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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

禁じられた表現

作者: 柳明広

 美術室の引き戸が開く音がして、僕は鉛筆を動かす手をとめた。

「やっぱりここにいた」

 女の子の声が近づいてくる。岡村唯花先輩は僕の肩を後ろからつかむと、腰をかがめて僕の絵をのぞきこんだ。

「女の人?」

 僕はうなずいた。黒く艶やかな髪を胸のあたりに垂らし、両手を太ももの上で重ねている少女。ただ……

「顔、また描いてないね」

 先輩は机の上にほうりだしてあったスケッチブックを無造作に手に取り、パラパラとめくった。首がだんだん斜めに傾いていく。銀色のピアスが、夕日を浴びて輝いた。

 濃い茶色の髪をかきあげ、「ぜぇ~んぶ、顔がない。いつも思うんだけど、どうして?」

 先輩は僕の顔をのぞきこんだ。青い瞳が僕を見すえる。カラーコンタクトだ。

「そのうち描きますよ。描きたい顔を見つけられたら」

 ねえ、と先輩がこわい顔をする。「まさか、人の顔がわからない病気とかじゃないよね?」

 僕は苦笑した。「もしそうだとしたら、僕には先輩が先輩だとわかりませんよ」

「ま、それもそっか」おかしなことを言ったと笑い、「いっしょに帰ろうか」と誘ってきた。

 僕はスケッチブックを鞄にしまい、描きかけの絵を隣の準備室に移してから部屋を出た。

 人気のない校舎を歩きながら、先輩は他愛のない話をしてくる。バイトで入ったお金で新しい携帯電話を買った、ピアスを新調した、口紅が高い──どうでもいい話にはちがいないが、僕は彼女の声を聞いているだけで楽しかった。

 僕・日野誠一と岡村唯花は小学生のころからつきあいがある。あのころは美術部の先輩と後輩だったが、中学生になって彼女はバレーボール部に移ってしまい、僕はひとりで絵を描くようになった。

 美術の授業や美術部の活動のときを除き、僕は無機物や動植物はいっさい描かなかった。

 描きたいものは、たったひとつ。

 岡村唯花先輩だけだ。

 部活で汗を流す唯花先輩を描く。ただひたすら、何枚も何枚も。跳躍するたびに束ねた黒い髪がふわりと舞い、しなやかな身体が軽やかに動きボールを弾く。のちに邪魔だからと髪を切ってしまったのは少し残念だったが、その程度で先輩の美しさが損なわれるはずもなかった。

 飽くことなく彼女を描き──彼女が卒業してから、絵筆を持つことをやめた。同じ高校に入って、再び彼女を描こう。その一心で勉強に打ちこみ、見事高校に入学した。

 そして今、再び絵筆を手に取っている──

「日野君、あれ」

 正門を出たところで、僕は広い通りの端にとまっている黒い車に目をとめた。丈の長い紺色のスカートを身につけた女性が、車のそばに立っている。僕の顔を見ると、流れるような動作で頭をさげた。

「やっぱりいいところのぼっちゃんはちがうねえ」先輩はからかうように言った。

 僕は女性を軽くにらんだが、すぐにため息をつき、「すみません、先に帰ります」

「うん、また明日ね」

 何度も先輩を振り返りながら、僕は車の後部座席におさまった。すぐに女性が運転席に座る。

「お帰りなさいませ、誠一様。本日はいかがでしたか」

「葉隠が来るまでは楽しかった」わざと嫌味を言う。

 葉隠はバックミラーに困ったような顔を映し、「申しわけありません。本日はご主人様が、ぜひお食事をごいっしょになさりたいとおおせられましたので……」

「ああ、海外から戻ってきたんだっけ」迎えなんてよこさなくても定刻には帰るのに。「またすぐに出かけるのかな」

「いいえ、しばらくは本社でお仕事をなさるようです」車が動きだす。葉隠は女性の細腕に似合わない、ごつごつしたハンドルを華麗にまわした。

 父・日野誠九郎は世界的に有名な大企業の社長で、葉隠は我が家のメイドだ。葉隠、という名は本名ではない。僕の家に来るメイドはいつもいわくつきだ。そしてこれは共通していることだが、メイドの年齢は二十五から三十五歳だ。これは多分に父の趣味がふくまれていると思われる。

 何人ものメイドを雇ってきたが、今では葉隠ひとりしかいない。父と僕しかいない屋敷なので十分なのだが、ここにも父の趣味──というより性癖が関係していた。

「先ほどの少女は同じクラスの方ですか?」

「そうか、葉隠は初対面だっけ。ひとつ上の先輩だよ」

「かわいい方ですね」葉隠はくすりと笑った。「少々、お化粧やアクセサリーが派手な気もいたしますが」

 僕はムッとして、腕を組んで目を閉じた。先輩はかわいいんじゃない、きれいなんだ、と内心で反論しておく。

 三十分ほどで屋敷に到着した。広い庭をつっきると、番犬たちの姿が見えた。こっちを見てしっぽを大きく振っている。車をおりて屋敷に入ると、正面の階段から父がおりてくるところだった。

「おお、誠一」大きなお腹を揺すりながら、父は近づいてきた。「三ヶ月ぶりか。どうだ、調子は。少し背が伸びたんじゃないか?」

「高校生なんだから、そうそう変わらないよ」笑いながら、僕は父と会えたことを喜んだ。

 車庫に車をとめた葉隠が戻ってきて、すぐに夕食の準備をすると言った。父は鷹揚に「あわてなくてもいい。しばらく、誠一と話でもしてすごしたい」と言った。

 僕たちは中庭のベンチに腰をおろした。葉隠が手入れをしたバラが真っ赤な花弁を広げている。筆を滑らせたように、空は夕暮れの色にうっすらと染まっていた。

 海外の生活や仕事の話などをしたあと、父は「学校はどうだ?」と訊いた。

「特になにも」と返すと、「絵は描いているのか?」と訊いてきた。

「描いてるよ」

「そうか」どこか安堵したような表情を父は見せた。「中学三年生になって、まったく絵を描かなくなってしまったから、私は心配していたんだ」

「勉強が忙しかったから」

「それでも気晴らしに描くことがあってもよかっただろうに」父は頭をかき、「お前には才能がある。私には会社を経営するぐらいしかできんが、お前にはもっと崇高で、すばらしいことができるにちがいない。私にはないものをたくさん持っている」

