差額強盗
小さな食料品店。男はカゴいっぱいにしこたま食料品を詰め込んで、レジに向かう。
パンにバターに野菜に果物に肉に飲料、一週間家から出なくても十分な程度の食料。それが店員によって袋詰されているのを眺めながら、財布の中身を確認する。
所持金は三二八二円。レジの表示されている金額は、ちょうど四六二○円で止まった。
「合計で、四千――」
「大丈夫だ、わかってる」
言いながら、財布の中身を丁寧にレジカウンターに載せる。足りないのは、一三三八円。
店員が数えて、戸惑い、上目がちに男を覗きこむ。まだ若い、学生らしきバイトの店員だ。対して男は、一回り以上歳が上だろう、無精髭の男。
「あの、千……三三八円、足りないのですが」
「じゃあ――手を上げろ」
ジャケットの下から、流れるような挙動で一丁の拳銃を抜き出し、突きつけた。
「既に薬室に弾丸は収まっている。下手な気を起こすなよ、言わねえでもわかるだろうが……強盗だ」
「は、はっ、はひっ」
「千三三八円、レジから出せ」
彼女は途端に怯えた表情で、震える手のままレジを開く。そのまま札と、小銭とをレジカウンターに乗せた。
「んで、そいつで支払いだ。会計は丁度で釣りはなし、気持ちのいい買い物だ」
言いながら、男は買い物袋を掻っ攫って胸に抱いて、店を後にした。
店員は呆然としたまま、虚空を見つめて現実か、白昼夢なのかの判別に戸惑っていた。
巷では、最新のファッションやグルメ、ドラマやバラエティ番組、アニメやゲームなどの話題でいつでも賑わっている。
その中でも際立つのが、やはり『差額強盗』の話題だ。
買い物で足りない分の差額をレジから払わせるという荒業をする強盗が、最近話題に上がる。
顔も見え体格も既に露呈しているというのに、被害額が被害額なだけあって警察も派手に動くことはなく、ただ指名手配の張り紙と、煽り立てるような新聞、雑誌の記事が国民に話題を提供した。
差額強盗――なんともちゃちな強盗だが、それほどの少額の為の強盗だからこそ、誰も彼もの胸の中に小さな親近感を湧かせたのかもしれない。
「差額強盗、ねえ。ただの貧乏人じゃねえか」
葉下 誠治は短めの短髪が逆立つ毛先を手のひらで感じながら、ソファで仰向けになってテレビを眺めていた。ニュースキャスターは、なんだか楽しそうな顔で差額強盗の話題を出している。
「ったく、しょーもねー」
誠治はつまらない顔でテレビを消す。
洋室の一間は、仕事の関係で客室兼執務室になっている。ソファを挟まれた形でテーブルがあり、彼が寝る頭の先に、小さなデスク。
自営業。去年の年収は一三○万。きっとアルバイトでもしたほうが良いのかもしれないが、今やそれも不可能だった。
葉下誠治、二八歳独身。前科は、まだつかない。捕まっていないからだ。
差額強盗張本人は、一切の罪悪感も焦燥もないまま、その仕事を続けている。
仕事の内容は――。
ガタ、と玄関が開く。音と気配が、予告なく空間に押し迫った。
「おっと、邪魔するぜ"救済屋"さんよ」
顔を上げると、大柄の男がサングラスをかけてゆっくりと入室した。その後を、ぞろぞろとガラの悪そうなスーツ姿の男たちが追い、扇型に展開する。
「おいおいどういうこった、家でバーベキューの予定はないんだが」
身体を起こして、諸手を広げる。
「はっ、ご馳走に来たのさ」
「ああん?」
ぱっ、と男は何かを投げた。それは鋭い回転と共にテーブルの上に落ちる。便箋に入っていたのは板状の鉄と、一枚の紙だった。
「これは?」
問いながら、読む。『成兼 姫子は預かった。助けて欲しくば、本日午後二四時までに、以下に記した場所まで十億円を現金で用意し、運んでこい』
