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8話


『――え、残業?』

「うん」


 電気が消え暗闇を落とす会社の廊下、樹脂でコーティングされたグリーンの床に自動販売機の強い光が映り込んでいた。

 精密機械系の部品を扱う建物や工場の素材は特殊で、床一つに至っても薬品に強かったり静電気被害を防止したりとあらゆる配慮がなされている。それらは大概が現場で流し延べて施工するために、繋ぎ目がなく床保護性能が高い。この会社の廊下とて例外でなく、使用床材はエポキシ樹脂、耐薬品性・耐久性に優れた特徴を持っている。原子力関連施設で採用されているのもこれと同じものだ。


「先週新しく入れた部品に欠陥あったの解ってさ、企画が変わったから作業に追われてんだ。データの訂正作業に部品の工場返品、あと調査報告書の作成。キリがねぇ」

『わ。それはまた厄介だなぁ。――もしかして、それで朝の電車時間が?』

「あ、そう。早く出てんの。・・・済みません、言うの忘れてた」

『あぁ、いや、それは気にしないで。報告義務なんか無いんだし、――ただちょっと、どうしたのかなと思っただけだから』


 だってほら、もう顔見なくなって二週間経つでしょう。


 ぶぅん。

 コンプレッサーの音。

 会社の廊下は長く、音は反響して遠くまでうぉんと伸びて行った。

 

「・・・そう、だっけ」

『そうだよ、丁度俺の家泊まった翌日からだからね。・・・だから、少し俺何か君の気に障る事したかなーとか考えてたんだけど』

「・・・えっ!?」

『避けてない?』

「、――そ、」


 がたん。

 腰掛けていた長椅子から立ち上がった。――そんなつもりは。

 その言葉はだけど、目に入った真っ暗な廊下でふつと消えた。ふ、と笑い声が携帯に響く。


『冗談だよ』

「・・・畑さん、」

『ごめんごめん。さてと、それじゃ邪魔して悪かった。また今度誘うから――頑張って』


 無理しないようにと気遣う言葉を残し、彼との通話はそこで切れた。

 ぼんやり耳元に当てたままの携帯からは平坦な電子音がぷつぷつと響いて聞こえ、あぁ電話切れたんだっけと間抜けな感想が浮かぶ。本当に間抜けだ。

 携帯を閉じ、中途半端に立ち上がっていた腰を再び長椅子に戻した。ぎ、と不満げな軋み音が漏れ、黒い合成皮革製の椅子から煙草の香りが漂う。昼は喫煙者の憩いの場として機能している場所だから当然だ。俺は主義と言うより経済的理由で喫煙者ではないから、あまりここに来る事は無いけど。


 ―――馬鹿なことしてるなぁと、その自覚はあった。


 ぼんやり座っている休憩所は暗い。自販機が無ければ今頃真っ暗だろうし、廊下遠くにある非常口のグリーン光は周囲の暗さを強調するかのように煌々と浮かんでいる。まぁ実際問題外は真っ暗だったし、そして中も真っ暗だから仕方が無い。電気はもう二時間前に消されていた。今このフロアは俺しか居ないし、全員が帰宅してしまっているから当然の事だ。

 勿論、残業なんて誰もして無かった。


 朝の電車を二本早い時間に変え、帰宅は終電を使うようになったのは二週間前からだ。その理由として口にするのはいつも「仕事」で、それ以外には理由は無い。実際俺は仕事しかしていない。

 でも仕事は通常通りの時間で行われている。早朝に来る必要も遅くまで残る必要も俺には無く、だからと言って別に労働時間を詐称しようという目的がある訳でもない。タイムカードはきちんと時間通り押しているし、就寝と起床時間が違うだけで他の生活は変わっていない。

 そう、何も変わっていないのだ。彼に会わなくなったこと以外は。


 ”避けてない?”