「そうかな」

「そうだ。きっと、お母さんに似たんだな」父は笑い、「もし、芸術家として身を立てていこうと言うのなら、援助は惜しまないつもりだ」

 僕は思わず噴きだした。「気が早いよ。それに、芸術家なんて穀つぶしって言われるし」

「お前なら必ず、一角の芸術家になれる」

 葉隠が夕食の用意ができたと呼びに来た。葉隠は、重そうに身体を揺らす父の手に自分の手をそえ、寄りそうように身体を近づける。

 二人の姿を見て、僕はわざと目をそらした。


「私もあちこちの国を巡ってきたが、やはり葉隠の料理が一番だ」

 父は分厚い牛肉を切りわけて夢中でほうばり、葉隠が注ぐワインで流しこんだ。出張からついさっき戻ったばかりだというのに、疲れ知らずなうえ、食欲旺盛だ。あまりに動物的な食欲を目の当たりにし、僕は食傷気味になっていた。

 父は肉料理が大好物だ。世界中を飛びまわるためには相応のエネルギーが必要なのだと父は言っていたが、つきでた腹を見ると、さすがにエネルギーのとりすぎではないかと思ってしまう。

 出された料理を半分以上残してナイフとフォークを置こうとしたとき、「いつものワインはあったかな」と父が葉隠に尋ねた。

「本日の料理には合わないかもしれませんが……」

「かまわん。持ってきてくれ」

 葉隠がうなずいたとき、「僕も見に行っていいかな」と言った。「ワインセラーにはあまり行ったことがないから、興味があるんだ」

「誠一様のお手をわずらわせるほどのことではありませんよ」葉隠が言うと、

「いや、誠一ももう十六だ。連れていってやりなさい。誠一、気に入ったものがあれば持ってくるといい」と父が言った。

「誠一様は未成年ですよ」

「少しぐらい酒の味をおぼえても毒にはならんだろう」行っておいで、と僕と葉隠をうながした。

 地下のワインセラーは暑くもなく寒くもなく、一定の温度と湿度が保たれていた。何十という数のワインが並んでいる。

「この中から料理に合うワインを選ぶの?」僕は少し驚いた。「葉隠は凄いね。いつ料理の知識や技術を身につけたの?」

「お屋敷に来てからです。恥ずかしながら、料理は得意ではありませんでした」

「でも、お父さんは葉隠の料理が一番だって」

「必死で勉強しましたから」葉隠の口調は、どこか誇らしげだ。「ご主人様はお肉が好きだと、誠一様から以前おうかがいしましたので、努力しました」

「じゃあ、なんで肉料理が好きか知ってる?」

 葉隠は怪訝な顔をして考えこんだが、かぶりを振った。

「似てるかららしいよ」

「なにとですか?」

「人間に」

 足をとめ、葉隠は目をまるくした。

「女性とそういうことをするとき、男ってなめたりかんだりするじゃないか。そのときの肌の感触に似てるんだって」

「誠一様は耳年寄りですね」と笑う。

「はは。ところで、あそこが冷凍庫?」

 ワインセラーの奥にある、両開きの大きな扉。業務用の巨大な冷凍庫だ。壁と同じ色で塗られているため、薄暗い中では壁と見わけがつきにくい。豚や牛、その他めずらしい食用肉が冷凍保存されている。

「変わった冷凍庫ですよね」葉隠は言った。「大きさのわりに、ものはあまりつまっていません。ご主人様も、あまりつめこまず余裕を持つようにとおっしゃっていました。電気代も大変なものですから、もう少し小さなサイズにするか、保存せずにその都度取り寄せればよいと思うのですが」

「お父さんの趣味なんだよ」

「ですが、ご主人様や誠一様には新鮮なものを召しあがっていただきたいと存じております。わざわざ、何ヶ月も冷凍したものを使うなどと……」葉隠ははっとなり、申しわけありません、言いすぎましたと謝った。

 僕は軽く肩をすぼめ、「一時、たくさん食肉が手に入ったことがあったんだ。お父さんひとりじゃ食べきれなくて、大量に冷凍保存しておくしかなかったんだ。その名残だよ」

「こんな大きな冷凍庫にいっぱい……」葉隠はしばし言葉を失った。「いったいどれだけの量があったのでしょう」

「みんなで食べられればよかったんだけどね」僕は肩をすくめた。「さすがに無理だ、アレは」


 居間でくつろいでから自分の部屋へ行くと、葉隠がベッドメイキングをしているところだった。

「申しわけありません、もう少しだけお待ち願えますか」

 僕は逆向きに椅子に座ると、背もたれの上に腕を乗せて葉隠を見つめた。

「葉隠はさあ、お父さんのことが好きなの?」

「私はただのメイドです。そんな、おそれおおいこと……」平静を装っているが、声がかたい。

 その方がいいと思う、という言葉は呑みこむことにした。

「誠一様はお好きな方はいらっしゃらないのですか?」

 好きな人。真っ先に先輩の姿が浮かび、僕は戸惑った。今さらなのに、どうしても照れてしまう。

「あの少女ですか?」

 咳払いし、「お父さんには絶対に言わないで」と釘を刺した。

 葉隠は真面目な表情になり、「けっして」と言った。ドアの前に立ち、「おやすみなさいませ。よい夢が見られますように」と言って部屋を出ていった。

 ふう、とため息をついて部屋を見やる。間接照明で照らされた部屋にはやわらかな雰囲気が漂い、どこか幻想的であった。

 ふと、机の上のスケッチブックを手に取った。顔のない少女の絵がぼんやりと浮かびあがる。パラパラとめくり、自問する。

 僕は唯花先輩が好きなのだろうか。でも、僕が好きな先輩は……


 翌日、登校中に先輩と会った。左の頬に真新しい引っかき傷が赤い線を引いている。「寝相が悪くて、壁にぶつけたの」と先輩は苦笑した。

 僕は先輩の顔にそっと手を伸ばした。先輩は一瞬、顔を引こうとしたが、黙って僕のなすがままにしていた。指でなぞると、引っかき傷に指が引っかかる。

「傷、残ります?」心配になって訊くと、先輩は笑った。これぐらいで痕は残ったりしない、と。

 僕の質問がよっぽどおかしかったのか、登校中、先輩はずっと笑っていた。

「そんなにおかしいですか?」

「だって、あんまり真剣な顔するから。こんな傷、本当にたいしたこと……」

 先輩は僕の顔を見て黙った。視界がぼやけてくる。僕は泣いていた。

「ごめん」

 なぜ謝られたのか、よくわからなかった。

 学校についてから、先輩は逃げるように自分の教室に駆けていった。

 ──引かれてしまったかもしれない。でも、僕は本当に心配だったのだ。先輩の顔に傷など残ったら、僕はどうすればいいのかわからない。

 放課後、僕は早々に教室を出た。美術室に描きかけの絵があるが、今日は鉛筆を取る気にはなれなかった。それに、今のままではどうやっても完成しないのだ。

 下駄箱まで行くと、男子生徒がひとり壁にもたれかかっていた。仏頂面で、正面をにらんでいる。襟の記章で、二年生だとわかった。

 男子生徒は僕を認めると、まっすぐ近づいてきた。

「ちょっと来い」

 腕をつかまれ、階段下の人目につきにくい場所に連れていかれた。

「お前、唯花のなんなんだ」

 凄まれながら、僕はきょとんとした。「すみません、あなたはどなたですか」

 ゴツ、と左の頬を殴られた。指で触れると、赤いものが付着した。男子生徒の指には銀色の派手な指輪がはまっている。

「質問を質問で返すな」と男子生徒は凄み、「お前、一年のくせに唯花にちょっかいかけてるらしいな。ガキが色気づいてんじゃねえぞ」

 男子生徒の声は耳を素通りしていた。指についた赤い血。指先でこすり、手が白くなるほど拳をきつく握りしめる。

 すう、と息を吸い、男子生徒の鳩尾に思いきり拳を叩きこんだ。おびえていると思っていた相手からの反撃は、完全に不意討ちだったようだ。男子生徒は身体を折り、その場にうずくまった。