簡潔に、そう書いてあった。成兼とは、この男たちの代わりに来るはずだった依頼主の名前だ。彼女の家は貴族の家系であり、今でも有数の富裕層として有名だった。
つまりは運び屋をしろ、というようなことだ。誠治はちいさく嘆息した。
「指示通りに動け。そうしなきゃ娘は悲惨な目に合うし、お前の正体も世間にバラす」
「好きにすりゃいいさ。ムショん中なら、今よりまともなメシにありつけそうだ」
「テメエはプランクトンの餌になる運命だ」
「プランクトンが気の毒だぜ」
ま、ともかく。と葉下はゆっくりと立ち上がった。
「敷居跨いだんだ、歓迎するぜ」
脇から抜く拳銃はコルト・ガバメント。即座に発射された弾丸は、真正面に良い的として立っている男の鼻先を撃ちぬいた。弾丸は肉と骨を破壊しつくし、脳髄をぶちまけて後頭部から貫けた。
男は一瞬にして卒倒したようにぶっ倒れ、周囲の男たちはただ動揺する。
「とんだ拉致集団だな。そんなザマじゃ、テメエらが誘拐されちまうぜ」
「なっ、はっ」
「死神様によ」
男たちは現状の理解に時間を掛けたあとは、早かった。すぐさま散開して拳銃を抜く――が、それでも遅い。
葉下は右側から順々に男たちの胸、あるいは頭部を弾丸で狂いなく破壊していく。倒れた男を蹴り飛ばし、ジャケットから弾かれた拳銃を手にまた射撃を開始する。
だが、動き始めた敵はそれでも訓練されていたのか、中々当たらない。外れた弾丸が壁やソファを傷つけ、木の破片や羽毛が宙に舞う。
床に転がり、ソファの影に隠れる。ソファの下に隠してあった手榴弾を引き抜き、そのまま安全ピンを抜いて放る。
飛び出すようにして執務机側に避難する。直後に、鼓膜に突き刺さる爆発音と、猛烈な熱風と衝撃が葉下にまで襲いかかった。
「クソ、バーベキューじゃあるまいし」
上がる悲鳴はなかった。床に転がる無数の死体と、バチバチと燃えて音を鳴らす建材だけがその空間に残されていた。ソファが豪快に燃えているのが見えて、葉下は嘆息した。
「たく、何が救済屋だ。誰か俺を助けてくれ」
部屋の中を探し、男たちの財布を漁り、男たちが乗ってきた車を売っぱらう。
それでも現金は百万にも満たない。
「ま、いいか」
葉下はあまり深く考えない。単純に百万程度の所持金が増えた、くらいに胸にとめていく。そもそも己の信条は『テロリストには屈しない』だ。クライアントに不備が生じたならば、それさえもフォローするのが『救済屋』というものだ。
まずはクライアントを救済しなければならない。これが、いつもと少しだけ違うというだけで。
◇ ◆ ◇ ◆
九五万三千円も収まった財布は分厚かったが、それもひと通り準備を揃えれば数千円ばかりが残っただけの財布に戻った。いつもどおりの愛おしい薄さ。これが己の財布だ、と感慨深く眺める。
何にしても馬鹿な拉致集団だ、と葉下は嘆息した。息を吐きながら、ポケットからくしゃくしゃのソフトパッケージを取り出す。黄色いパッケージの外には、『The Peace』と辛うじて見える。
残り少なくなったタバコも、これを吸えばあと一本。これは仕事の後にしよう、と一本を抜いて、口に咥える。もう何年も使っている薄汚れ傷だらけのターボライターで火をつけ、胸いっぱいに煙を吸い込んだ。
ふう、と紫煙を吐き出す。吹き抜ける一陣の風に、余韻すらも煙と共にかき消された。
――拉致集団が舞台にしたのは、成兼姫子の実家。つまりその豪邸だ。
