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 彼からの電話がなければ、もしかしてこのまま真っ白の頭で明日を迎えていたかもしれない。


 リビング前で座り込んだままぼんやり考えていたら、アパートの呼び鈴が鳴った。

彼が来たのだろうと思うが、体は何故か力が入らず、立つこともままならない。それでもどうにか立とうと壁に手をやり身を起こすと、玄関がそっと隙間を作った。そういえば鍵を閉め忘れていた気もする。

 隙間から見慣れたノンフレームの眼鏡をかけた綺麗な顔がのぞき、俺は口をあけた。―――明良さん、と。でも声は音にはならなかった。


「…和樹君」


 俺を見た彼の第一声がそれで、彼は一瞬目を見開き、僅かに顔を強張らせた。そして靴を脱ぎ入ると、俺と少し距離を取り前にしゃがんでそっと尋ねる。


「どこか、怪我とかは?痛いところはない?」

「あ―――ぁ、な…」

「うん、無理に動かなくていいから。触れても大丈夫?」


 大丈夫、とやはり声にならず、さっきの電話では平気だったのにと焦る俺を、そっと暖かい手が撫でた。


「大丈夫。大丈夫だから」


 いつかのように、優しく宥めるように触れる節ばった手。いつの間にか全身がちがちに固まっていた力が抜け、背をさする手に目を閉じた。どうにか震えが止まり、俺は祈るような気持ちで手を伸ばす。


「うん、大丈夫だよ。怖くない。もう何もないから」


 そうっと抱きしめてくれた体から、覚えの有るコロンと優しい鼓動、暖かい体温が伝わった。流していたことも忘れていた涙がようやっと引っ込み、ふっと吐息が落ちた。


「…ぁき、ら、さん」

「うん」

「ありがと、う」

「いいえ」


 彼の背中に回した腕にぎゅっと力を込め、縋りつくように胸へ顔を埋めた。俺の背中をさする手はただただ優しく、ほっとして少し口がほころぶ。匂いも感触も、全部気持ちが良かった。吉住のものとは全く違う暖かく離れがたい感覚に、無意識に擦り寄って…ふと我に返った。


「ん―――落ち着いた?」

「…っお、わ、はいっ」


 耳のそばで優しく問われて、思考が戻った俺はぎょっとした。どさくさに紛れて物凄い密着している、っていうか、これは抱きついている!


「う、わわ、ごめん!なさい!ちょ、ちょっと気が動転してて―――うわっ」

「おっと。はいお帰り」


 慌てて離れようと身を剥がし、途端に膝からがくんと力が抜けてまた抱き止められた。ぎゅ、と包まれる体に心臓が跳ねて、思わず彼のシャツを掴む。


「急に動こうとするからだよ。誰も見てないんだから、ほら君は厚意に甘えて」

「え、あ、…っ」

「ん。そして俺は役得、と」


 くすくすと笑いながらの、今度は宥めるためではない彼の意思でのそれに、落ち着いていた気持ちが違う意味でまた乱れ出した。役得って、役得って、と声にせず内心で騒ぐ。…絶対、今の俺は顔が赤一色だ。


「和樹君」

「あ、な、何?」

「ん、取り敢えず落ち着いたようだし、まずは着替えようか。あとシャワーも浴びておいで。スッキリするよ」


 そうっと背を撫でながら言われ、浮わついていた気持ちが軽く萎んだ。吉住の手を思い出してしまい、俺は思わず彼のシャツを握り締める。―――そこに手のひらが重ねられた。


「ここに居るから。ね。大丈夫」

「…うん」

「よし、ほら行ってらっしゃい」

 体を解放されて見上げたら、彼は優しい笑みを浮かべ、ぽん、と俺の背を押した。離れた彼の温もりが寂しく感じてしまうのは、いつもこんな風に彼と思いがけず接触した時思う事だ。



 畑明良という名の彼は、半年前に俺が通勤電車で酔ったのを介抱してくれた事がきっかけで知り合った、位置づけとしては多分―――俺の友人、だと思う。

 彼という人を説明すると、高い身長に真っ黒な艶の有る髪、目鼻立ちがはっきりした顔にはシンプルなノンフレーム眼鏡を装備するナチュラル色男で、世界的に有名な貿易会社に勤める性格穏やかな三十七歳(にはとても見えないが)の独身男―――結婚相手を探す女性には信じられないくらい優良物件過ぎる男だと言える。事実、俺と知り合う半年前までは同じ通勤電車内で、いつも女性達の視線を一身に集めていた。まぁでも当の本人がスリーピングビューティーと化していたので何のロマンスも芽生えなかった訳だけど。