「あんたが、先輩の顔に傷をつけたんだな」制御できない怒りがどんどんわきあがってくる。「あんたの汚い顔とはちがうんだ。やっていいことと悪いことがある!」

 怒鳴り声を聞きつけたのか、生徒たちが集まってきた。誰かが先生を呼びに走る。入れ代わりに先輩が現れ、血相を変えた。

 先輩は人ごみをかきわけて僕の手を取り、走りだした。引きずられるように、人気のない校舎裏まで走る。

「いったいどうしてけんかなんかしたのよ!?」

 事情を説明すると、「なんてことを」と先輩は手で顔を覆った。

「あいつはいったい誰なんですか」

 問いかけるが、「誰でもいいでしょう」と先輩はにらみ、「誰かもわからずにけんかする子だなんて思わなかった」と怒りをあらわにした。

 僕は悄然と黙りこんだ。先輩のことを思ってやったことなのに、当の本人にそんな言い方をされては立つ瀬がない。

「先輩に暴力をふるった人だと思ったから、カッとなってしまったんです」僕は弁解した。「迷惑になってしまったのなら謝ります」

 先輩は口を開きかけたが、なにも言わなかった。いらだたしげに茶色い髪をかき、「もういい」と吐き捨て、背を向けた。

「彼は、私の彼氏なの」

 え、と馬鹿みたいな声が出た。

「彼が怒ったのは、私のせいだと思う。それについては謝る。でも、もう彼に暴力をふるったり、けんかしたりしないで。私もそんなことにならないようにするから」

 先輩が戻っていっても、僕はその場を一歩も動けなかった。


 難しい問題ですね、と葉隠は言った。

「誠一様の知る少女には恋人がいらっしゃる。誠一様がその少女と仲よくすると恋人が怒る。でも、誠一様は少女と仲よくしたい……そうですね?」

 僕はうなずいた。屋敷に戻ってから、僕は思いきって葉隠に今日あったことを話した。父には言わないという約束の上でだ。あのあと、ずっと思い悩んでいたが、どうしても僕の手にあまる気がしたのだ。

「厳しいことを申しあげるなら、少女はもう誠一様にお会いにならないかもしれません。恋人と誠一様のけんかを嫌い、原因が自分にあることを理解しているなら、きっとそうするでしょう」

「そうだよね……」葉隠も僕と同じ結論に達したことに、僕は落胆した。

「ですが、手がまったくないわけではありません」

 僕は顔をあげた。

「略奪です」葉隠は人さし指を立てた。「少女と恋人をまじえ、思いをぶつけ、必要ならば恋人と勝負する。おそらく暴力をともなうでしょうが、これしかありません」

「僕は別に、先輩の恋人になりたいわけじゃ……」

「ですが、もうこれまでの関係は壊れているのですよ。ここから先は、完全につながりを絶つか、さらに親しくなるかしかないと私は考えます。友達づきあいをしただけで恋人の不興を買ってしまうような今の状況では、進むか引くか、そのどちらかしかありません。それとも、少女と恋人が別れるまで待ちますか?」

 僕は黙ってかぶりを振った。「でも、葉隠の言うことは過激すぎる」

「申しわけありません。ですが誠一様なら軽率なことはなさらないと思い、あえて過激なことを口にしました」お許しください、と葉隠は頭をさげた。「では最後に、現実的なお話をいたしましょう」

「なに?」

「新しい恋をするのです」葉隠は僕の手を握った。「誠一様は聡明で見目麗しく、お優しい。そんな方を女性がほうっておくはずがありません。ひとりの少女にこだわるなど、もったいない。もっと大勢の女性に目を向けるべきです」

「それは、先輩との関係はあきらめる、てこと?」

「会うには別れも必要。過去を捨てることで、新しい出会いもあると私は考えます」葉隠はかすかに頬を染め、「私にも経験がありますから」

 それ、お父さんのことだよね?

 喉元まで出かかった言葉を、やっとの思いで押し戻す。しかし父のことが頭に浮かんだからだろう、つい「お父さんならどう答えてくれるかな」と口走ってしまった。

 あ、と思ったときにはもうおそく、葉隠は両の手を合わせ、

「ご主人様にもご相談してみましょう。同じ男性として、豊富な人生経験からきっとすばらしいアドバイスをしてくださいますよ」

「いや、でも」

「恥ずかしがることはございません。ご主人様はいつも、誠一様のことをお気にかけていらっしゃいます。海外からお手紙が何通も届いているではありませんか」

 父は海外出張すると、メールではなく手紙を必ず送ってくる。僕のことをとても気にかけてくれているのはわかっている。

 だが、乗り気な葉隠に対し、僕は嫌で嫌で仕方がなかった。なぜなら、父の言うことはわかっているし、僕は絶対にその案に首肯しないからだ。

「葉隠、やっぱりお父さんには黙っていてくれないかな」

「どうしてですか?」

「どうしても」僕は念を押す。それでもしぶる葉隠に、「もししゃべったら、葉隠とは口をきかない」とまで言いきった。

 眉をハの字にしている葉隠に背を向けると、「反抗期でしょうか」とつぶやく声が聞こえた。


 宿題を終え、そろそろ寝ようかとノートを閉じると、誰かがドアを叩いた。葉隠かと思いながら応じると、父の声が返ってきた。

「少し、いいか」

 驚いてドアを開け、父に椅子をすすめた。父は赤いガウンを着て、真剣な面持ちで僕を見ている。

 椅子に座ると、「葉隠から話を聞いた」と言い、すぐに「怒るな。様子がおかしいから、私が問いただしたんだ」とつけ加えた。

 僕はため息をつき、「うん、わかった」とそっけなく言った。父に訊かれれば、葉隠も答えないわけにはいかないだろう。それが主従関係ゆえなのか、ほれた弱みなのかはわからないが。

