003
あの日から、私とイチは殆ど喋る事が無くなった。
大会へ向けての練習がいよいよ大詰めになり、息つく暇も無くなったということもあるのだが、練習中の必要最低限な会話以外交わしていない。ふとした時にイチの視線を感じる時があるが、イチを見ることすら辛くてどうしてもそれを避けてしまう。どう考えても私が悪いのに、謝らなきゃいけないのに、意固地になっている間にすっかりタイミングを逃してしまった。
「竹下先輩」
市太郎がダメ出しノートを手に竹下先輩に話しかける。通し稽古の最中に気になった所や改善点を書きとめたノートだ。以前にこっそり覗こうとして怒られた事がある。思い返せば私はイチに怒られてばかりだった。物心ついた頃から一緒に居たのだ、取り繕う必要も無く、いつでも自由気ままにイチに接していた。何度も怒らせたし喧嘩だって何回もした。それでも気がつけば仲直りしていて、何事もなかったかの様に遊んでいた。
「馬鹿みたい」
思わず溜息が漏れる。どうして私はあんな事を言ってしまったのだろう。どうして私はイチを好きだって事に気がついてしまったのだろう。もう今までの様にはいられない。私たちの間に出来た溝は絶望的で、もう二度と元の関係に戻ることは出来ないだろう。考えれば考えるほど落ち込むばかりで、私はこの前の一件もイチへの思いも無理やり心の奥底にしまいこんだ。
一心不乱に練習に取り組み、もう芝居のことしか考えない。そのお陰でここ数日の私の上達っぷりは凄かった。自分でもどこにそんな集中力があったのかと驚くほどで、通し稽古を重ねるごとに役が自分の体に馴染んでいった。舞台に立っている間は私ではない人間になれる。思考回路も感情も役に支配され、舞台の上からなら心穏やかにイチの顔を見る事が出来た。
「智里。ちょっといいか」
練習の合間。呼ばれた声に顔を上げると竹下先輩がちょっと困ったように笑っていた。
「話がある」
そう言って私の手を引いて、あの日イチとカツサンドを食べたベランダへ私を引っ張っていく。
「……何ですか?」
恐る恐る尋ねると、竹下先輩は何かを言いかけて、思い出した様に私の手を離した。
「あー。ホントに俺どうしょもないな。触るなって言われたのにコレだもんなあ。ゴメン」
先輩はばつが悪そうに視線を泳がすと、息を吐きながら言った。私が一時の激情に流され怒鳴ったことを気にしているのだ。
「いえ、私こそすみませんでした。先輩は何も悪くないんです。謝らないで下さい」
先輩が誰に対してもスキンシップ過多なのは昔からで、そういう性格だって分っていたのにあんな言い方をしてしまった。私の訳の分らない苛立ちに先輩は巻き込まれただけなのだ。
「……それで話って何ですか」
肩を落としている先輩を覗き込むように問いかける。先輩は私の目をじっと見つめたまま何か考え込んでいる。
「この前言ってた事だが……」
そう言いかけて先輩は口を噤んだ。
この前言ってたことってどれだろう。結構いろんな言葉を投げ捨てた気がする。
「誰にでも触るなって──俺の軽さが人を傷つけてるって、智里言ったろ?」
私の思考を読んだタイミングで落ちる言葉に、私は素直に頷いた。
「はい。でもあれは言いすぎでした。先輩が触り魔なのは今に始まったことじゃないですし、皆そういうものだと思ってるから先輩が気にする必要はないですよ。セクハラだとかパワハラだなんてちょっとしか思ってないですから」
「もしかしてそれはフォローのつもりか」
「もしかしなくても」
顔を覆ってしまった先輩の肩に手を添える。
「それにあれは本当に私が悪かったんです。自分の気持ちが上手く整理できなくて先輩に八つ当たりしてしまっただけなんです」
先輩と真面目な言葉を交わすのが照れくさく、少しはにかんでそう言うと、先輩の肩に乗せていた手を力強く掴まれた。
