2話
吐き気は酷くなっていた。
「鍵は・・・あぁ、ありがとう」
ドアの前、言いかけた彼に鍵を差し出した。
乗ったタクシーで案の定車酔いを果たし、俺の顔色は誰が見ても立派な病人の色彩へと変わっている。左手に俺と自身の鞄を持ち、そして右肩は自力で歩けない俺に貸して歩く彼に、本当はありがとうとかごめんなさいとか色々言いたかった。けれど何も言えなかったのは、口を開けば吐きそうで、俺に出来ることといえばただ頷くこと以外無かったのだ。
ドアががちゃりと開錠する小気味良い音、よいしょと俺を引きずる彼の声が玄関に落ちる。家の馴染んだ臭いを嗅ぐと、安心したのか唐突にぐらりと一瞬意識が暗転した。耳鳴りが至近距離で轟いて目が回る。
―――吐きたい。
近頃病気していなかったせいか、久々のこの体調不良が怖い。
気持ち悪さも不安と頭痛を受け、連動してさらに拡大しているように思う。込み上げる嘔吐感と耳鳴りが喚き立て、意識が朦朧として訳が解らなかった。
ぐらぐらする足下、不安と絶望と、訳の解らない焦燥でぎゅうと彼のシャツを握った。
「――吐きそう?」
吐きそう。
誤魔化すなんて考えつかず、ただ頷いた。もう彼がここにいなければとうに倒れ込んで吐いている。震える手が握るシャツは皺が寄り、頭のどこかが手を離せと囁く。シャツが皺になる。―――力を抜こうとした手、上から節ばった手が宥めるように触れた。
トイレに行こう、と低い声が言った。
「こういう時は吐いてしまった方が楽だから」
「・・・、」
声があまりに穏やかで、覚えのは安堵だった。
玄関からダイニングに伸びる通路右、靴を脱いでTOILET表記の扉を押し開ける。冷や汗だか脂汗だかを浮かせながら俺は半ば引きずられ、白い洋式便器前に下ろしてもらった。
口を開ける便器の姿を見た途端、急激にぐっと胃袋が痙攣した。――吐く。
もう、ホントに限界だ。
――― ぐ、ぅ
力の入らない体でも、人は吐く時くの字に折れ曲がる。便器にしがみ付いてげほげほと大きく咳き込み、胃袋内の逆流の辛さときつさに生理的な涙が滲んだ。脂汗が額を滑って涙なのか汗なのか、落ちる滴の正体がさっぱり分からない。
汗で冷えた体はとても硬く、―――俺の背をさする感触が、心底に気持ちよく、不思議だった。
「全部吐いてしまおう。大丈夫だから」
宥めるように緩く、優しく、手はゆっくりと背を撫でた。
手を強く握り締め、目を閉じる。顔以外は知らなかった人に迷惑かけたとかみっともないとか、そういった事は何故か考えなかった。ただ手の優しさが温かくて、涙の理由が本当に吐いているせいか解らなくなる。
彼の手は、俺が吐き終えるまでずっと背中をなで続けていた。
そして多分、途中から俺はそれに縋っていた。
背中を撫でてくれる、他人の手に。
「―――落ち着いた?」
一つ息を付くと、そう問われて緩く頷いた。
ぽつりと汗が落ち、涙と一緒に肌を滑る。
喉がすきま風のような音を出し、胃液で焼けた喉がひりひりとしていた。背中の手はそれでもまだ、優しくそこにあった。
「うがいした方がいいね。ちょっと待ってて」
立ち上がってざぁと水を流し、台所借りますと彼が出て行った。不思議だと思う。こんな時に誰かの手があるという状況は、自分に馴染みがない代物だ。
冷え切った体とぼんやりする頭でそれを考え、やっと当然の疑問を持った。
一人暮らしをして結構長い方だ。サイボーグではない為病気になって吐く事も時にはあった。けれどそれは常に一人で、だから体調が悪すぎると病院なんか当然行けないし、救急車を呼ぶのも嫌でただじっと回復を待つだけだった。
誰か居たらとかは考えたりしなかった。家族が自分一人になってしまった時に、無いものねだりはしないと決めたからだ。だから、余計にこの状況が不思議でならない。
「ごめん、コップ勝手に出したよ。――はい」
目の前に水の入ったグラスが差し出された。
一瞬目を瞬き、次いで視線を上げる。縁なしメガネの奥で彼が微笑んだ。
「・・・良かった、さっきよりは少し顔色が良いね」
安堵に笑う綺麗な顔。良く見ると左目のレンズの方が分厚い。
礼を言ってコップを受け取り、うがいをして再び水を流した。気分は確かに、すこし良くなっていた。
「・・・あの、――」
「薬はある?」
もう大丈夫ですと言いかけ、彼の言葉につい口を噤む。目を瞬いて彼の顔を見ると、穏やかな笑顔が向けられる。