「誠一には今までこんな話がなかったからな。私はうれしいぞ」

「からかうのはやめて」

「からかいなどするものか。私は真剣だ。真剣に、お前が日野家の男として振るまうことができるか心配しているんだ」

 あまりに澄んだ眼差しに、僕は「日野家の男として振るまうなんてできないし、する気もありません」と言いだすことができなかった。

「僕は……ちがう方法で先輩に愛情表現したい」

「ちがう方法?」父は片眉をあげ、「『食べる』こと以外に、どんな愛し方があるというのだ」

「『食べる』だなんて」僕は目を背けた。

「男は女を、本当は『食べたい』と思っている。しかしそれができないから、口づけしたり、なめたり、かんだりするものだ」

 ある小説の一節だ。父は日野家の男について語るとき、必ずこの話を引き合いに出す。

「日野家の男は、本来の愛し方を実践できる、きわめて稀有な存在なのだ」

「だからお母さんを『食べた』んだね……僕を産んだあと」

「お母さんといっしょにいさせられなかったのは、悪かったと思っている」父は目を閉じ、「しかし、私は本当に彼女を愛していた。お前と同じぐらいに」

 僕はまたため息をつき、背もたれに身体を預けた。「お父さん……僕はお父さんとけんかなんかしたくない。ただ、認めてほしいんだ。僕にはお父さんとはちがうやり方があることを」

「そのやり方で問題を解決できるのか?」

 僕は黙ってうつむいた。訊かれても、答えようがなかった。

 時計が妙に大きな音で時を刻む。父はどんな顔をしているのだろう。怒っているか、あきれているか。どちらにせよ、つらいことに変わりはなかった。

「わかった」父は言った。「お前のやり方を通してみるといい。だが、どうにもうまくいかなくなったら、私を頼りなさい。必ず、力を貸そう」

 僕は弾かれるように顔をあげた。怒ることもあきれることもなく、父は微笑んでいた。息子を信じる親の眼差しだった。

「明日も早い。もう寝なさい」父は赤いガウンを翻し、部屋を出ていった。

 閉じたドアに、頭をさげた。心強い支えを約束してくれた父に、僕は心の中で感謝した。


 先輩はやはり僕をさけた。廊下で会っても、目をそらしてしまう。怒っているようでもあり、つらそうでもあった……などと言うと、自意識過剰だろうか。しかしそう思ってしまうぐらい、僕は彼女との仲を案じていた。

 放課後、先輩が教室を出たところを狙って後ろから手をつかんだ。

「え、ちょっと……」

 先輩の声を無視し、僕は歩きだした。美術室に入ったところで手をはなす。

 夕日のさす美術室で、先輩はなにも言わなかった。手で髪をいじり、僕と目を合わせないようにしている。怒っているようには見えない。ただ、当惑している……そんな感じだった。

