その言葉を言えると思う。なぜなら。


 僕は椅子の傍らに、缶コーヒーとミルクティーを並べて置いた。

 僕は甘いものが苦手だけれど、甘いミルクティーは、キミが一番好きだった飲み物だ。


 でも。


 ミルクティーを包み込むように両手で持って、『おいしいね』と幸せそうに微笑むキミを、僕はもう二度と見ることができない。


『ずっとキミと一緒に居たい』そんな言葉を、今更何回言ったところで、その言葉をキミに届ける方法を、僕はもう持たない。


 なぜなら、僕の耳に聞こえるキミの声は、過去のものだから。

 僕の目に映るキミの姿は、ただの思い出に過ぎないから。


 ……分かってる。

 ……分かってる。


 今年の夏を前に、キミは死んだ。

 僕にとって初めての彼女だった。名前は美希ミキという。


 去年の今頃はまだ交際関係になく、そもそも僕に恋愛感情はなく、誕生日の代わりに知ったキミの名前が可笑しくて、僕は呑気に『キミはミキ』なんて早口言葉を唱えていた。


 キミと会う時間が無くなってまだ半年だというのに、何年もの間、地獄の底を這っていたような気がする。

 それだけキミの死が、僕に負わせた傷は深かった。


 僕はトランクを開けると、一冊のスケッチブックとペンケースを取り出した。

 スケッチブックの前半にはこの街の景色が、後半にはこの街の景色とともに、キミの絵が描かれている。


 そして今日、このスケッチブックの最後のページに描く絵として、キミが用意してくれたのがこの場所だ。それだけに、氷のように冷たい椅子の感覚が可笑しい。


『いいさ、座らせて貰えるだけありがたい』僕は少し笑った。

 そういえば、キミは例え話が嫌いだと言っていたから、僕はあえて言おうと思う。


 駅は旅立ちの場所だ。

 だから今日、僕はこの街を出て行く。


 キミから旅立つために。

 去年のクリスマスに、『来年の誕生日は、忘れずにお祝いしてね』とキミが言ったから。


 僕は手袋を外すと、缶コーヒーを持った。すると素手で持った缶コーヒーが思ったよりも熱くて、僕はまた少し笑った。


『去年のクリスマスにキミがくれた手編みの手袋は、寒さを凌ぐのにはあまり役立たなかったけど、やけどを防ぐのには役立ったよ』


 そんなことを言いながら、僕は缶コーヒーで、ミルクティーのキャップ部分を軽く突いた。

 僕たちのファーストキス代わりに。


 もうすぐ夜が明けようとしている。


 でも怖くはない。

 もう逃げ出したりはしない。


 キミの生まれ変わりのような真っ白い雪が、この街に残されたままの、後悔や悲しみを覆い隠してくれている。


 さあ、もう一度絵を描こう。雪が溶けてしまうその前に。キミが見せてくれた、美しくも儚い、希望に満ちた物語を。

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