「先輩?」
驚いている私に構う事無く、先輩は片手で顔を隠したままぼそりと言った。
「智里が悪いんじゃない。お前があんな事言ったのは、ちゃんと訳があったんだろう」
その聞いたことも無いほど真剣な声音に驚いて息を呑む。
「智里……」
顔を覆っていた手をどかし、これまた見たことも無いほど真剣な瞳が私のそれを覗き込む。そのおかしな雰囲気に私の背中に嫌な汗が噴出す。
「ま、ま、まさか変な勘違いしてるんじゃないですよね。あの時ああ言ったのはちょと混乱してたからで、私が先輩の事好きだとかそういうのじゃないですから。絶対! 断じて! 神に誓ってもいいです!」
取り乱して喚く私に先輩の視線に呆れの色が篭る。
「あのなぁ。誰もそんな勘違いはしてねーよ」
「へ? 違うんですか」
「違うわ。お前が誰の事を好きかなんて入部当初から知ってるし。それよりお前全力で拒否しすぎ。流石の俺もちょっと傷つくぞ」
先輩がわざとらしく落ち込んで見せたが、そんな事はどうでも良い。
「……今、何て仰いました?」
「拒否しすぎ。俺のハートは傷だらけ」
「その前です」
「前? ああ……。お前、市太郎と仲直りしろよ」
驚いて顔を上げると、先輩はまた真剣な顔に戻って私をじっと見下ろしていた。
「イチと仲直りしてやれ」
「な、何でそこでイチが出てくるんですか。それに仲直りしてやれって、悪いのは私なんだから変でしょう」
「どっちが悪いなんてどーでもいいんだよ。あいつだってそんな事気にしてない。お前、目も合わせてやらねぇじゃねーか」
眉間に皺を寄せて竹下先輩は言う。そんな事言われたって、もうどんな顔したらいいのか分らないんだからしょうがないじゃないか。
「先輩には関係ないです」
顔を背けながらそう言うと、先輩は少し声を荒げて続ける。
「あるんだよ」
訝しげに見上げれば、その目が困惑に揺れていた。
「……あるんだよ。あいつの傍に居てやってくれ」
突然どうしてそんな事を言うんだろう。先輩の言葉の意味を理解できずに無言でその先を促す。先輩は私から視線を外すと、空を旋回する鳶を見上げた。
「お前があの時どうしてあんなにキレたのか、その理由が分ったって事だ」
「……どういうことです」
ぴーひょろろと鳶が高い声で鳴く。
「この前な、市太郎と話した」
どくんと胸が大きな音をたてる。
「話したって一体何を」
私の質問に先輩は答えなかった。困ったように小さく笑うとそれきり黙りこくってしまった。
「イチは……」
きっと竹下先輩に自分の思いを告げたのだ。言わないっていってたのに、私が余計な事いったからだろうか。竹下先輩の様子をみれば、答えがどんなものだったのか分る。イチは今どんな気持ちでいるの? いつも通りに先輩の横に居るからちっとも気がつかなかった。──違う。私がイチの事、見ようとしなかったから、気がつかなかったんだ。
先輩の事が好きだと私に打ち明けてくれた日のはにかんだ笑顔、あの猛暑日の横顔、雲を眺める遠い瞳。イチの顔が脳裏をよぎる。ずっと考えないようにしていたのに、ほんの一瞬で頭も胸もイチで一杯になってしまう。
辛い思いを抱えてるに違いないイチを思うと、自分の事の様に胸が苦しい。それなのに心のどこかでは、少しほっとしている自分が居る。どうして恋をすると綺麗な気持ちだけじゃいられないんだろう。苦しくて苦しくて溜まらないのに、皆誰かを好きになるんだろう。
いつの間にか私の目からは涙が溢れ出ていた。生温い雫がはらはらと頬を伝う。
「俺がこんな事を言うべきじゃないって分ってるんだ。でも……智里。あいつの傍にいてやってくれ」
「馬鹿。馬鹿。先輩は大ばか野郎です」
先輩の胸を我武者羅に叩く。力いっぱい叩いているから痛いはずなのに、先輩はだまってそれを受け入れていた。
「あー。酷い顔だ」