「先輩にお願いしたいことがあります」

「……なに?」

「先輩の絵を描かせてください」

 思わぬ申し出だったのか、先輩は僕を見た。

「僕といっしょにいると、彼氏に怒られることはわかっています。でも、どうしても描きたいんです。一日十分でもいい──僕の前にいてください」

「彼が怒るとわかっているのに、そんなこと頼むのね」

「描き終わったら、もう先輩とは話しません。近づくこともしません」

 先輩は目を見開いた。突然の拒絶の言葉に、言うべきことを失っているようだ。

「そこまでして、私を描きたいの?」

「いいですか?」

 先輩はしばらく視線を泳がせていたが、やがて小さくうなずいた。

 安堵も喜びもなかった。絵を描き終われば先輩と縁を切らなければならない。その絵も、今の先輩では不完全なものにならざるをえない。

 しかし、これしか方法はなかった。『食べる』ことなく、先輩に僕の気持ちを伝える。不完全な彼女の絵を描くことで、僕はどこまで伝えることができるのか──。

 選択肢はそもそも存在しない。彼氏と争うことなく、ひっそりとことをなしとげるしかないのだ。

 その日から、僕は彼女の絵を描きはじめた。必ず彼女を目の前に置いて描くため、時間は限られている。今までのように、記憶を頼りに描くこととはわけがちがう。

 作業は苦痛でしかなかった。茶色の髪が邪魔だ。ピアスが邪魔だ。カラーコンタクトは不自然だ。口紅は必要ない──

 やはり彼女は不完全だ。こんな彼女を描くことに意味なんかあるのか。

 何日か経ったある日、不意に先輩が立ちあがった。僕は手をとめ、彼女を見あげた。

 やわらかな手が頬をつつみ、唇同士が軽く触れた。長い時間のように思えた。

 どうしたんですか、と問うと、わからない、と先輩は言った。

「私のためにこんなに必死になってくれる人をはじめて見たから、かな。急に日野君がとても……愛しく思えてきて。今までも、ずっとかわいいと思ってたのにね」

「駄目ですよ、こんなの」

 先輩は僕の頭を、ぎゅっと自分の胸に押しつけた。「彼のことは好き。でも、日野君とはちがう。日野君のひたむきさが、私は好き」

 僕だって先輩が好きだ。だからこうやって絵を描くことで、気持ちを伝えようとしている。はたから見れば、僕の想いは十分伝わっているように見えただろう。

 しかし、駄目だ。

 この数日でわかった。やはり僕の愛情表現は不完全なのだ。完成させるための一押しが足りない。その一押しを行う心づもりはできているというのに──

 先輩は顔をあげた。驚くほどの勢いで背後を振り返る。

 どうかしたのですかと問うと、「ううん、気のせい」といった。その双眸には隠しようのない恐怖が宿っていた。

 僕は視線の先──閉じられた美術室のドアを見つめた。


 翌日、先輩は学校を休んだ。次の日も、また次の日も。

 四日目に現れた先輩の姿は、僕を逆上させるのに十分だった。

 はれあがった頬に右目の上に貼られた絆創膏、殴られたのか腕も青くなっている部分があった。

 あのとき、先輩の彼氏が美術室をのぞき見していたのは明らかだった。嫉妬と怒りに駆られた彼氏が、先輩にひどい暴力を加えたのだ。

「先輩の彼氏──たしか横井という男でしたね」僕は両拳をきつく握った。「ぶん殴ってやります。二度と、先輩に手を出せないように」

「やめて」懇願するように先輩は言った。「私が悪いの。彼がいるのに、日野君とあんなことしたから。怒って当然よ」

 先輩、と優しく語りかける。「安心してください。もう先輩がひどい目にあうことはありません。僕がさせません」

「なにをするつもりなの? まさか……」

「大丈夫、横井とけんかする気はありませんよ。ただ、先輩に安全なところへ行っていただくだけです」

 先輩は首を傾げた。当然だろう。

 今は不完全だが、彼女の持つ生来の美しさをこれ以上傷つけるような真似をさせるわけにはいかない。

 僕は決心をかためた。彼女を、唯花先輩を助けるという意味でも、早く行動を起こさなければならない。


 その日、屋敷に戻ると、僕は父と葉隠に「先輩とその彼氏を屋敷に招待したい」と告げた。父は怪訝な顔をし、葉隠も首を傾げた。

「唯花様はともかく、その恋人までご招待なさるのですか? どうして」

「略奪だよ」こともなげに僕は言った。「葉隠が教えてくれたことじゃないか」

 葉隠は目に見えてうろたえ、ちらちらと父を見た。「あれはその、誠一様と唯花様のあいだには大変な困難が待っていることをたとえただけで、その、本気にされては……」

「葉隠、少しさがっていなさい」

「ご主人様、ちがうんです」

 父は微笑み、「大丈夫。わかっているよ。葉隠は悪くない」と葉隠を安心させた。

 二人だけになると、父は「いったいなにをするつもりだ」と切りだした。

「地下の冷凍庫を貸してください」

「いったいなにを」父ははっとなり、「そうか、お前もやはり日野家の男なんだな」

「先輩を食べたりなんかしません」きっぱりと否定する。「僕は、僕のやり方で想いを伝えます」

 父は苦笑し、「やはりお前は芸術家に向いている」と言った。「さて、お前の芸術に、私が手伝えることはあるかな」


 僕は先輩の顔のけがが治るのを待って、先輩と横井を屋敷へ招待することにした。待ち葉隠れに車をまわさせる。

 先輩はおどおどして落ちつきがなかった、横井におびえているようにも、この状況をどう受けとめればいいか迷っているようにも見える。

 横井も落ちつきがなかったが、こちらは僕への恐怖心が半分だろう。なにしろ、不意討ちとはいえ思いきり殴られたのだから。

 葉隠はハンドルを握りながら、陽気に話を切りだした。「お二人はおつきあいされているそうですね」

「え、あ、はい」先輩が答えた。横井は外を見ている。

「私もね、恋をしているんですよ」ふふ、と葉隠は笑った。「すてきですね、人を好きになるというのは」

「私もそう思います」先輩が言うと、横井は「けっ」と吐き捨てた。

「実は誠一様が、恋人同士であるお二人を絵に描きたいとおっしゃったんです。屋敷には絶好の場所がありますから、そこで」

 屋敷の門が開き、広大な庭に入る。横井が「おっ」と声をあげた。

「あれ、ドーベルマンじゃないか。あっちはシェパード。すげー、こんなにたくさん」

「横井君、犬好きだもんね」

 仲たがいはどこへやら、先輩と横井は庭を見ながら会話を弾ませていた。バックミラーでその様子を見ていると、

「誠一様、もう少しですから我慢を」

と葉隠にたしなめられた。そんな険しい顔をしていただろうか。

 屋敷に入ると、父が出迎えてくれた。会釈し、「いつも息子がお世話になっています」と言った。二人はなんと言えばよいかわからないのか、顔を見合わせている。

 車を置いた葉隠が戻ってきた。「誠一様、横井様にお着がえを用意して参ります」

「うん、頼む」事前の打ち合わせどおりの返事をする。

 ねえ、と先輩が訊く。「私は?」

「先輩はそのままで十分ですよ」にっこりと笑い、「彼の着がえがすむまで、屋敷を案内します」

 食堂や、父の仕事の関係者が集まる広間、書庫などに案内する。廊下を歩いているとき、先輩は足をとめた。

「ずいぶんたくさんのメイドさんがいるのね」

 廊下の壁には写真が何枚も貼られていた。写っているのは屋敷で働く者たちの姿だ。

「でも、まだひとりしか見てないけれど」

「今は葉隠しかいませんよ」

「はがくれ?」

「車を運転してた彼女。もちろん偽名ですよ」

「どうして偽名なんか使ってるの」

「昔の名前を使うわけにはいかないからです」僕は言った。「ここにやってくる人たちは、みな、父や祖父になんらかの形で命を救われた人ばかりです。表の世界を生きられなくなった人、ひどい過去を背負った人──さまざまです。

 おびえないでくださいね。みんな、今はきちんとやっているんですから。

 で、今は葉隠しかいない理由ですが、父は仕事の都合で一年のほとんどを海外ですごしています。だから、実質僕ひとりで暮らしているようなものです。使わない部屋も多くなってきますから、必然的に葉隠ひとりで十分になってしまったんです」

「ひまを出しちゃったのね。そのあと、どうなったの?」

「心配ですか?」

「そりゃあ、そんなわけありの人たちがお屋敷をほうりだされて、大丈夫かなって」

「大丈夫です。みんな、父の愛情を一身に受けている人たちばかりですから」

 妙な答えに、先輩は目をぱちくりさせた。やがて納得したのか、「そっか、お父さんが援助してるなら、他の仕事も見つかるか」

 僕の部屋に案内する。書棚につまった絵画の本屋外の景色をながめたあと、机の上の写真立てに目をとめた。

「これは……」

「母です」

 父と並んで写る、長い黒髪の女性。化粧気がなく、穏やかな笑みを浮かべている。

「お母さんはどうしてるの? 会ってないけれど」

「いませんよ。僕は母に抱かれたことすらおぼえていません」

 あっ、と声をあげ、ごめんなさいと先輩は謝った。僕は気にせず言葉を続けた。

「父は母をとても愛していたそうです。ですが、日野家に嫁いだ女性は総じて短命なんです。母も例外ではありませんでした」

「まさか、そんなオカルトみたいな話……」

 僕は先輩に向きなおった。「先輩。以前、僕のことを好きだと言ってくれたこと、おぼえてますか」

 先輩は少し戸惑ったような表情を見せてから、こくんとうなずいた。

「僕も先輩が好きです」

 先輩は急にそわそわしはじめた。

「駄目よ。だって……」

「わかっています。でも、それでもいいんです」僕は言った。「僕は先輩の絵を描く。これから何枚も、何十枚も。それが僕の『愛情表現』です」

「そんなことで……いいの?」

「はい」僕は満面の笑みを浮かべた。「ただ、絵を描くにはまだ不完全なんです。きちんと完成させないと」

 先輩はまだなにか言おうとしている。

 絵を描くだけでいいの?

 デートしたり、おしゃべりしたり、いろいろ楽しいこともあるのに。本当にいいの?

