さん
「悪かった!ほんっとーに悪かった!!」
「もーいいって…」
時間ギリギリに職場につくなりこれでもかってくらい下げられた吉住の頭を見下ろして、会社のロビーで俺はとりあえず溜め息をついた。こいつの性格を考えればまぁ、出社と同時に謝ってくるとは思っていたが、朝からこの体育会系のノリは疲れる。何せ今俺は大変疲れているのだ。
「だからいいって別に。てか昨日からお前俺に謝ってばっかじゃね?」
「うんごめん!マジごめん!」
「いいっつってんだよだから」
眠さで眉間に寄った皺をどうにかほぐし、俺は苦笑を浮かべた。本当に、吉住の一件は俺の中でもうなんでもないことになっていた。俺の部屋に来てくれた彼の「上書き」が、予想を遥かに超えて尾を引いてしまったから。
―――そう、もう本当にどうしようかと思った。
明良さんが帰った後どうにか寝ようとはしたが、脳内でエンドレスに再生される彼の感触とか体温とか熱のこもった目とかがぐるぐると睡魔を遠ざけ、その代わりに下半身に熱を溜め込もうとするからその度に俺は「だー!」とか叫んで枕を殴りつけたり顔を洗ってみたりと大変だったのだ。いっそ開き直って一発抜いてしまうかとも思ったが、それをやってしまったら翌朝電車がまた一緒になるだろう彼の顔を見られなくなりそうで全力で回避した。…まぁどうせ寝坊していつもの電車には間に合わなかったのでいらん心配だったわけだが。
欠伸をかみ殺して吉住、と声をかけるとそろりと顔が上がり、その頬が軽く腫れているのを見て笑みが漏れる。
「本当に気にしてないからいいんだよ。っていうかさ、そもそもお前覚えてんの?」
「……いやそれが、ごめん、全く…。朝起きたら部屋の中すげーアルコール臭だわ頭は痛いわ頬は腫れてるわ。けど俺深酒すると何か人格変わるらしいとは聞いてたから」
「あー、そうみたいだな…」
ふ、と細めた目で遠くを見ると、吉住が若干顔を青ざめて俺を見た。爽やか系イケメンの情けない顔というのも中々笑えるが、まぁ本人が覚えてない事をねちねちいじめても仕方ない。酒の失敗は俺もまぁ、社会人やってりゃ一度や二度あるもんだ。
「う、上村…俺はいったい、」
「…ぶはっ!ちょ、なんつー顔してんだお前。なにも無かったって。その頬もお前が転んでぶつけただけだし、気にすんな」
「え、マジで!?…良かった~…!」
「どういう想像してたんだよ。――ま、でももう酒の量は考えろよ。さすがにそのガタイの男が酒乱は怖いだろ」
笑い混じりにそう言えば、吉住がそうするわ、と神妙な顔で頷いた。
「あー、これで上村にもうてめー友達じゃねぇとか言われたらどうしようかと思ったよ。ほんっとごめんな、サンキュー!」
「おー」
ほいと拳を挙げるとそこにごつんと拳が当てられ、心配が消えた爽やかな笑顔でじゃーなと吉住が去っていった。うん、今日も朝からムダに爽やかで腹の立つイケメン振りだ。もうちょっと引っ張ってやればよかったかなと俺が黒い事を考えていると、同じ部署の山崎が階段から缶コーヒー片手にロビーへ降りてきた。
「あ、山崎。おはよう」
「おーおはよう、ってか上村来てたのか。何やってんだ、もう出社時間過ぎてるぜ」
「―――あっ」
階段脇の壁時計を指差され、それを見て俺は顔色を変えた。
そういえば今日俺は一本遅い電車で来ていたのだ。吉住に捕まっている間に僅かな猶予は消え去り、時計は既に出社時刻を五分過ぎた数字を示していた。
携帯に着信が入ったのは、昼休みに入ってすぐの事だった。昼飯をどうするかなと立ち上がったところで振動する胸ポケットに気付き、一度のんびり肩を回して携帯を出すと、表示画面に畑明良の名前が表示されていた。慌てて通話ボタンを押し、応答する。
「―――はっ、はい!」
『和樹君こんにちは。ごめん、もしかしてまだ仕事中だった?』
慌てたせいでスムーズに返事できず、急いでいるように受け取られたらしい。少し心配そうな声に、俺は否定のため首を振って、それが電話だから見えないと気付き深呼吸した。