鏡を見なくても目が腫れているのがわかる。水で冷やしたタオルを当てては深呼吸を繰り返した。泣き癖のついてひくつく喉では、まともな芝居など出来っこない。舞台に戻るまでに治さなくては。皆に余計な心配をかけてしまう。懸命に呼吸を落ち着かせようとするがなかなか上手くいかない。冷えたタオルを乗せたまま上を見上げると、隣の蛇口が捻られ水の流れる音がした。
「久しぶり」
掛けられた声に心臓が高鳴る。ひぐらしの声が遠くなり、ただ静かに流れる水の音ばかりが耳を打つ。震える指でタオルをどかせば、入道雲煙る空がやけに眩しかった。
「……うん。久しぶりだね」
練習で毎日顔を合わせているのに、本当に久しぶりだと感じる。あれ以来視界に入れることすら避けてきたイチの笑顔が、直ぐ傍にある。収まっていた筈の涙が再び溢れ、慌ててイチに背を向けた。タオルで思い切り顔を覆っても苦しいばかりで、込み上げる嗚咽は隠し切れない。
「智里」
イチが私の背を撫でる。私の神経は馬鹿みたいに繊細になって、その指の一本一本を追いかける。
「イチ。ごめんなさい。あんな事言って本当にごめんなさい」
喉が詰まって上手く言葉が出てこない。そのもどかしさにまた涙が零れる。
「いいんだ。俺が臆病だったからいけないんだ」
イチが心配そうに私の顔を覗きこむ。涙に濡れた顔を隠して私は首を横に振る。
暫くの間、イチは宥めるように私の背を撫で続けていたが、ふとその手を止めると、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声で言った。
「俺さ、先輩に言ったよ」
ぽたりと落ちる水滴のようなその言葉に、私の胸は静かに震えた。
「案の定駄目だったけど」
「……イチ」
「先輩はちゃんと聞いてくれたよ。気持ち悪がられて終わりかなって思ってたんだけど、ちゃんと聞いてちゃんと答えてくれた」
イチの笑顔は切なげで、それでもどこか清清しく見えた。
「だからもう終わり。先輩の言動に振り回されるのも、無理して良い後輩でいるのも、言えない気持ちに悩むことも、先輩の幸せを妬むのも……」
琥珀の瞳が溶けたように大きく揺れた。
「これでお仕舞い」
そう言って微笑むイチの目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
後から後から溢れる涙は、蜂蜜の様に煌いていた。
本番まであと十日。
演劇部は校内の宿泊施設を借り、ラストスパートの合宿に入っていた。
スタッフもキャストも一丸となって、夜更けまで何度も芝居を繰り返す。台詞一つ、間一つにも妥協を許さず、照明のムラや音響のタイミングまでぴたりと息を合わせる。ここまでくると、練習であろうが本番であろうが変わりない。心地よい緊張感に磨かれ、芝居はよりその精度を上げていく。
私の苦手とするクライマックスシーンも何とか様になってきた。竹下先輩からはOKサインを貰ったものの、自分の中ではいま一つ消化しきれずにいる。
その理由は何となくわかっていた。
深夜三時。稽古を終え、ばたばたと宿泊棟へ移動する部員たちを見送ると、私は一人舞台に戻った。
煌々と明かりの灯ったステージからは、真っ暗でがらんどうな体育館が隅々まで見渡せる。改めて眺めてみると、普段は気にも留めないような二階の窓や、高い位置に備え付けられた中途半端な長さの梯子などが、やけに目につく。広い体育館の対岸。ステージとは反対側の壁の前に、市太郎と竹下先輩は座っていた。今日の稽古を振り返り、明日からの練習内容を練っているのだろう。照明室からは舞台監督と照明リーダーの話し合う声が小さく聞こえる。舞台袖では大道具の幾人かが、こんこんと軽快なリズムでなぐりを振っていた。その空間がとても心地よい。
「どうした智里。忘れ物か」
対岸で竹下先輩が大きな声を上げる。