 ──言いたいことはわかっている。

 でも、そんなものはすべてどうでもいいことだ。はっきり言って、くだらない。

 僕の持てる技術のすべてを使い、完全な先輩の姿を絵の中に凝縮させる。それこそが、それだけが、僕の「愛」なのだ。

 たかが十六の小僧が愛を語るなと、人は笑うかもしれない。

 だが、僕は本気だ。

「わかった」先輩は微笑んだ。「じゃあ、私も日野君にとことんつきあう。その代わり」人さし指を立て、「絶対に、きれいに描いてね」

「はい!」

「あ、でも、まだ不完全なんだっけ。どうしたらいいの? やっぱり着がえる? それともメイクする?」

「大丈夫です。すべてこっちでやりますから」


 部屋を出ると、廊下の窓から庭が見えた。犬たちが葉隠の用意した餌の皿に群がっている。今日は新鮮な肉が手に入ったから、さぞ満足していることだろう。

 葉隠の仕事を見届けて、僕と先輩は地下のワインセラーに向かった。先輩はものめずらしそうにまわりを見ている。

 両開きの扉の前まで来た。鍵はかかっていない。僕は取っ手を握りしめると、力を込めて引いた。床と扉がこすれる音とともに、総毛立つような冷気が流れだしてきた。

「少しのあいだでいいので、僕と中に入ってもらえませんか。見せたいものがあるんです」

 先輩は僕に続いて、おそるおそる冷凍庫の中に入ってきた。くしゅん、とかわいらしいくしゃみが響く。

 冷凍庫は青い光で満たされていた。いくつもの棚があり、冷凍保存された食肉が並んでいる。それでも冷凍庫は空いていて、大人二十人程度が余裕をもって横になれるほどの空間があった。

「あの箱はなに?」

 先輩が指さした先には、棺のような金属製の箱が並んでいた。七個の箱はすべて壁に立てかけられている。

「見せたいものってこれのこと?」箱に触れながら先輩は訊いた。

 背後に気配を感じた。葉隠が音もなく箱に近づく。先輩が興味ありげにその姿を追っていたので、

「先輩」

と声をかけた。

 先輩が僕を見る。笑っている僕を見て、なにを思ったのだろう。かわいらしく小首を傾げる姿は、僕がよく知っている──二年前の、完全な彼女の姿だった。

 ドン、という鈍い音とともに、先輩は床に膝をついた。前のめりに倒れるところを葉隠が支えた。葉隠の背後からの一撃で、彼女は完全に意識を刈りとられていた。

「すぐに処理をします」冷淡な声音であった。なにかをこらえているようでもある。

「苦しませちゃ駄目だよ。特に、苦しみが表情に出るようなことだけはさけて」そんなことになったら、すべてが水の泡だ。

「大丈夫です。私は」自虐的に笑い、「元プロですから」


 地下から出たところで、どうしたものかと思案した。

 庭に出ると犬たちが寄ってきた。首や頭をよくなでてやり、餌が入っていた皿を回収する。

 自分の部屋へ行き、ベッドに横になった。気分が高揚して眠ることができない。シャワーを浴びている恋人を待っているときというのは、こういう気分なのだろうか。経験がないのでわからないが。

 二時間ほど経ってから、再び地下に向かった。途中、物置からシャベルを持ちだす。最後の仕上げに必要なものだ。

 ワインセラーを通って半開きの冷凍庫の前まで来たとき、すすり泣く声が聞こえた。ただならぬものを感じ、僕は扉の向こうに身体を滑りこませた。

「どうした!?」

 葉隠が涙にぬれた顔をこちらに向けた。その向こうにあるものを見て、言葉を失った。

 箱のなかに、モノクロの女神がいた。

 ていねいに黒く染めなおされた髪。質素ながら清潔感にあふれた白いドレス。胸の上で手を組み、ほんのり桜色に染められた頬と唇。生きていると見まごう先輩の姿が、そこにはあった。

 僕はシャベルをそっと床に置いた。騒音を立てることもはばかられた。先輩に近づき、まじまじと見つめる。きゅっと結ばれた唇に、今にも開きそうな双眸。死んでいるのに、なんと生き生きとしていることか。髪が短いのは残念だが、それでもかまわない。

 ──完全な、彼女だ。

 二年前、同じ中学校に通っていた先輩は、まさに女神だった。長く艶やかな黒髪、飾らない服装、すべてが僕の理想だった。

 卒業してから、彼女は変わった。醜悪なほど派手になり、美しい髪は見る影もなかった。僕は現実を受けとめられず、認めようともせず、それでも彼女に近づいた。新しい彼女の魅力を見出すために。

 しかし、駄目だった。

 先輩はどこまでも不完全で、僕が知っている完全な彼女とはまったくちがうものになってしまっていた。

 先輩にそのことを告げても、受け入れてはくれまい。先輩は今の自分を好いているから。

 だから、こうするしかなかった。

 傷ついた芸術品を復元するように、手を加えて完全な状態に戻すしかなかったのだ。たとえそれが、彼女の命を奪うことと同義であったとしても。

「ありがとう、葉隠」僕は嗚咽をこらえた。「すべて君のおかげだ。これで先輩は、完全な姿を取り戻せた」

 葉隠は顔をおおい、強くかぶりを振った。

「ごめん、つらいことをさせてしまったね。昔を思いださせるようなことを頼んでしまって、本当に悪かったと思ってる」

「ちがうんです」泣きはらした目を僕に向ける。「私、ご主人様から誠一様のお話をうかがったとき、嫌で嫌でたまりませんでした。ですが、いざ獲物を握ったら──」言いかけて、むせび泣く。「楽しかったんです。楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。邪魔な彼をつぶして料理し、彼女に薬を注射したとき、快感すらおぼえました」

 罪を吐きだすように、葉隠は泣き崩れた。僕はシャベルを拾いあげ、無言で葉隠を見おろした。

 葉隠はヤクザやマフィア組織のあいだをわたり歩く、凄腕の殺し屋だった。どうしてそんな仕事をはじめたのかは知らない。物心がついたときから殺しの技を叩きこまれたと葉隠は言っていた。

 そんな生活から足を洗いたいと思ったころ、父と出会った。父の一目ぼれで、葉隠は偽名を与えられ、住みこみのメイドとして日野家にやってきた。父は犯罪組織にも顔がきく。いくばくかの金を積み、彼女を身請けしたのだ。

 ひとしきり泣いたあと、葉隠は立ちあがり、僕に頭をさげた。

「誠一様、私は今日限りでおひまをいただきとうございます」

 僕は天井を見た。どうしたものか。

「ご主人様に拾われ、お屋敷ですごした十年あまりの日々──楽しゅうございました。ですが、私はやはり卑しい存在なのです。血が好きで、奪うことで快感を得るような人間なのです」

 ブランクがあるとはいえ、葉隠はプロの殺し屋だ。

「この気質のせいで、私はいつか日野家に災いをもたらすことになるかもしれません。いえ、すでにもたらしてしまいました。

 誠一様のお考えを聞いたとき、耳を疑いました。気でも狂われたのではないかとも思いました。本当なら、なにがなんでもお断りし、おとめすべきだったのです。

 引き受けてしまったのは、この気質のせいです。血を見たい、殺したい──十年間閉じこめてきた気持ちがあふれでたのです。この汚らしい気質が、日野家に災いを招いてしまいました」

 葉隠は僕に背を向けた。

「誠一様、こんなことはもうこれきりになさってください。あなたのような魅力的な方が、私がいたような世界に来てはなりません。私の愛しい誠一様が、地獄へ落ちるところなど、見たくありません」

 僕はシャベルを竹刀のようにかまえた。

「それでは誠一様、失礼致し──」

 ガァン!

