6話
それは真っ白ではなく、だからといって白でないわけでもない。
僅かに黄味を帯びたこの色を多分、アイボリーホワイトと言うのだと思う。シンプルな一色は品が良く、そして良く見れば模様があった。どこからかの光がその上に触れると、途端にくるくると伸びたツタの模様が現れるのだ。お札の透かし技術に通じるものがある。
ぼんやりとした頭で凝らした視界は、見た事が無いその天井と窓辺のカーテンレースと、そのレースを縫って漏れてくる光を認めていた。明らかに俺の部屋ではない。
寝ているシーツはとても肌触りが良いが、やはりこれも覚えが無い。手を滑らせて掴むと柔らかい感触と同時にしゅっと皺が寄る。僅かに軋むスプリングも煩くなく、俺はとりあえず目を閉じた。誰の家だかは知らないが、まぁ別にいいだろう。そう、多分夢だ。
寝よう。
「―――――って、畑さんちだ!!」
一気に記憶が蘇り、慌ててベットから飛び起きた。誰の家も何も、話し込んでいるうちに終電無くなって泊めて下さいって頼んだの俺じゃないか。何を全力で寛いでるんだ俺は・・・!
着ているものはスーツのままだったが、ジャケットとネクタイは扉横のフックにきちんとかけられていた。俺はリビングに置いた覚えしか無いので、多分彼が気づいて持ってきてくれたんだろう。
―――迷惑かけちゃったなぁ。
羞恥というか自己嫌悪と言うか、苦く溜息混じりに頭をかいた。
昨夜、俺は話ばかりに興じていた為アルコールはほとんど飲まなかった。おかげで俺は全く二日酔いにはなっていないけど、彼は俺が覚えているだけでもウイスキーのロックを三杯は口にしていたような記憶がある。話の内容、それが過去のことになる以上お互い自虐的なものになるのはどうしようもないし、きっと彼は俺よりも事実を解っていた年齢だったから・・・余計に、飲まずにはいられなかったのだと思う。それを『過去』とし、別の道を選択した彼にはその権利がある。凄い、と。それを否定しなかった、「そうではない」俺にはそんな権利無いけれど。
――でも、いくら何でもあの飲み方では酔いはしなくても体にとても悪い。
もしかして、今頃頭痛だか吐き気だかに襲われているのではないだろうか。
「・・・早く行こう」
途端に頭が冴え、急いでベットから出た。ハンガーのネクタイを手に取り、着崩れていたシャツを調える。別に休みだしネクタイを締める必要は無いのだが、何となくきちんとしたくて鏡を探す。いやカッコつけてる場合では無いんだけど、それに今更と言えば今更、昔の失敗だの何だの暴露しまくったので取り繕っても無駄なんだけど、彼を前にして身だしなみに気を使わないでいられる人など絶対居ないと思う。
部屋の隅に棚を見つけ、何かとりあえず自分が映る物を探した。家捜ししているようで気が引けるが背に腹は代えられない。
ざっと目をやった三段目の棚、俺は小さな鏡を見つけて手を伸ばした。
――そこで、ふと。
「それ」に気付いた。
「――あ、おはよう和樹君。よく眠れた?」
リビングへ行くと、そこは珈琲の芳ばしい香りが漂っていた。白いシンプルなシャツを羽織った彼がにこやかに笑い、手に持っていた雑誌らしきものをテーブルに置く。・・・日本語ではないので何の雑誌かは解らない。
「おはよーございます、ありがたくも良く寝ました。・・・あの、気分は?」
「気分?」
きょとんと瞬かれ、逆にこっちが首を傾げた。
「昨日、畑さん相当胃腸と肝臓に悪い飲み方してたじゃん。いくら酒に強くても、あれじゃ具合も悪くなると思うんだけど」
見た限り、顔色はいたって普通だ。てっきり死にかけてると思ったんだけど、本当に大丈夫なんだろうか。
何ともないのかと眉を顰めれば、「あぁ」とレンズごしの目が苦笑を浮かべた。
「何ともないよ。・・・昨日はつい、ね。大丈夫、一応薬は飲んでおいたし」
「薬?あ、そんならいいけど」
「早死に願望はまだ無いよ」
心配ありがとうと言いながら俺に椅子を勧め、彼は立ち上がるとキッチンに向かった。すっと伸びた背筋が綺麗で、部屋のストイックな雰囲気とよく合っている。
防大の制服がふと頭に浮かんだ。きっと良く似合っていたことだろう、ちょっと見たかった気がする。――ひょいとキッチンから彼が顔を出した。
「トーストなんだけど、良かったかな」
「――は?」
――何の話しだ?