「キャストは声枯らすとヤベエから早く風呂入って寝ろよー」
そんな竹下先輩の言葉を受け流しながら、私は大きく息を吸った。
自分の気持ちにキッパリ蹴りをつける──。色々な事を同時に悩むなんて芸当、私には出来ないことを自分が一番分っている。大会前のこの大事な時期にこんな事している場合じゃないとも思うけれど、それでも。一生懸命に恋をした彼女を演じるからには、自分も同じくらい我武者羅でありたいと思うのだ。
腹いっぱいに吸い込んだ空気に声を乗せて口から出す。
演劇部に入部して一番最初に教わった腹式呼吸と発声だ。
「市太郎!」
横隔膜を振るわせた声は、静かな体育館に驚くほど良く響いた。
イチが弾かれた様に顔を上げる。ステージの上からはその表情は良く見えなかったけれど、その方がかえって都合がいい。今イチの顔をまともに見たら、この先の言葉が胸に詰まってしまうから。
「私は」
指先が小さく震える。周りのざわめきももう何も聞こえない。ただ自分の心臓の音と声だけが、体の中で幾重にも木霊している。
「イチが」
喉が震え、声が掠れる。唾を飲み込んでもう一度深く息を吸う。それから。
「──市太郎が好き」
懇親の力を込めて吐き出した。
しんと静まり返った体育館に、私のぜえぜえとした呼吸だけが響く。まるで時が止まったようなその空間で、イチの手から台本が音をたてて落ちた。散らばったそれに目もくれずに、イチはじっとステージを見上げている。
どれくらいの間そうしていたのかわからない。一瞬だった気もするし、ずいぶん長い時間見つめあっていた気もする。とにかく緊張で心臓が痛くなるくらいのたっぷりとした間をもって、イチは言った。
「ごめんなさい。俺には好きな人が居る」
それは聞き間違えようの無い程、見事な発声だった。
「知ってるよ」
私も負けじと言い返す。分り切っていた事だから思っていたより心は沈まない。それどころかイチの視線が真っ直ぐに自分を捕らえる事に、高揚さえ感じていた。
雲ばかり映していた美しい琥珀に、今、私だけが映っている──。
「それでも、イチが好き」
二度目の告白は、からりと晴れた青空の様な響きを持って転がった。
やっぱり私には思いを心に秘めておく事なんて出来ないのだ。告げればイチが困ってしまうだろう事も分っていたけど。いつだかイチに言われた通りに、それが私の性格なのだ。呆れとも諦めともつかぬ気持ちが胸をかすめ、思わずくすくすと笑みが零れた。
すると私の笑いが伝染したように、イチもくつくつと笑い出した。体を折り曲げるようにして笑いながら、目の端を彩る涙を指の先で拭っている。
「本当に……俺たちは仕方が無いね」
体育館を包む穏やかな夜が、私とイチの笑い声に合わせて静かに震えていた。
大会当日。
公演時間も差し迫り、私たちは楽屋で円陣を組んでいた。
「さあて。悔いを残すな思い切りやってこい。俺たちの舞台だ。俺たちの芝居を見せてやれ」
竹下先輩の力強い掛け声に、皆で声を上げる。結果次第ではこのメンバーでやる最後の舞台になるかもしれない。極限まで高まった一体感は、うねりとなって部員たちを焚きつける。
「智里。行ってらっしゃい」
イチが力強い笑顔で言う。演出や監督は本番が始まってしまえばもう手を出すことが出来ない。最初から最後まで信じて見守るだけだ。
「行ってきます」
先輩やイチの期待に応えられるように。皆で作り上げたこの舞台を最高の物に出来るように。そんな願いと誓いを込めて口にした。