 ―――避けている。


 切っ掛けは原動機工場の吉住だ。

 奴が悪いんじゃない。工場に戻れと言われ、見えた事実に怖くなった。

 彼に気に障った事なんて何も無かった。彼が穏やかなのも優しいのも芯が強くだけど不器用なのも、全部気に入らないなんてことは全然無い。知り合えてよかったと思う。話せてよかったと思う。仲良くなって良かったと思う。

 でも、会わなきゃ良かったと、そうも思うのだ。

 彼は潔い人だ。彼を前にすると、俺は自分の弱さや逃避している事実が現実のものとなって、浮き彫りにされ責められている気分になる。彼にはそんなつもりないだろうし、そんなもの俺の単なる個人的劣等感でしか無い。それでも俺は怖かった。自分が逃げている事を自覚せずにはいられなかった。彼は潔くて優しくて、だから俺は辛かった。こんな風になりたかったと、馬鹿な事を思っている俺を、彼はだって、凄いと言うのだ。凄くなんかないのに、凄いと。

 失望がどういうものか知っているだろうか。失望は人を遠ざける。失望すると人は去るのだ。

 怖かった。

 彼に失望されるのが、俺は怖かった。


「・・・バカみてぇ」


 いつまでも逃げるわけにはいかないのに、いつまで逃げるつもりなんだろう。自分から逃げて現実から逃げて、そして彼からも逃げるのか。いつまでもいつまでも、俺は何かから逃げている。あの時からずっと。


 ―――ごめん、ごめんおれ、


「――・・・、」


 ―――おれ、できない。ごめん、ゆるして。


 ゆるして。


「・・・、ぅ、」


 胃がむかむかし、口を押さえた。

 目を閉じて長椅子から立ち上がる。そろそろ帰らないと終電の時間だ。床に置きっぱなしだった鞄を持ち、込み上げる吐き気を懸命に無視した。

 建物から出ると、満点の星が出ていた。それでも気持ち悪さは取れず、眉間に皺を寄せて駅に向かった。会社から駅まではそう遠くなく、交通の便はとても良いのだ。小走りに改札を抜けて腕時計を確認すると、時刻は十一時半だった。終電は十一時三十六分だ。もう直ぐに来るだろう。気分が悪い。

 背中を汗が伝った。気分が悪かった。


 ―――ゆるして


 あぁまずい。まずったな。



 ―――許して、母さん。



 吐きそうだ。




「―――大丈夫?」


「――――・・・、」


 声をかけられ、顔を上げた。

 いつの間にか落としていた鞄と、心配そうな顔と、フレームの無いめがねと。

 色素の薄い目と。 が、そこにあって。

 そしてその時、硬直以外に俺の術は多分無かった。



「うわ、顔色悪いね。吐きそう?駅のトイレ行く?」

「―――、」

「いや駅長さん呼んだ方がいいかな。休ませて貰えるよう聞いてみようか」

「――な、」

「ん?」


 漸く、絶句していた声が出た。

 俺を支えている腕を掴み、茫然と、いや唖然と、目の前の人に声を絞った。


「何で、――畑さんがここに」

「何でって、そりゃ電車で来たからでしょう」


 けろりと言われ、あぁそうかと思った。そりゃ電車で来たんなら居るよな――ってそうじゃない。

 一瞬納得しかけて自分で突っ込む。そんなもんは解るのだ。俺が聞いてるのはそんな行動的当たり前の事じゃなくて。


「そ、そうじゃなくて――」

「あぁうん、何か電話の様子が変だからどうしたのかな、と言う建前と」


 落ちた鞄を拾い上げて、彼は微笑んだ。


「何故俺を避けてるのか、という本音と。理由を訊きに」

「―――・・・っ」

「避けてるだろ」


 事も無げに落款する断定の銘。息を呑んだのは一瞬で、内心はやっぱりそうだよなぁと納得していた。彼が俺の嘘に気付かないわけがない。自分の事はとても不器用であっても、人の事にはセンサー並みに鋭い人なのだ。突き通せると思った方がおかしい。


「・・・けど、まぁそれは後でいいから。とりあえず場所移動。吐き気は平気?」

「あ、」


 気分が悪かったことを忘れていた。

 恐らく戻っただろう顔色でぽけっとする俺を見て、彼は安堵とも苦笑とも取れる笑みを零した。大丈夫そうだねと頷き、じゃあ帰ったほうが早いかと言った。

 しかしそこで、俺ははっと腕時計を見た。

 瞬間にざっと顔色を変えて背後を振り返ると、―――案の定。


 銀の体を月光に閃かせた最終電車が、遠くの線路でぷわぁんと警笛を鳴らしていた。



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