001
『竹下先輩、彼女出来たんだって』
切欠は誰かが言ったその一言。午後三時のワイドショーと同じくらいの無責任さで耳に飛び込んできたその、一言。その瞬間私は腰掛けた窓辺から落ちるんじゃないかってぐらい仰天した。ステンレスのサッシを掴む手にじわりと汗が滲む。ぶらぶらと宙に遊ばせていた足も、まるで石になったようにぴたりと固まってしまった。気持ち良く口ずさんでいた歌だってすっかり何処かへ吹き飛んで、口の中はからからだ。
ちらりと隣に目を遣れば、ふわりと揺れる鳶色の巻き毛。窓に肘を付き外を眺めている琥珀の瞳。その眼差しは真夏の日差しを受けても暗く、私はとっさに手を伸ばした。
「……イチ。これ痛い?」
少し日に焼けた頬を抓れば、目つきの悪い幼馴染の顔は一層物騒になった。照明をつけても薄暗い穴蔵の様な部室の中で、イチの目は瞬く星の様に揺らめいている。
「痛い。とても、痛い」
イチは顔をしかめて私の手を振り払うと、窓からぐっと身を乗り出して馬鹿みたいに続く青空を眺めながら言った。
「痛いけど。……知ってたよ」
開け放った窓からは、テニス部の掛け声や野球部の金属バットの音、そしてまだ部活動時間の前だというのに既に発声練習を始めている竹下先輩の良く響く声。
「先輩に聞いたの?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「そっか……」
喉の奥に石でも詰まったように何も言えなくなった私に、イチは小さく頷いた。
「いいんだよ。ただ好きだっただけ。好きだっただけなんだ」
イチは何でもないことのようにそう言いながら、睫を震わせて竹下先輩の声に耳を傾けている。
私は思わずイチを思い切り抱きしめた。子猫の様に柔らかな髪が肌をくすぐるのが切なくて、ぎゅっと腕に力を込める。柔らかくてふわふわしたこの存在が、このまま消えてしまうのではないかとそんな不安に駆られてたまらなくなる。
「イチ」
蝉がもっともっと鳴いてくれたらいいのに。この際野球部でもテニス部でも工事の騒音でも良いから、竹下先輩の声がこれ以上イチに聞こえなければいいのに。
「イチ。泣いていいよ」
耳元に囁けば、イチは私のセーラーの袖を握り締めながら応える。
「……泣かないよ。馬鹿」
記録的な猛暑日。こうして市太郎の恋は終わった。
* * *
「じゃあ一時間後に一幕通すから、それまで個人で練習して。質問があればそれまでに」
丸めた台本を片手に竹下先輩が言う。タオルを頭に巻いてにかにかと笑うその様はとてもさわやかだ。その後ろにはちょっと硬い笑みを浮かべるイチ。
イチの顔に浮かんでいるのは確かに笑顔なんだけど、何故かもやもやする。私はイチのあの顔が大嫌いだ。いつもの柔らかな笑顔とは全然違う。見ているだけで胸が締め付けられて私の方が泣いてしまいそうになる。そうも出来ないので私の胸のしこりは、イチが切なげに笑うたび大きく重くなるばかりだ。
「イチ。そんなんで大丈夫なの」
咄嗟にかけた声には渦巻く苛立ちが漏れ出ていた。イチはちょっと眉をしかめると、くしゃくしゃになった台本を手に私の元へやってきた。
「……何でチサはそんなに機嫌が悪いの」
イチは息を吐くと、私の顔を覗きこんだ。スポットライトの下ではイチの瞳は一層明るい色彩を放つ。
「イチが気持ち悪い顔してるから」
「喧嘩売ってるの。そんな暇あるなら練習して。チサは後半読み込み甘い。特に六十四ページ」
イチはわざとらしく息を吐くと、丸めた台本でこつんと私の頭を叩いた。
今度の大会で竹下先輩たち三年生は引退する。演出を勤める竹下先輩の跡目に選ばれた市太郎の台本はボロボロだ。元々藁半紙に刷られた簡単な物だが、長い稽古の中で擦り切れ、書き込みで真っ黒に汚れていた。私のだってそれなりに汚ないけど、イチの台本は特に酷い。