緞帳の下りた舞台は、擦り切れそうなほどの緊張感に満ちていた。呼吸の音すら聞こえるほどに静かで、誰一人無駄口をたたく者は居ない。スタッフは手早く大道具を入れ替え、小物類を配置する。サスやピンスポの最終確認の為にチカチカと照明器具が明滅する。厚い布地の向こうからは聞こえる大勢の観客のざわめきも、けたたましいブザーの音と共に静かになる。開演五分前。役者たちは各々初期位置を確認し、静かにその場に立つ。緊張から喉が渇く。最初の台詞を何度も頭の中で復唱する。そうしている間にもう一度、大きくブザーが鳴る。開演一分前。全ての照明が落とされ舞台は闇に包まれる。目を開けても閉じても変わらないほどの暗闇の中で、次第に心は落ち着いてくる。己の心音を整える様に開演までの六十秒を数える。開演のアナウンスが静寂を破り、機会音を立てて緞帳が上がっていく。目の前に広がる広い観客席。ゆっくりとフェードインする照明。その瞬間、心の底が震える程の快感が体を駆け巡る。
舞台が始まってしまえば、考えることなどもう何もなかった。
練習の通り──いや、それ以上の情熱と勢いを持って舞台は進んでいく。一人ひとりの演技がこれ以上無い程のタイミングで合わさり、芝居は一つ濁流となる。役者も観客もその濁流に飲み込まれ、ホールは一つの舞台に変わる。打てば響くように返る台詞に、鳥肌が収まらない程に感覚が研ぎ澄まされていく。
皆で作り上げてきた舞台。竹下先輩とイチが引っ張り上げた舞台だ。
演じるのが楽しい。いつまでもここに立っていたい。でも、もうすぐそれも終わってしまう。今日この日のこの舞台はもう二度と戻ってこない。芝居の終幕。それもまた一つの別れなのだ。
「私さ、やっぱ駄目だったみたい」
練習では突き放すように発してきたその台詞が、明るい声音で飛び出した。別れの悲しさをどう表そうかと、あれ程頭を悩ませたシーンだったのに、今はただ爽やかな気持ちで一杯だ。
「ちょっと面白そうだと思って君と付き合ってみたけど、正直もう飽きちゃったんだよね」
驚いた相手の顔を見ながら、さらっと言う。貴方の傷ついた顔を見るのが辛い。でも決して目は逸らさない。きっともう二度と会うことはないだろう。それでもこの出会いを後悔する事は無い。貴方に出会えて、貴方と言葉を交わし、貴方に恋をした。今日この日まで──いや、今この瞬間も。私は幸せなのだから。
「だからもう。お別れしよう」
めいっぱい微笑んでみせる。酷い女だと思ってくれて良い。私の事なんて嫌いになったて構わない。
「さようなら」
大好き。大好き。ありがとう。
耳に飛び込む喝采に、ぼんやりと浮遊していた意識が引き戻される。
疾走した直後の様な疲労感と一抹の喪失感で、頭の中に霞がかかっている。深い呼吸を繰り返しあちらこちらに視線をさ迷わせるとようやく、舞台が終わったのだと理解する事が出来た。
わらわらと出てくる部員たちと手を取り合いながら、観客席にお辞儀をする。竹下先輩と三年生はマイクを片手に、舞台のセリに一列に並んでいる。締めの挨拶をする為だ。
セリに並ぶ先輩達を残して、緞帳が静かに下がり始める。
私は急いでイチを探した。ゆっくりと降りてくる緞帳がギロチンの様に、先輩とイチの繋がりを断ち切ってしまう。そう思ったら、居てもたってもいられなくなった。
「イチ」
小さく呼べば、手に何か暖かいものが触れた。イチの手だ。
「智里」
イチは私の手を握ったまま、分厚い布に隠されていく竹下先輩の背中を見つめている。
「ありがとう」
そう言ったイチの瞳は決して先輩からそらされる事は無かった。重ねられた掌の暖かさに少しだけ涙が零れた。
流れた雲は一体どこへ辿りつくのだろう。
私たちの想いはまだ当分の間、この場所から動きそうにも無い。
いつの日か大人になった時、このカーテンコールを思い返す日がきっと来る。
その時。私の手を握る掌が、今と同じ温度であればいいのに。
「市太郎。私別に諦めた訳じゃ無いからね」
にいと口角を吊り上げて言うと、イチは笑った。
「まあ、それがチサだよね」
私とイチと好きな人。
苦しいばかりの恋なのに、何故だかそれがとても愛しい。