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9話



 部屋の鍵を開ける彼の背後、俺が持つコンビニのビニール袋ががさりと音を立てた。

 つられるように目を落とした腕時計、日付は週末、時刻は二十四時前を指している。――「週末」「深夜」、俺がこの二大キーワードを前に解放感を覚えなかったのは、多分今日が初めだと思う。



『明日は休み?そうか、じゃあ俺の家に泊まっても何の問題も無いね』


 立ち去った終電の尻を茫然と眺める俺にそう確認し、予定を決定した後の彼の行動は実に早かった。

 下ろさないと金の手持ちが無いという俺に彼は自分があるから大丈夫と近くのタクシーを拾い、ただでさえ安くない電車五駅分の距離、しかも深夜の名の下に厚化粧された馬鹿高い金額をポンと現金で支払った。

 俺はその時提示された金額にも蒼白になったが、むしろ何故そんな額を持ち歩いているのかという彼の財布事情にも仰天していた。しかし彼は俺の驚きも構う事無く、降りたマンション前でそういえば酒が無かったと言ってコンビニへ足を向けた。そうして自動ドアを潜り実に隙の無い動作で颯爽とカゴを持ち、「好きなもの適当に取って突っ込んで」と俺ににこやかに言ったところで、俺は漸く彼が不機嫌になっている事に気付いたのだ。

 そこまで気付かなかった俺もどうかと思うが、気取らせなかった彼も凄いと思う。

 ・・・でも。


『良かった』


 飲料ショーケースの手前、バツの悪い思いでおたおたと酒を選ぶ俺の横。

 視線を缶ビールに向けたまま、囁きとも独り言とも取れるほど小さく、彼はぽつりと言った。

 良かったと。

 小さな小さな、ほとんど聞こえないような小さな声で、言ったのだ。

 良かった、嫌われていなくて。


 ―――ホントに良かった、と。


 俺にではなく、多分自分に、彼はそう言った。





 がちゃん。


 マンションの薄暗い回廊に、鍵が開く音が響いた。

 ぎぃと開いた扉、それを支える彼の体が傾き、伸びた手が玄関の電灯スイッチを探す。

 ――彼の会社は俺の会社から更に三駅行ったところにある。

 彼は多分あの駅には帰りの途中で下車し、そのままずっと現れない俺を待っていてくれたのだろう。ジャケットとネクタイを脱いだだけのシャツは皺無く綺麗だったが、背中は僅かに汗を吸ってしんなりと彼の体に貼り付き、疲労じみた気配を纏っていた。一体どれだけの間、あの駅で待っていてくれたのだろう。

 人を待つ事は楽なようで案外に辛い。それが来るか来ないか解らないような場合なら、尚更に。


 ぱちりとスイッチの音が鳴った。

 柔らかい明かりが玄関に灯り、彼の形のいい頬にくっきりと影を落とす。――それに明らかな疲れを見つけて、本当に、自分は一体何をしていたんだろうかと思った。

 馬鹿だと、思った。酷いことをしていた。もし俺が彼に同じことをされた時、傷つかずショックを受けないでいられるような、そんな磊落たる心持ちでいる自信は無い。どうしてなんだと、きっと感情のままに彼を詰って怒鳴っているだろう。だって意味が解らない。最後に会ったときは笑っていたし、避けられる事など何一つしていないから。彼は何も、していない。


 "かずき"


 怖いのは臆病だからだ。

 保身をしたかったのだ。怖いからと、つまらない臆病心で彼を視界から外した。


 "いきましょう"


 あぁ、本当に逃げてばかりじゃないか。

 逃げてばかり。ずっとずっと。父親の死から、母さんの手から、ずっと。


 "ねぇ、いきましょう"


 ―――母さん。


 "いきましょう、とてもあかるいところに"


 ごめん。


 "おかあさんと、いきましょう"


 ごめんなさい。



「和樹君」


 黒いドアを開けたままに、多分振り返った彼が名を呼んだ。

 大理石に似た光沢有るタイル、見下ろす床石は掃除が行き届いて綺麗だった。綺麗で、綺麗すぎてみていられない。

 軽い眩暈を覚えて目を閉じた。和樹君。彼がまた、名を呼んだ。


「和樹君?玄関開いたよ。早く中に入らないと閉めるよー」


 きぃきぃと、彼の声と連動してふざけたように扉の蝶番が笑い声を上げる。

 顔を上げられなかった。じっと俯いて背中を伝う汗を意識は追い掛け、寂とした沈黙の中に安寧を求めようとする。彼の声が少し遠くに聞こえた。

 "かずき"

 ――母さん。

 "いきましょう"


「―――・・・和樹君?」


 いきましょう。


「・・・和樹君、何か顔色が・・・」

「怖くて」


 掠れた声が落ちる。

 引き上げた顔、手は氷にように冷たいのに目は真っ直ぐに彼を見た。フレームのない眼鏡のレンズが光を帯びて、暖光を弾いていた。


「―――か、」

「怖くて、だから俺、避けたんだ。俺は畑さんの思うような出来た人間でも凄い人でも何でもなくて、どうしようもない逃げてばかりの臆病者でしかなくて、失望されるのが怖かった。怖かったんだ」