連中は客人を装い豪邸を占拠し、葉下が成兼家に要求した多額の金銭を、そのまま横取りするつもりだ。結局は犯罪者であっても、自分の罪は浅くしたい。薄く儚いプライドの元、その愚かな浅慮をなんとか行動に移したのだろう。
愚かすぎて言葉も無い。やはり連中の発想など期待しない方がいい、とは思うが、配慮はしよう。要らぬ死人を出さぬようにしなければ、今回の仕事もオシャカになるだろう。
「っ!」
パン、と渇いた銃声が響いた。かと思えば、唇が引き裂けそうなすさまじい衝撃があった。咥えていたタバコが吹き飛び、顔の手前で妙に強い火薬の焼けた匂いがした。
粉々に砕けたタバコは、もはや跡形もなく、その欠片すらない。
吸い込んだ硝煙を吐き出して、葉下は酷いストレスを覚えていた。
荘厳とまで言わしめる豪邸。見上げるほどの鉄柵の門を蹴り開け、地面に置いていたバッグを肩に担ぐ。ずしりと重い感触。終わった頃にはこれがどれほど軽くなることやら。
「貴様らへの敵愾心が湧いた。よくも俺の楽園を土足で穢しやがったなド畜生が」
二階窓際でライフルを構えていた男が、そそくさと中へ引っ込んだ。つまりはこれが、開戦の銅鑼というわけだ。
「俺もこれで救済屋だ、貴様らを救ってやることにしよう」
この世から解放してやる。あの世で適当にくたばりやがれ。
無反動砲の榴散弾が、けたたましい音を立てて玄関扉を粉々に破壊した。煙がもうもうと立ち、その向こうから男たちの狼狽する低い声が響いてくる。
「おいおい、ちゃんとノックしたぜ? 歓迎してくれ」
次弾をを装填。バッグを抱え、無反動砲を下げながら煙の中を駆け抜ける。
煙を裂いて腰を落とし、肩に武器を担ぐと――既に待ち構えていたらしい黒服の男達が、一様にアサルトライフルの銃口を葉下へ向けていた。
玄関から入ってすぐある大きな広間。左右から二階の吹き抜けへ続く階段。そして吹き抜けのスペース。彼らは数えるのも厭になるほどの数だった。
広間の中央には、両手を後ろで、そして足をも縄で縛られた十数人。使用人らしき姿と、最前には夫妻らしき二人と、娘の姿も見える。
あれが成兼一家、ということなのだろう。
「派手な歓迎だ。上等だな」
及第点。間抜けな野郎でも頭数さえ揃えることは出来るようだ。
人質として捕らえている夫妻の傍らにいる、サングラスをかけた男が叫ぶ。
「よおサルヴェイサー、随分早い到着だったな。頭は回るようだ」
葉下は、その反対側にいる、目に余るほどの巨体に目を奪われていた。破産するほど贅を尽くしたとしても、あれほどまでの脂肪の塊にはならないだろう。
「お褒めに預かり恐悦至極。ありがた過ぎて鉛弾の一発くらいお返ししてえぜ」
「随分余裕だな」
「なに、あんたら程じゃないさ」
「ああ?」
「猿が考えたほうがもっと理性的な作戦思いつくってもんだ」
「おいおい、銃爪の軽いトリガーハッピーがオレらを悪党呼ばわりか? だったら世界の殺人鬼どもに刑務所は要らねえな」
「ボノボと話してた方が少しは生産的なもんだが」
話は終わりだというように、アサルトライフルを女のこめかみに押し付ける。ひい、と小さな悲鳴が漏れた。
「マダムの命と十億、どちらが軽いと思う?」
葉下は嘆息する。ここの連中にもれなく弾丸をプレゼントすることは簡単だが、その中で狙われる対象を己だけにするのは難しい。
自分が大スターのような魅力さえあれば話は違うが、実際は無精髭面のただの中年男。自慢できるのは銃器の腕だけ。まるでダメ人間だ。
「あんたらの要求を呑もう。少し家人と話をさせてくれ」
「だったらそのまま声を張り上げな。テメエのノイズみてえな声でも聞こえるだろう」
ゴリ、と音を立てて銃口でマダムを突き飛ばす。彼女は悲鳴を上げて、床に倒れた。
