3話
「あ、和樹君こっち」
会社帰りの駅南口、居酒屋「タツノオトシゴ」。
赤い暖簾をくぐると左側テーブル席で、完璧な顔がそう言ってにこやかに手を振っていた。
そのバランスのいい体には既にジャケットが無く、品のいいカラーシャツだけになってくつろいでいる。――しまった、と慌ててテーブルに走り寄った。
「スミマセン、遅くなりました!仕事がなかなか終わんなくて・・・っ」
「え いーよいーよ。謝らなくて」
けろりとそう言い、爽やかな笑顔で「今どこも忙しいもんねぇ」とメニューを取る。俺が席に着くのを見るや店員におしぼりを所望し、和紙作りのメニューを開いて見せた。
「――で。何飲む?とりあえず一杯目のジョッキは外せないよな。んで次はやっぱ焼酎か日本酒か・・・俺は芋が結構良さそうだと思うんだけどね」
至極楽しげに。
「・・・ほんっと畑さん、居酒屋似合あわねぇなぁ」
「・・・そんなしみじみと言わないでくれないか」
店員の持ってきたおしぼりを手にしながら、彼が苦笑混じりにそう言って肩を竦めた。いやだって、本当に欠片も似合わないのだ。
今更名乗るのもアレだが、俺の名前は上村和樹という。電車で助けて貰ってから一月と少し、最初に「お礼」と称して彼を飲みに誘ったのは俺だった。
経済的理由であまり贅沢できる立場になく、俺は駅前の居酒屋に彼を連れていく事にした。高級バーでカクテルだかワインだかを飲んでいる方が断然似合うだろう彼にはどうかと思ったが、値段の割に酒も料理もそう悪くはないし、雰囲気も気安いからそんなに嫌がりはしないはずという自信はあった。結果はやはり成功で、彼は最初こそ物珍しそうにしていたが、勧めた焼酎や日本酒に大層喜んでいた。お礼にはなったと見ていいだろうと思う。
が、予想外だったのはその後だ。
朝の電車でスリーピングビューティーだった彼は、起きて俺と話をするようになり、更にこうして居酒屋に誘うようになった。会社が会社なだけに俺は話す内容なんてたかがしれていると思っていたが、これがまたやたら話題が豊富でちっとも退屈する暇がない。彼の話しは会社だとか日本だとかに止まらず、全世界で地球規模の動向についてまで及ぶのだ。先日など世界最大の峡谷であるグランドキャニオンの成り立ちを話していたのに、気付けば地球誕生にまで遡っていてどうしようかと思った。そしてそれは、どうも彼の仕事内容が関係しているらしい。
貿易会社、ゲインズ・クレヴァス・カンパニー。
彼が勤めるこの会社は、略称をGKCと言い、アメリカに本部を置く外資系の会社だ。
取引範囲はアジア・アフリカ・ヨーロッパ・北アメリカ・南アメリカ・オセアニア――つまり六大州全部と幅広く、取り扱う商品とて食料品から軍事武器まで際限ない。その雑食と言うか悪食で世界ダントツの収益を誇り、押しも押されぬ"貿易王"の名を戴いているのだから恐ろしい。――創業は戦後間もなくで、アメリカ人のセオドア・ゲインズとライオネル・クレヴァスの二人で起業したのが始まりだとか。全世界(と言っても小国やらは除くみたいだが)にぽんぽん支店を置いているそうで、じゃあ結構テキトーなのかなと思ったらそれが間違い。各大陸に「大陸統括支部」を配置してサポート・監視に当たるという、徹底した運営方法を取っていた。何かちょっとでも不穏な動きをしたら即行調査が入るらしく、不正には相当厳しい会社体制をしている。そしてその大陸統括支部の調査係であり、各支部と本部への連絡報告、交渉を行うのが彼の仕事になるのだそうだ。
そしてどうしてそれで彼がエライこと博識になるのかと言えば、調査をする関連であらゆる物事を調べなければならないかららしい。仕事以外じゃ役に立たない知識と彼は言うが、ただ聞いているこちらとしては旅行している気分になるので面白い。彼の話を聞きたいから、こうして多少仕事が忙しくても大急ぎで片づけて来てしまうのだ。
とは言え、激務後の居酒屋は正直辛い。
「―――どうした?」
はっと思考から我に返ると、気遣うような目で彼が俺をのぞき込んでいた。それに驚いてついウワと仰け反り、ぐらりと椅子から落ちかけた体を彼の腕が軽く支える。
・・・有り難いが、手前から伸ばした手で支えるってあたりが凄い。これでも体重は普通にあるんだけど俺。
「大丈夫?」
「――あ、と、ちょっとボケっとしてて――」
「・・・和樹君、実は相当疲れてるんじゃない?」
心配そうに言われ、慌てて首を振った。
俺の仕事量より彼の仕事量の方が膨大なのだ。疲れが溜まっているのは確かだが、この程度で頷くのは彼に対して失礼だと思う。
「や、平気だって。畑さんに比べたら全然!」
「仕事の比較は無意味だよ。俺が聞いているのは疲労。――疲れてない?」
全然。
そう言いかけ、真っ直ぐな視線に口を噤む。
レンズごしの瞳は探るようでもなく疑うようでもなく、ただ真っ直ぐ。
言葉を飲み込んでしまった俺を見て、彼は静かに眉を寄せた。
「―――疲れてるだろう」
「・・・・・・・・・・・・少し」
小さい声で頷いた。
彼には似合わない居酒屋、似合わない日本酒、けれどこれだけは見た目通り、この人は「めちゃくちゃ鋭い」。そして、彼は傲りも欺瞞も無くただ「人間の本質的な事実」を見る。
「――済みません大将、今日は引き上げます」
厨房に向かって彼が言った。
えっと驚いて制止する間もなく、彼の手がメニューを閉じジャケットを手に取る。
「畑さ、」
「ウチ行こう」
「――は?」
ポカンと見上げる。
目を点にする俺を見下ろし、レンズの向こうで彼の瞳がにっこりと微笑んだ。
「場所変更、俺の家で飲もう。それならそのまま寝ちゃっても平気だし」
ね、と言われ、俺はそれに頷く以外の選択肢を持ち得なかった。
爽やかに笑い、しかしその顔は有無を言わせない。
彼の方程式では、「疲れた∴(ゆえに)帰る」ではなく、「疲れた∴(ゆえに)家で飲む」となるらしい。
さぁ早くと言う彼を見ながら、俺はこの人は本当に変わっていると思った。
けれどとりあえず、今現実として言えることがある。
俺は、一ヶ月前より「今の方が楽しい」ということだ。