きょとりと瞬くと、苦笑が返った。
「食事だよ。お腹すいたんじゃない?もう九時だよ時間」
「・・・え!」
指で示され、慌てて壁でリズムを刻む黒縁の時計を見上げた。確かに九時だ。
俺は平日は六時起きだが、休日でも七時には起きている。あんまり寝ても逆に疲れるってのが本音だが、しかし人の家だというのに思い切り寝過ごしてしまった。
・・・そういえば今日は布団を干さなければならなかった!
「いつの間にこんな、――すぐ帰ります!長々すみません」
「え」
「いつもは七時に絶対目ェ覚めんのに何でだろ、あああホントすみませんっ」
「ちょ、待った和樹く」
「次は俺が奢るから!いつでも声かけてください、ホント昨日はお世話かけ」
「―――和樹君」
椅子から離れようとした目の前、コンと皿が置かれた。
トーストとサラダ、ウインナーとハムエッグ。そして遅れて珈琲カップ。
それが、二つ。
・・・二人分?
声も無く目の前を見ると、彼の手がこそりとフレームを押し上げた。――できれば、と。
「帰る前に、食事の相手して行ってくれない?」
――もう作っちゃってるし。
呟くように言ったレンズごしの目は、困ったような笑みを滲ませた。
――思えば。
入った瞬間の部屋の中、穏やかさの中には期待、静けさの中には心残りがあった。
温かく香る食事は建前で、二つという数はきっと願望だ。
ふとテーブルの隅に追い遣られた、彼が持っていた英語雑誌に視線が落ちた。
――もしかして。
「・・・待ってたりした?」
俺が起きてくるのを。
ぽつりと問うと、ばつの悪そうな顔が苦笑を零した。どうやら返事を探しあぐねているようで、手が行き先に困って動いている。
・・・あぁ、申し訳ないけど――少し笑える。
―――何だよ。
何なんだこの人は。
狡い。
狡すぎる。
いつもはあれだけスマートなのに、どうしてこんな所で詰まるんだ。こういう時には不器用になるだなんて、ちょっと反則だろう――いや、絶対反則だ。
「――和樹君。何故笑う」
「・・・、ご、ごめっ・・・!」
恨めしげな声が言い、俺は益々口を押さえた。懸命に堪えても肩が震えているのは解るだろうし、声はしっかり笑っているのだから無駄な努力甚だしい。
彼は彼で対処に悩むらしく、眉尻を下げた顔で頭を掻いた。それが余計に笑いを誘い、俺はもはや此れまでと机に突っ伏した。言っちゃ悪いが、『オロオロしている』ようにしか見えない。――和樹君、と咎めるような憮然とした声が言った。
あぁ、もう。本当に。
――知っている。
気付いたのはさっきだけれど、本当は解っている。彼がとても不器用な人である事は。
彼がスマートになれるのは多分、他人を相手にする時のみで、物事が自分の事になると途端不器用な人になる。防大を中退した時も外語大学に入り直した時も貿易会社に就職したときも、きっと彼は人の何倍も悩んで、その上で己の答えを出したのだろう。前へ進むために。
そうでなければ、航空系力学や飛行操縦技術の本を未だ持っているはずが無い。
棚の下に埃かぶって置かれていたあの本は、随分と古びていたがパイロット免許に必要な書ばかりだった。きっと彼は、『過去』だからこそ捨てられなかったのだと思う。俺は貿易会社はあまり詳しく無いけど、出張が多いらしい彼の話にはあらゆる世界の空が出てくる。今立つ場所があるから、彼は空を見上げることが出来るのだ。逃げた、だなんてどんでもない。俺はそれを逃げだと思わない。別の道を選択し、それで今を生きているのだから逃げになんてならない。凄いのは彼だ。
「・・・っ、はー、あぁおかしかった・・・っ」
「そりゃ良かったねぇ」
臍を曲げた顔で、けれど諦めたような苦笑混じりに彼は溜息を付いた。それにまた笑いを誘われそうになったが、かろうじて注がれた珈琲を口にしてやり過ごす。
彼は俺が席に座ってフォークを手にすると、少し驚いたように目を開いた。けれど直ぐに彼も席に座り、自分のカップを手に取った。食べていくと気付いてくれたらしい。
「それじゃ、すみません。いただきます」
俺がそういうと、彼はどうぞと微笑んだ。
そして同じようにいただきますと口にし、レンズの縁をそっと押し上げながらフォークを手に持った。その顔はいつものスマートな表情に戻っていて、相変わらず綺麗で隙が無い。
けれど。
多分、彼は今、ちょっとだけ「照れ臭い」のだと思う。
何故なら、俺の予測が間違ってなければ――彼がレンズを押し上げるその仕草。
それはきっと、彼の照れ隠しなのだろうから。