葉下は息を吸い込んで、声を上げる。
「マダム。そもそも俺は、あんたらの娘に依頼を受けていた。まずはその話を訊きたい」
その言葉に、夫妻は意外そうな顔をする。そうして互いに、隣にいる娘に目を向けた。黒髪の、憂いを帯びるような目をする清純そうな娘だった。
「ど、どういうことなんだ、姫子」
「そ、それは……」
気まずげな顔をした後、目を強く閉じる。彼女は間もなく顔を上げると、大きな声で告げた。
「わたしたちは、ずっと前からこの人たちに目をつけられていて……ずっと、金銭の要求をされていました。それが徐々に大きくなって、断ると……その、この結果に。わたしは、彼らをどうにかしてほしいと、お願いしようと思って」
「ガキのやることなんざ、誰でもわかんだよ!」
言いながら、サングラスの男が勢い良く少女の腹を蹴り飛ばす。鈍い音が響き、少女は悲鳴を上げる暇もなく、脱力し、意識を飛ばした。
「そんで、テメエはソレ訊いてどうすんだよ」
勇気ある少女の言葉を皮切りに、助けてください、助けてください、と使用人共々夫妻が声を上げる。それを鬱陶しく思った男は、天井に銃を向け、タタタン、と鉛弾を撃ち込んだ。
銃声に、今度は皆同じように押し黙る。声を出したことでまだ興奮しているのか、彼らの身体は小刻みに震えている。
「ま、どのみちそんな依頼は受けらんねぇがよ。ぎゃあぎゃあと囀ってやかましいったらありゃしねえ」
言いながら、脇のホルスターから一丁の拳銃を抜く。使い慣れたコルト・ガバメント。スライドを引いて弾丸を装填。安全装置を解放する。
照準。その銃口は、真っ直ぐ前を向く。
「な、なんで、私たちは……」
パン、と銃声。言葉を失ったのは、サングラスの男の方だった。
「このクズ共を掃除すんのは俺の仕事だ。あんたらの頼みなんざ聞けないね」
「うおおおおおおッ!!」
咆哮を上げるのは巨漢。葉下はうんざりしたようにもう片方の脇から拳銃――ブローニング・ハイパワーを抜いて、すぐ近くへ走ってくる一人を撃ちぬく。
「おいおい、ここはいつから屠殺場になったんだ?」
言いながら照準、発砲。構えたマシンガンを抱えたまま、男はどすん、と大きな音と衝撃を上げて倒れ伏した。
「まったく、豚のほうが可愛く見えるぜ」
言いながら勢い良く後ろへ飛び退る。弾丸は脇を掠めることすら出来ぬまま、己の目の前をよぎった。過ぎた弾丸は、互いに互いを撃ちぬいて発砲した黒服たちを殺す。
「マジの馬鹿なのか? こいつら……」
漏れるため息を飲み込みながら発砲する。頭を失った連中がするのは、結局は邪魔者の排除。葉下が障害となったのならば、それを速やかに殺害し、次は成兼家から金を奪取するのみ。
ならば現時点で家人を殺害するのはナンセンス。そして彼らにはそれ以外の思いつきは皆無。
憂慮することはなかった。葉下はその点だけ、彼らの愚かさに好意を抱く。
発砲、発砲、発砲。撃った分だけ、敵が倒れる。倒れていない敵は、皆無傷だ。マガジンを抜いて、ポケットから替えをだして入れ替える。
相手が構える銃の高さは一定。数が多いが、銃口の向き、距離を考えれば回避は容易い。問題があるとすれば、
「ちっ」
数回のマガジン交換のあとでフロアを制圧し終えた所で、吹き抜け部分から寸分狂わず頭部を狙った弾丸が放たれた。すぐさま屈んだが、頭頂部を主に髪の毛ごと皮膚を小削ぎとっている。
即座に撃ち返すが、スナイパーは既に移動している。視界内に、影はない。
小さく息を吐いて、残り一本になったタバコに火をつける。この際、後の事は後の己に任せよう。