 振りおろしたシャベルが床を思いきり叩き、衝撃で僕の手からはね飛んだ。

 シャベルが風を切る一瞬の音を感じとったのだろう。葉隠はわずかに身体をひねって、僕の一撃をかわした。

 僕はシャベルを拾いあげ、信じられないという顔をしている葉隠と向き合った。

「少しじっとしていてほしいな」

「口封じ、ですか」やめてください、と葉隠は言った。冷静を装っているが、声が震えている。「私はけしてなにも言いません。愛しいご主人様や誠一様の不利になるようなことが、どうしてできますか!?」

「そういう話じゃないんだよ」

 シャベルを拾ったものの、もうこれでは殺せないとわかっていた。大振りの攻撃では、絶対に葉隠をとらえられない。

 ならば、とシャベルをかまえて間合いをつめる。葉隠はじりじりと出口に向かってさがる。よし、それでいい。

 押しだされるように、葉隠はワインセラーに入った。そこでシャベルを捨てる。床においてある空き瓶を拾い、壁に叩きつけて割る。即席の刃物ができあがった。小振りなこの武器なら使えそうだ。

「やめてください」懇願するように葉隠は言った。「私は誠一様を傷つけたくない」

 高校生とはいえ、男に追われているのにこの余裕。さすがプロだ。父だけでは手も足も出なかったにちがいない。

 瓶を振って、切りつけようとする。葉隠は最小限の動きでかわし、一定の距離が開いたところで背を向け、駆けだした。

 廊下を駆け抜け角を曲がると、葉隠が立ちどまっていた。その向こうに父が立っている。

「ご主人様、どうか誠一様をとめてください!」葉隠は哀願した。「私は、今日起こったことをけして他言致しません。いえ、すべては私がしたことです。日野家にご迷惑がかかるようなことは、けっして!」

 父は僕を見た。かすかに笑っている。

 ──しくじったのか。

 ──ごめんなさい。でも、ちゃんと連れてきたよ。

 父は葉隠の肩を叩き、「葉隠、誠一はお前が今日のことを他言するなど、少しも思っていないよ。それどころか、信頼して今日という日を任せたんだ」

「どういう、ことですか」葉隠は当惑している。当然だろう。

 ちらりと壁を見ると、何枚もの写真が貼ってあった。先輩も目にしたあの写真で、この屋敷で働いていた人たちが写っている。

「葉隠、この写真に写っているメイドたち、おかしいと思わないか?」僕は訊いた。「この屋敷には僕とお父さんしかいなかった。なのに、こんなにメイドを雇う必要がどこにある?」

「それは、今とちがってお客様をお屋敷に招くこともあったからでは」

「みんな、お父さんに愛されていたんだよ」僕は瓶を床に捨てた。「このメイドたちは同じときをすごしたわけじゃない。多いときでも三人しかここにはいなかった。みんな、葉隠と同じ、人には言えない過去を持ち、それゆえにお父さんに愛されたんだ。守ってあげたい、そばに置きたい、とね」

 葉隠は僕の話に引きこまれている。僕はうなずき、「日野家の男は、生まれつきある特徴を備えている。それは、『禁忌への抵抗感が薄い』ことだ」

「禁忌……」

「禁忌にもいろいろある。祖父は人を殺すことに抵抗がなくて、戦争では英雄とまで言われたらしいけど、一番多いのは──」僕はちらりと視線をあげ、「人を『食べる』ことなんだ」

 ぐっ、と息がつまる音とともに、葉隠は喉を押さえた。ナイロンの紐が喉に巻きつき、食いこんでいる。

 葉隠がなんとか首をめぐらせる。温和な表情の父が立っていた。歳をとり太ったとはいえ、父は元柔道の選手だ。いかに殺し屋といえど、十年のブランクがあるうえ、女の力では抗うことなどできるはずもなかった。僕の話に釣りこまれ、不意をつかれたのならなおさらだ。

 だんだん爪先立ちになる葉隠に近づく。

「うちにいたメイドは、すべてお父さんが食べてしまったんだ。広い冷凍庫や大きな箱は、メイドたちを保存しておくためのものなんだ。

 禁忌への抵抗感が薄い、て言ったけど、それはある行為を表現するためのものなんだ。なんだと思う?」

 葉隠は喉をかきむしりながら、泡を噴きはじめている。

「『愛情』だよ。日野家の男は愛情を表現するために、軽々と禁忌を犯すらしい。祖父は人間が大好きだったから、その気持ちを表すために殺した。

 お父さんも同じだ。愛しているから食べる。それも少しずつ。箱の中で小さくなっていくメイドたちを見て、お父さんは愛する人とひとつになる感覚をかみしめていたそうだよ」

「ぐ……」充血した目を見開き、葉隠は泡とともに吐きだした。「ぐるっでる……」

 父は葉隠の耳もとに口を寄せた。

「愛しているよ、葉隠……いや、美代」

 その声は届いたのかどうか。葉隠はすでに脱力し、青黒くなった顔を僕に向けていた。

 父は葉隠を横たえ、「お前に協力してもらってよかった」と言った。「私ひとりでは、彼女を殺せなかっただろう。なにしろ、閨でも思ったほど隙を見せてくれないからなあ」

「それ、子供にする話?」

「そっちはうまくいったのか?」

「葉隠がきちんと先輩の身体の処置をしてくれたみたいだから」

「マフィアに身を寄せていたとき、死んだドンの遺体に防腐処理なんかを施したことがあると言っていたからな。死体については人一倍詳しいはずだ」

 たしかに、先輩の身体をあれほど完璧な状態にしてくれるとは思わなかった。

「これからどうするの?」

「マスコミや警察への対処は任せておきなさい。しかし死体が残っているのは厄介だな」父は僕を見て「どうしても、彼女を食べてしまうわけにはいかないのか?」

「僕にそういう性癖はないし、それに残しておかないと意味がないから」

 父はため息をつき、わかった、と言った。「すぐに次のメイドを雇うことはできない。しばらくはお父さんの手料理で我慢してくれよ」

「僕もやるよ。迷惑かけたし。あ、僕にも葉隠をわけてよね。少し味見したいし」

「かまわんが、少しだけだぞ」

 父は意外と料理がうまい。愛しい人をバラすことを他人に任せるわけにはいかないため、自力でおぼえたのだ。今後しばらくは肉料理が続くだろう……体重六十一キロの人間がなくなるまでは。