「・・・・・・」

「逃げなかったんじゃねんだ。ただ考える事から目ェ逸らして流されて先送りにして、なのに今頃逃げ出してんだ。畑さんみたいに自分で道を選んでちゃんと前向く事が俺はできなかった。畑さんは逃げてなんかねぇよ。逃げてんのは俺だ。向き合うのも何もかも全部放って、ただ逃げてるんだ。だって失望されてしまったらそれまでじゃないか、居なくなるじゃないか」

「・・・・和樹、君」

「失望したら離れてくんだ。みんな離れて、俺は残される」


 自分でも驚くほどに淡々としていた。

 目に映るのは茫然とした彼の顔。玄関に灯された柔らかい光が彼の髪を彩っていた。

 ―――母さんが、

 口が勝手に開いた。何を言っているんだろうと思ったが、思考はミルクを落とした紅茶のようにぼけて霞んだ。


「母さんが、最初に離れていった」


 彼の顔を見詰めながら、頭のどこかでやめろと声が響いた。そんなもの言わなくて良い。

 今更もう、言わなくても。

 けれど口は、止まらない。


「母さんは心の弱い人で、少し精神を病んでたんだ。あまり外に出たがらない人だったけど、父さんが仕事で居ない日が続いた時急に俺に外に出ようって言い出した。明るいところへ行こう、何の悩みもない素敵なところにって。意味解らなかったけど俺は母さんと出かけるのが嬉しくてさ。それで初めて電車の駅に手を繋いで連れて行かれて、でも改札を潜る段階になって俺は急に母さんが怖くなった。何がって言われても解んねぇけど凄く怖くなって、それでつい、行けないと言ったんだ」

「・・・・・・・・・」

「母さんは笑った。期待はずれだって顔して、じゃあ仕方がないねって」


 ――できない、いけない。ゆるして。許してと。

 そう言った俺に「仕方がないね、そうね。じゃあかずきはここまでで終わりね」と。

 もう駄目ね、と。


「手を離して俺をそこに残して、母さんはじゃあねってそのまま電車に乗ってった。それでそのまま丸二日帰ってこなくて、血相変えた父さん達が探して――」

「・・・・・・・・・」

「帰ってきた時、もう息して無かった」


 ばたんと、玄関の閉まる音。

 どこかぼんやりした心地で目を細めると、玄関の暖光がぷつりと姿を消していた。

 薄い笑みが浮かんだ。


「自殺なんだって」

「和樹君」

「終点の駅だった町の山ン中で、首吊って」

「和樹君、もういい」

「んで首吊った紐、もう一本持ってたんだって。俺用の。ポケットに――」

「和樹」


 ぐい、と。

 肩口に顔を押し付けられ、最後まで言葉は言えなかった。

 いつの間にか彼が直ぐ目の前に居て、俺は体を強く拘束されていた。

 俺の背は長身である彼の肩口までしか無い。ぎゅうと抱かれ、肩口に押しつけられた格好のまま、目に入った綺麗な鎖骨をぼうと眺めた。


「・・・一度だけ、」


 声がくぐもった。


「何で止めてくれなかったんだって、父さんが言ったんだ。止めていたら死ななかったかもしれないのに何故って」

「和樹君」

「でも本当にそれ一度だけで、すぐごめんって言ってくれたんだけど。それに俺も父さんの言う通りだと思ってたし別に良いって首振って、――そしたら父さんは自分が悪かった、許してくれって――」


 閉じた瞼裏、蘇った顔は失望の色を浮かべた。

 期待はずれの顔で、俺を見て。

 そうして。


「その一月後、飛行機が落ちた。帰ってこなかった。父さんも母さんも、失望した後俺から去ったんだ。離れて消えて、二度と帰ってこないままで――だから」


 だから、怖かった。

 離れなければと。失望されて彼が消えてしまう前に、自分から。

 失うよりは何倍も良いのだから。


「ごめん畑さん、ごめん」

「和樹君」

「ごめんな、俺」

「和樹」

「ごめ・・・、」


「―――もう、黙って」


 強く、背の腕が締めた。

 苦しいほどに強く、生きている彼の温かい腕が、確かな力で。

 『もういい』と。



 ―――"大丈夫ですか"。


 何故かふと、初めて彼と会話した日、背中に触れた手を思い出した。

 吐き気の苦しさのせいなのか、摩る手が優しく暖かいからなのか。最初は確かに前者だったはずの涙は、手の温度を追いかけている途中で前者か後者か理由が解らなくなった。あの時は流れに任せてただ目を閉じたが、多分きっと、答えはホームで手を支えてくれた時にもう、出ていたのだと思う。

 何故なら今再び感じている彼の手は、どうしようもなく暖かいのだ。




「・・・ところで和樹君」


 腕を解かれ、多分に情けないだろう顔を上げると、予想外に深刻な顔とかち合った。


「この状況で言うのは何だけどね。・・・俺は今、物凄く恐ろしいことに気付いたよ」

「―――は?」

「下。Please look at a bottom.」


 下を見ろ。

 綺麗な発音に促され、疑問符交じりに見下ろしたタイル張りの床。

 一体いつの間に落としたのか、俺が持っていたはずの白いコンビニ袋が床にへばり。


 ―――打ち付けて見事に歪んだ缶ビールが、黄金色の液体を撒き散らしていた。



 ・・・何かアルコール臭がするなとは思っていたんだ。




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