考えながら、持ち込んだバッグから装備を取り出す。恐らく、二階部分――ここからが本番だ。
ジャケットを脱いで、防弾チョッキを身に付ける。その上にサスペンダーをつけ、胸に計四つの弾倉入れの袋を取り付ける。既に収まっている為に、ずしりと重い。
次に腰のベルトに鞘入りのナイフを付け、続けて手榴弾の為の袋。
脇の肩ホルスターに拳銃を収めて、アサルトライフルを肩から下げる。
ふう、と息を吐きながら、今度は人質を縛る縄をナイフで裂いて解放していった。
「警察に逃げこむなりなんなり好きにしな」
連中がしたことで唯一つ幸運だったと言えるのは、少女を気絶させたことだ。程度はともかくとして、まだ年端もいかない娘に人殺しの現場を見せたくない。ましてや、その事になんの躊躇いも思いもない現場など。
「あなたは……ここで、戦争でもしに来たんですか」
呆然と、ただミスターが言った。
「なに、これが救済屋の性分でね」
言って、ああ、と思い直す。少し気まずげに頬を掻いて、煙を吐きながらポケットから財布を出し、有り金を全て手に握らせる。
「この豪邸の修理費だ。差額はなんとかしてくれ」
ゾロゾロと寝るように倒れている男たちを蹴り飛ばして二階へ登る。
吹き抜けへ到達すると、廊下は左右にまっすぐ伸びている。電気が付いていないためか、昼でも少し薄暗い。
「まったく、てめえらのせいで金がかかってしょうがねえな」
廊下の死角となる壁から、ジャケットを廊下へ投げつける。
発砲がないまま、ジャケットはそのまま床に落ちた。相手は冷静なようだった。
紫煙を大きく吐いて嘆息。
瞬間、弾丸が向かい側の壁に弾痕を刻んだ。
「かくれんぼか? 仲良くしてえならそう言いやがれ」
居るじゃねえか馬鹿野郎、と心中毒づきながら銃を構える。相手が何人いるかわからない。右方向の廊下に潜んでいると思わせておいて、実際は両側に控えていて完全な油断を狙っているとも思える。
だったら、やることはただひとつだ。
ポケットから手榴弾を抜いて、安全ピンを外す。ゆっくり三秒待ってから、右の廊下へと投げ込んだ。
手榴弾は床を転がる前に爆発した。紅蓮の炎が廊下を眩くてらして焼きつくす。
衝撃は館全体に及んだが、そのすぐ近くで控えていた葉下への影響も多大なものとなる……が、
「まず一人」
廊下左側、扉から飛び出してきた一人を撃ちぬく。胸を抑えるようにして倒れ、続いてその頭部に弾丸を叩き込んだ。タタタン、と小気味よい発砲音が響く。
やはり潜んでいた。
「ったく、俺は害虫駆除業者じゃねえんだがな」
言う間に、業火を斬り裂く白刃が閃いた。ガキン、と金属の接触音を響かせて葉下のアサルトライフルを叩き落とす。
彼は反射的に相手の腹を蹴り飛ばすが、それを身体をしなるように逸らして回避する。距離が縮まった。
拳を放つ。だがそれは手のひらで受け止められて、いなされた。ナイフが喉元へ迫る。身を屈めて、ナイフを口で受けた。鋭い刃が口角を斬り裂くが、頑丈な顎が刃を噛んで離さない。
「無頼か、貴様」
男を蹴り飛ばして距離をとる。口の端から血が流れるのを感じて、暫く炭酸と柑橘系を控えなければ、と考えた。
「はっ、強盗が真っ当な職なら真っ先に銀行に寄って帰るぜ」
単身で襲い掛かってくるのを見て、恐らくこいつで最後。つまり二人の狙撃兵が潜んでいたことになる。
一階とは裏腹に、随分と少ないな、と思う。だが連中はそもそも、最初の段階で終わらせる予定だったのだ。もしかしたら、というのを考えて二人も割いたのだと考えればまだ納得できる。
「だがここで終わりだ。貴様を殺し、俺がここを支配する」