 舌を出し、目を剥く葉隠の髪を、僕はかきあげた。

「ありがとう、葉隠。これで僕は自分の想いを遂げられる。お父さんと幸せになってね」

 僕は彼女のまぶたをおろした。


 父は大きな牛肉の塊を切り分けると、豪快にほうばった。うまそうに咀嚼し、飲みくだす。

「──うまい。紅葉の料理は本当にうまいな」

 父の隣で、紅葉と呼ばれたメイドは「ありがとうございます」と頭をさげた。

 紅葉という名はもちろん偽名で、三日前まで別の屋敷で働いていた。その屋敷は一族がそろって臓器密売を行っていて、彼女も加担していた。警察に踏みこまれ紅葉も逮捕されかけたが、その前に父が彼女を拾った。

 やれやれ、と僕は思う。紅葉は僕より四つも年下──中学校を卒業して間もない十六歳だ。父が愛した中では最年少だ。いくらなんでも若すぎる。

 少食な僕は早々に夕食を切りあげて席を立った。

「誠一、紅葉に屋敷の中を案内してやってくれないか」

「今から?」僕は不満を口にした。

「お前の芸術の邪魔をするつもりはない。ただ、このところこもりきりではないか。少しは息抜きも必要だろう」

 僕は軽く手をあげた。父は紅葉に「ここはいいから、行ってきなさい」とすすめた。

 間接照明でやわらかく照らされた廊下を二人で歩く。紅葉はあたりを見まわし、「あ」と声をあげた。「写真が」

「今まで働いていた人たちだよ」一枚を指さし、「この人が葉隠。君の前にいた人。四年前にひまを出したんだ」

「じゃあ、私が来るまでご主人様とお二人だったんですか?」

「実質的にはひとりだね。まあ、身のまわりのことはできるし、掃除なんかで手の行き届かないところは、月に一回清掃業者がやってくれるし」

 紅葉はうつむいた。

「どうした?」

「いえ、それなら私など必要ないのかなと思いまして。私が以前、なにをしていたかご存じでしょう?」

 長い黒髪がこぼれて横顔にかかる。僕はドキリとした。小柄な彼女はまるで精緻な人形のようであった。

「関係ないよ」僕は言った。「父は不必要な人を連れてきたりしない。自信を持って」

「は、はい!」

 自分の部屋に案内すると、うわあ、と紅葉は感嘆した。

「女の人の絵がいっぱい。あ、この絵」一枚の絵を指さし、「テレビで見たことあります。たしか大賞をとったって話題になりました」

「よくおぼえてるね」

「絵が好きなんです」紅葉は目を輝かせ、羨望の眼差しを僕に向けた。「まさか誠一様がお描きになった作品とは思いませんでした」

「そんなたいしたものじゃないんだ。ただ好きなものを、好きなように描いてみただけだ」

「才能ですね。すごいです」

 ところで、と僕は言った。「紅葉はその絵をどう思う?」

「え、私なんかが意見を言うなんて、そんな」

「いいから、正直に言ってごらん」

 紅葉はしばし絵を見つめ、「かわいい……いえ、きれいな方ですね」

「うん、それで?」

「この人が大人になったらどんな女性になるんだろう、きっとすてきな女性になるんじゃないかなって思います。あ、すみません。これじゃあ、絵の感想じゃなくて、モデルさんの感想ですよね」

「いいよ、別に。君は絵を見る目があるね」僕は微笑んだ。「さあ、そろそろ仕事に戻るといい。あと片づけが残っているだろう?」

「あ、はい、失礼します」

 頭をさげ、背を向ける紅葉を僕は呼びとめた。「言い忘れてたけど、この屋敷の地下にワインセラーがあるんだ。そこには入っちゃいけないよ」

「ワインセラーですか」

「父の大切なコレクションがしまってあるからね。他人に触れられるのをひどく嫌うんだ」

 わかりました、と紅葉は部屋を出た。

 僕はクローゼットを開けた。黒いダウンジャケットとマフラーを出して身につけ、耳当てをつけて毛糸の帽子をかぶった。スケッチブックと鉛筆を手に部屋を出る。

 ワインセラーへ向かい、奥の冷凍庫を開く。壁に立てかけてある箱を見て、思わず笑みがこぼれる。

 箱を開くと、彼女がいた。四年前と変わらぬ先輩の顔に、僕は指を這わせた。

「こんばんは、先輩。今日も来ましたよ」僕は言った。「今日はとても面白いお話があるんですよ。うちにやってきたメイドが、先輩のことをきれいだと言ったんです。かわいいではなく、きれい。僕はね、とても見る目のある子だと思いましたよ」

 先輩はきゅっと唇を結び、じっとしている。今にも動きだし、「本当?」とでも訊き返してきそうな気がした。

「ああ、あとこれはどうでもいいんですけど、先輩を描いた絵が大賞に選ばれました。年寄りの評論家がすごくほめてましたけど、はっきり言って不愉快でした」先輩の美は先輩だけのものであり、衆目にみだりにさらしていいものではないのだ。見ていいのは、先輩を愛している僕だけだ。

 それなのに、父の強いすすめで発表してしまったのが間違いのもとだった。やはり僕は芸術家には向いていない。先輩の絵が誰かに買われていくなど考えたくもない。そんなことになるなら、大人しく父の会社を継いだ方がましだ。

「すみません、変な話をしてしまいました」僕は木製の椅子を引き寄せ、クッションを敷いて先輩の前に座った。「今日から新しい絵を描きます。楽しみにしていてくださいね」

 紙の上で鉛筆が踊る。先輩に新たな生命を吹きこむとき、僕は満ち足りた気持ちになる。

 今、この瞬間、僕は先輩に愛を注いでいる。

 そう考えるだけで恍惚となる。身体の交わりなどはるかに超越した崇高な愛の表現が、そこにはあった。

 黒い髪を描いているとき、ふと、紅葉のことを思いだした。

 彼女は先輩とは似ても似つかない。しかし、先輩をずっと小柄にして、かわいらしくすれば、あんな風になるかもしれない。

 かぶりを振り、くだらない妄想を追い払った。しかし、「紅葉を一度ぐらいは描いてみてもいいかもしれない」という考えが、頭の隅に生まれていた。

 そうだな、一度、描かせてほしいと頼んでみよう。彼女は絵がわかる子だ。きっと喜んでくれるにちがいない。

 僕は顔をあげた。

「これって、浮気……でしょうか」

 深いため息が、濃密な白い霧となって吐きだされ、霧散した。

              (了)


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