「それもこれもイチのせいよ」
芝居が下手なのは全く持って自分のせいなんだけど、ちょっとムッしたので言い返す。完全に八つ当たりだ。ツンとそっぽを向けば、頭にぽかりと軽い音。凶器となった台本を奪い取るとイチは遂に怒ったようだった。
「チサ。言いたいことがあるならはっきり言って」
「別にそういうんじゃ……」
流石にばつが悪くなって、ちらりと舞台端に視線を逸らす。上手袖で一年生たちの演技指導に夢中になっている竹下先輩が、後輩の頭を台本で小突いたのを見て、思わずため息が吐いて出た。
助演出に決まったときのイチの舞い上がりようを思い出す。想いを寄せる先輩と行動を共にし、学ぶことが出来るのだ。それはもう、紐の切れた風船みたいに浮かれていた。その時はその時であまりのはしゃぎように苛々したけど、今ほどじゃなかった。
あれから今日までイチが我武者羅に頑張ってきたのを私は知っている。遅くまで台本を読み込んではああでもないこうでもないと考えたり、先輩の感覚的な演出を体で覚えようとその背中を追っていた。それこそ先輩の行動が染るくらいに。
イチは眉間に皺を寄せたまま、私を見ている。
先輩にもそれくらい感情を曝け出せば良いのに。無理して笑ってないで、泣けば良いのに。先輩の格好良い仕事っぷりを、彼女の事を惚気る幸せそうな姿を、毎日傍で見ているだけだなんて辛すぎるじゃないか。いっその事助演出なんてやめちゃえば良いのに。そう言えたら楽だけど、言えるわけもない。今となってはイチが助演出の仕事をとても大切に思っている事も知っているから。
「……何かゴメン。八つ当たり、した」
重苦しい気持ちを息と共に吐き出して頭を下げる。
「本当にごめんなさい」
頭を下げたままの私にイチは困ったように笑った。
「……いいよ。疲れてるんじゃない? 帰りに甘いものでも食べて帰ろうか」
「ジョーリオのケーキ?」
「フォンデルマンのパフェという手もあるよ」
「究極の選択だね」
私もイチも甘いものには目が無いのだ。ケーキもパフェも甲乙つけ難しと、二人してにやけ顔を浮かべていると、竹下先輩の叱責が飛んできた。きったないスリッパと共に。
「お前ら! ふざけてる暇があるならとっとと練習しろ!」
「痛っ! それに汚な! これ先輩の履き潰したやつじゃないですか!」
見事にジャストヒットした頭をさすりながら破れたスリッパを放り投げる。放物線を描いて先輩の下へ飛んでいくそれを、イチはまるでフリスビーを投げられた犬の様に輝いた目で追っていた。
「イチ取って来ーい」
思わず呟くと、容赦なく頭をはたかれた。
「智里! 馬鹿なことやってないで六十四ページ集中的にやれ! あのシーンで噛むのは致命的だぞ!」
「はい……」
竹下先輩の追撃にぐうの音も出ない。「ほらみろ」と口だけで言ったイチの足を踏みつけると、私は気を取り直して台本に集中した。
* * *
大会まで三週間を切った頃から、イチの様子がおかしくなった。
常に心ここにあらずといった感じで、私の軽口にも乗ってこない。大会が近いから緊張しているのかも知れないが、それは私だって同じだ。
「イチ最近元気ないね」
お昼休み。購買のパンをもそもそとかじるイチはやっぱりどう見ても、いつもの市太郎じゃない。
「そんな事無いと思うけど」
「だってイチがアンパン一つしか食べないなんて、絶対変だよ」
いつもならそれにカレー弁当とホットサンドとあまつさえ蕎麦までつけちゃう人だ。追い込みで厳しい練習が続いているこの時期に、それだけで体が持つ筈が無い。私だってお弁当の他におやつを持ち歩いているくらいなのに。
「もうすぐ大会だからね。気が張ってるのかも」
「……本当に?」
「ううん。嘘」