「口にすりゃあ願いが叶うのか? じゃあ俺は金がほしい」
「っ、死ね!」
ナイフが閃く。それを寸でで避けて、踏み込み、肉薄。渾身の力を込めて掌底を水月にぶち込んだ。
肉に沈む感触。頭上で漏れる呼気。そのまま貫くようにして、穿つ。
男はたたらを踏んで後退した。
これまでの連中よりはいくらか近接格闘に覚えがあるようだ。恐らく、連中の中で一番と言ってもいい。だからこそ彼の自信になり、それが反映されて力になる。
思いの力というのは侮れるものではない、が。
「あの世なら支配できるだろうよ」
アサルトライフルを拾い上げ、銃床で顎を撃ちぬく。振り払われたナイフを銃で受け、その最中に男を蹴り飛ばした。
男は壁に背を打ち付ける。その衝撃に、思わず手の中からナイフをこぼした。無情なまでに、軽い音が響く。
瞬間、男は鉄の味を知った。口の中にねじ込まれた銃口が、酷く冷たく、男の舌を刺激する。
「俺が居ないからな」
タタタン、と銃声が響く。
拉致集団の最後の一人が、脳漿をぶちまけて死んだ。
◇ ◆ ◇ ◆
結局持て余した残りの装備を売り払って、葉下は一週間ばかり優雅な暮らしを堪能した。もっとも、部屋の修繕でその大半が吹き飛んでしまったが――それでも葉下にとっては、豪勢なものだった。
そしてそれを堪能してしまったがゆえに、次の一週間は地獄だった。
金は無く、食料も無く、タバコもなく、飢えによって動く気力もない。仕事は舞い込んでくる気配を見せない。
所持金が残り六円なのもあって、さすがに差額強盗もはばかられる。
そんな折だった。
コンコン、とノックの音。どうぞ、と言う前に扉が開いた。
「こ、こんにちは……」
控えめな少女の声。ソファにのけぞるように横たわったまま、葉下は玄関口を見る。
どこかで見たような少女だった。長く艶やかな黒髪の、幼さの残る少女。白いワンピース姿の彼女は、パンパンに膨れたバッグを手に提げていた。
「あの……成兼姫子です」
「嬢ちゃん、ここは小汚いネズミの巣穴だ。あんたの寝室じゃあねえんだぜ」
「ち、違います。その……依頼を、お願いをしに……」
「ああ?」
彼女はゆっくりと説明した。
葉下の戦闘の後は以外にも酷いものらしく、大掛かりなリフォームを要することになったようだ。
そして姫子は、ここへ来た。
「暫くの間、ここに住まわせてもらえないでしょうか?」
「上等な宿なら他所にあるだろうが。何より、連中のことがあった後だから、危険極まりない」
「構いません。その、報酬の前金として一千を、お持ちしたのですが」
「嬢ちゃん」
葉下は神妙な顔をして言った。鋭い眼差しに、思わず全身が硬直する。
「わからないようなら何度でも言うが――風呂とトイレは玄関入ってすぐの扉を開けた先だ。部屋は俺の部屋を使うといい。その間、俺はこの応接間で過ごす」
「……え?」
「あんたを、ひいては一千万を歓迎しよう。そして俺はあんたの目付けにでも執事にでも奴隷にでもなる。俺はずっとまえから、あんたみたいな人を尊敬していたんだ」
どん、と大金を用意できるその存在を。
億を超えなければ「はした金だ」と蹴り飛ばせるような人間を。
いつかなってみたい。だから稼ぎのない前の稼業を辞めたのだが、結局はこの有り様だ。
「さあ、今夜は歓迎会としゃれこもう」
手を叩いて、葉下は飛び起きる。愉快ともごきげんともとれる表情のまま、葉下は両脇に拳銃を備えたまま外へ出た。
たった六円。ま、こんな日もあるさ。そう考えて、近くの食料品店へ向かう。
鋭い日差しに夏の気配を感じながら、今日も葉下は飯のことだけを考えて店員に拳銃をつきつけた。