「や、違うちゃんと昼休み。ごめん明良さん、―――あの、電話とか珍しいけど、どうしたの?」
『ん、今朝和樹君電車に居なかったから。大丈夫かなって』
「あ…」
穏やかな声にそう言われ、何故だか俺はほわんとした。ちょっと頬に熱が灯ったような気がして、ぱたぱたと手で顔を仰ぐ。室内から昼食のために最後の一人が出て行くのが見えて少しほっとし、それでも微妙に気恥ずかしくて顔を誰もいない窓側に向けた。
『和樹君?おーい』
「だ、大丈夫大丈夫!今朝例の同僚にも謝られたし、まぁやっぱり全然覚えてなかったけど、おかげでいつも通りに挨拶できたし。あ、今日電車に居なかったのはちょっと眠れなくて寝坊したからだから!だから全然、明良さんが心配することじゃないし!」
『……もしかしてそれ、俺のせい?』
低い声が囁くようにそっと響き、俺はその一瞬に昨夜の彼を思い出した。真っ赤になった顔でぱくぱくと口を開閉して、あの、ちが、とかもごもごと訳の分からない言葉が飛び出す。
『あー…その、ごめんね?』
「い―――イエ!全然!」
僅かに気恥ずかしそうに謝られて、俺は全身が羞恥でむずかゆくなり手足をばたつかせたくなった。どっからどう見ても不審人物なので我慢したが、もうさ、なんだろうこの恥ずかしさ。付き合いたての中学生みたいな。
―――って何だ付き合いたてって!
「あああ明良さんっ、大丈夫だから!俺は全然!で、あの用事はそれだけかなっ」
『あ、いや。実は今和樹君の会社の近くにいてね?お昼一緒にどうかなーって』
「え」
結局ばたつかせた腕の動きをぴたりと止め、俺は職場の壁時計を見た。時間はまだ昼に入ったばかりで沢山ある。今からいけば十分ゆっくり話せるし、何より顔が見られる。休日はともかく平日に彼と昼食をとれるなんて、大賛成どころかこっちからお願いしたいくらいの事だ。
なのに。
―――何で今日に限って!
社員の勤務と予定を記したホワイトボードを見て内心四つん這いで床を殴り付けながら、俺はがっくりと項垂れた。
「ごめん明良さん…俺今日昼の電話番だから出られない…」
『あららそっか。いや気にしないで。まぁちょっと顔見れたらいいなー、くらいのつもりだったし』
電話番なら仕方ないねーと笑う彼の声を聞きながら、けれど妙な寂しさに襲われたのは俺だった。いや、いっそ焦燥だったのかもしれない。
『じゃあまた機会があれば誘うよ。休憩中にごめんね』
「あ――あの!」
あっさりと切られそうになったそれに、俺は勢いのまま声を上げた。
「夜に明良さんち寄ってもいいですか!」
『え、夜?今日?』
「うん!あの、俺、」
『うん?』
「明良さんに会いたい」
『―――――』
途端にぷつりと黙ってしまった携帯に俺は焦り、しまったと思ったが既に後の祭り。勢いとはいえ、こんな素直すぎる内心をぽんと出してしまうなんて何をやってるんだ。
やばい困らせた、と気温とは関係のない汗がどっと溢れた俺に、彼の声があの、と小さく言った。
『今日の夜って、仕事終えて、だよね』
「え、あ。は、はいっ」
『とすると、20時くらい』
「う?あ、うん」
『………昨日の夜の事は覚えてるよね?』
うん、と頷きかけて、俺はやっと彼の言わんとすることに気づいた。
―――今ね、俺結構ぎりぎりなの。
『…その辺の事を踏まえた上で、それでもいいと言うならいらっしゃい。ただ言っておくけど、そういう対象として見ている相手に会いたいだとか言われて、流石に俺も紳士的でいられるかは保証できないよ』
「―――っ」
微妙に笑ってない声でそんな事を言い、全身真っ赤で硬直した俺を見透かしたように苦笑を漏らすと、彼はそれじゃあ仕事頑張ってと残し通話を切った。けれど俺の硬直は同僚達が昼休憩から戻ってくるまで解けず、食べ損ねた昼食に加えその後の仕事ぶりは目も当てられない挙動不審さだった。ミスが無かったのがむしろ奇跡だったと上司が感心していた。