悪びれる様子も無く言い切ったイチは、紙パックのイチゴ牛乳をストローで吸いながら、窓の外を眺めていた。長い睫が影を落としどこか憂いを帯びている。その視線はぼんやりと頼りなく、雲が流れていくのをただ見つめているようだった。
こんな時こんな顔をしてイチが考える人は一人しか居ない。
一緒にお昼ご飯を囲んでいるはずなのに酷く遠く感じる。それが何故だかとても寂しくなった。すっかり味気のなくなったお弁当を箸でつついていると、イチが突然切り出した。
「あの雲さ」
「うん」
「先輩みたいだよね」
「うん?」
予想外の言葉に一瞬理解が追いつかない。
竹下先輩の事を考えているだろう事は分っていたけど、まさかそこまでリリカルな事を考えていたとは。しかもどこが先輩に似ているのかちっともわからない。あの白くてもわもわ柔らかそうな雲と、情熱の塊の様な先輩に似通う部分など見つけるほうが難しい。
「太陽とかならまだわかるんだけど、雲?」
「そう」
イチの視線の先にある雲をじっと見つめてみる。
「ごめん。わかんない。どっちかって言うと神居のシュークリームに似てると思う」
「……チサに聞いた俺が間違ってた」
「私以外の誰にも言えないくせに」
ぼそりと零せば机の下で足を蹴られた。靴下の無い部分に当たって地味に痛い。
「しょうがないじゃない。私は貴方と違って竹下先輩大好きって訳じゃ無いんだし。もっと分りやすく言ってよ」
イチはちらりと私を一瞥すると、ふいと視線を雲に戻して言った。
「いや、竹下先輩だけじゃないけどさ……。あの雲は今確かにあそこにあるけど明日にはもう無くなってる。明日の空には新しい雲があって、明後日の空にはまた新しい雲がある。そうやって毎日新しい雲を見ているうちに、今日の雲の事は忘れてしまうんだろうか」
ああなるほどそういうことか。うん。そんな事あれだけの会話で分るわけないよ。イチは時々思考回路が乙女チック過ぎてちょっと困る。私はそういう情緒とか感慨とかあまり敏感じゃないから。自分で言っていて悲しいけど。まあでもつまり。
「先輩の卒業が寂しいってこと」
「ちょっと違うけど、そんな感じ」
「まあ確かに部活以外では全然会うことないもんね」
学年も違うし下手したら碌に話すことも出来なくなる。それにもう数ヶ月もすれば先輩たちは卒業だ。確かにそれはちょっと切ないかもしれない。
「でもさ、イチは先輩に告白するつもりは無いんでしょ」
「……うん」
「じゃあこれで良いんだよ。忘れてしまうからこそ明日に進める場合もあるんじゃないかな。きっと」
イチが先輩へ抱く気持ちが別の形であったなら、仲の良い先輩後輩として続いていく道もあったかもしれない。でも現実はそうではない。気持ちを隠して先輩の傍にいるなら、先輩と彼女が笑い合うのをこれから先も見続けなくちゃいけないのだ。私はイチにそんな過酷な道を歩んで欲しくない。イチがあんな笑顔しか出来なくなるなら、先輩の傍から離れて欲しいとすら思う。でもイチをとびっきりの笑顔に出来るのも、また先輩だけなのだ。
「忘れられる時が来ると思う?」
思うよ。とは言えなかった。イチがどれだけ先輩を好きか知っているから。
「ねえイチ。大会、頑張ろうね」
「……そうだね。頑張ろう」
再び雲へと視線を戻したイチは昼休みが終わるまで、じっと動かなかった。
本当にこのままでいいのかな。あれほど純粋なイチの思いは、伝えることすらできずにどこへ消えていくんだろう。ゆっくり溶けては形を変えていく雲の様に、捕らえどころの無い思いが広がっていく。恋の終わりがもっとわかりやすければいいのに。昼休みの終わりを告げるベルの様に、ぱっと気持ちを切り替えてくれたらいいのに。イチの笑顔が見たい。こんな消えてしまいそうな横顔じゃなくて。
「先輩の馬鹿」
やり場の無い寂しさと怒りが胸を満たして重くなる。誰が悪い訳でもない。だからこそこんなに切ないんだ。
雲を見つめるイチの横顔を、私はずっと見つめていた。