「薬、無い?」
「・・・と、戸棚に」
「戸棚ね。食器棚の下かな」
―――無いと言ったら、この人は買ってくるつもりだったんじゃないだろうか。
ベットに腰を下ろすよう促され、ダイニング向こうの洋室に歩きながら思う。
ちょっと失礼しますよと戸棚を空ける彼を見て、呆然とした気分でジャケットを脱いだ。
――何でここまでしてくれるんだろう。
それに会社、行かなくていいんだろうか。
「とりあえず胃腸薬。今吐いたばかりだから他のは後で飲んだ方がいい」
「・・・え、あ、あの」
「あぁ水が要るね、ごめんごめん」
「あ、はい。――じゃ、なくて」
きょとんとした彼を見上げ、会社はいいんですかと申し訳ない気分で呟いた。
彼は俺に付き添ってしまったが為に電車から降りたのだ。腕時計は既に八時五十分を指している。会社がどこかは知らないが、今から行くとなれば完全に遅刻だ。
――ポンと手を叩く音。
「忘れてた」
けろりとした顔で呟き、呆気にとられた俺を気にせず彼はポケットから黒い携帯を取り出した。綺麗に艶を弾くそれを開け、操作をするとすぐに耳へ当てる。
「―――もしもし、外事部門の畑です。本部長居ます?」
ぽかんとして見上げていると、取り次いで貰っているのか数秒の沈黙が降りた。
暫く後、彼が再び口を開く。
「おはようございます、畑です。済みませんが先向かって貰えますか。少々私用で到着が遅れそうでして――え?もういらっしゃってる?」
多分雰囲気からして上役の人と話していたんだろうが、冷静だった顔は僅かに困ったようなものへ変わった。ちらりと俺を見下ろし、苦そうな色が覗く。
「思ったより早かったですね・・・とりあえず営業の森岡がロシア語いけますけど―――あー、・・・やっぱそうですか」
益々困惑の色が濃くなった。
何だと思うより早く、軽い吐き気が再び込み上げる。目を閉じてベットに上体を倒すと、彼の逡巡した気配が苦々しい溜息を増やした。
「解りました、すぐに向かいます。――では」
ぱたん、と携帯を閉じる音。
眩暈が酷い。申し訳ないことをしてしまったと罪悪感に襲われた。――どうしたの、と直ぐ傍で声が言った。
「まだ吐き気がある?トイレへは・・・」
「いってください」
「は?」
「会社。俺、大丈夫なんで」
すみません、と小さく言った。
タクシーに乗る時に断るべきだった。無い物ねだりはしないと言い聞かせていたのに、無意識に彼の親切心につけこんだのは俺だ。目を閉じたたまま唇を噛むと、彼は何か考えるかのように短い沈黙が降りた。
「・・・携帯は持ってるかな」
「、携帯?」
眩暈と頭痛に眉を顰め、ゆっくりと上体を起こす。それを寝てていいと制しながら、彼の手の平が上を向いて出された。携帯を貸せと言いたいのだろう。
特に考えもせずポケットから白い携帯を取り出し、彼の手に乗せた。眩暈に再び目を閉じると、ぽちぽちとボタンを押す音が響き、また手元に返される。
「――辛くなったら連絡してください。無くても一度、昼過ぎに電話します。寝ていたら仕方ないけど、気付いたら折り返してくれると安心する」
「・・・え」
思わず目を見開いた。――何でだ。
戻された携帯と彼とを見詰め、何でここまでするのだと無言で問いかける。
彼が苦笑し、肩を竦めた。
「深く考えないで。こんな時の一人の大変さは良く知ってるってだけ。俺も家族が居ないから」
「―――、」
「自分がして欲しかった事をしてるんだ。・・・自己満足だよ」
して欲しかったことを。
大した事じゃないと笑い、彼は床に落としていた鞄を持ち上げた。―――怪しい人間じゃ無いから安心して、と手帳を取り出し、びりりと一枚破ったものをテーブルに置く。
「思うんだけどね、人の縁も好意も利用してナンボでしょう。あるものは利用しなさい。――それじゃ、また」
微笑んで無理しないようにねと手を振り、茫然とする俺を残して彼は扉の向こうへ消えた。通路を歩く軋み音が響き、次いで玄関の開閉音が聞こえる。
――利用して、ナンボって。
ただ見送るしかなかった俺は、手元の携帯を見詰めた。
ぐらぐらする視界、けれど懸命に身を起こしてテーブルの紙切れを手に取る。メモ帳を破ったその紙には、綺麗な手書きで「身元確認用」と字が記され―――
別の意味で茫然とした。
<ゲインズ・クレヴァス貿易会社 外事調査部交渉係 畑 明良>
その名の付く会社は、多分世界一有名な貿易会社で間違いなかった。