 いや、本当にいつ見ても寝てたのだ。彼が起きてる姿って話すようになるまで俺はほとんど見なかった。

 そんなスリーピングビューティーは、俺が介抱してくれたお礼にと居酒屋でご馳走してから、会社までの四十五分間を起きて俺と話すようになった。最初こそハイクラスな彼に気後れしていたが、毎日会話して週末に時間が合えば一緒に飲んだりしているうちにすっかり打ち解け、家が電車一駅の距離という事も手伝って会う事に躊躇いはなくなった。その後俺と彼の過去にトラウマ的な共通点がある事が分かりちょっとこじれたが、まぁ何というか、雨降って地かたまるというか。…そんな感じで、それ以降もっと仲良くなった。と、思う。

 ―――いや、・・・仲良くなったのは間違いないんだけど、その。


 若干、仲良くなる方向が変わりつつあるような、気が……しないでもない。



 俺が風呂場からそろりと出てくると、ゆるく湯気がのぼるカップを手に絨毯に座っていた彼が顔を上げた。その涼やかな顔には今は眼鏡が無く、色素の薄い瞳が直に俺を見て微笑む。


「うん、血色良くなったね。さっぱりした?」

「え?あ、うん。…その、ほんとゴメン。こんな遅くにうちまで来させて」

「俺が勝手に来たんだよ。どうして和樹君が謝るの。―――ああほら、髪拭いて」


 風邪引くでしょう、と言って彼の向かいに腰を下ろした俺に手を伸ばし、肩にかけていたタオルで彼が俺の頭を拭き始めた。その優しい手つきと縮まった距離に鼓動が跳ね、俺は慌てて自分でできるから、と言って距離をとろうとしたが、それは彼により阻まれた。


「いいから、させて。…ね?」


 ふいに間近に寄った顔、それが俺の耳元で低く囁き、硬直して動きを止めるより他俺には無い。ぴたりと動きを止めて俯いた俺に、ふっ、とどこか嬉しそうな笑み混じりの吐息が落ちた。…あぁもう、最近本当に全然、逆らえない気がする。

 俺は諦めだか照れ隠しだか自分でも区別がつかない思いで目を閉じ、暫く彼の手に身を任せ、そしてようやく口を開いた。


「―――たいした事じゃないんだけど」

 ぴく、と一瞬彼の肩が揺れたのが見え、それに何故だかむず痒い気持ちを覚えながら続きを話す。

「同僚の家で、酒飲んでて。そいつとは結構話したことはあったんだけど、飲んだのは初めてだったんだ。だから、その…そいつが酔っ払うとどうなるか全然知らなかったんだけどさ」

「…うん」

「普段は普通にすげーいい奴なんだよ。でも、なんつーか…あんまりいい酒癖してなかったみたいでさ。頭がゆらゆらしてたから、寝かせてやろうと思って肩に手をおいたら―――なんか、急に押し倒されて…目の焦点合ってないし言葉も通じないし、び、びっくりして」

「うん、それで」

 一瞬蘇った感触にぞっと鳥肌を立てると、頭を拭いていたタオルが取られ、代わりに暖かい彼の両手が頬に触れた。その手に促されるように顔を上げると、俺が思った以上に近くに彼の綺麗な顔があって、俺は次の所作を忘れた。


 ―――が、次に彼が言った言葉で俺の頭は素面に戻った。


「それで、どこまでされたの。警察に行くにしても事実を知っておかないと。服を脱がされたのは上だけ?キスは?」

「―――な、なななっないないないない!!脱がされても無い!ちょっと耳と上半身舐められてびびって殴りつけて逃げた!!」


 大真面目に、どこか剣呑な目でそんなとんでもない事を言われて俺は目一杯首を振った。そして頬に置かれていた彼の両手をがっしと握り、立っていた鳥肌も忘れて訴える。

「吉住は酔っ払って多分俺を彼女あたりと勘違いしてただけだし!っていうか多分記憶も残ってねーし俺も忘れるっ忘れます!だから明良さんも忘れて!心配かけてすいません!」

 しっかり目を合わせてそう捲くし立てた俺に、彼は鋭くなっていた両目をきょとんとさせた。そして、まるで尖っていた氷柱が溶けて丸くなったように顔を緩め、ほう、と小さく溜め息を落とす。

 それがあまりに安堵していて、どうやら状況を派手に考えていたらしい彼に申し訳ない気持ちが立った。


「そっか、そこまではされてないか」

「うん大丈夫、ごめん、俺大袈裟で――…」

「いや」


 微笑む彼は俺が握っていた手をそっと解き、それを逆に自分の手に包むと首を振った。


「それが正しい反応だよ。普通、恋人でもない相手にそういう意味合いで触られるのは嫌でしょう。それがとりわけ、同性だったりしたら尚の事―――あ、ごめん」


 そう優しく言いながら、ふと握っていた俺の手を見て離そうとした彼に、俺は内心でひどく焦った。

彼の言うとおり、吉住は嫌だった。あいつ自身を嫌いなわけではないけど、別に触れたいなんて思ったことも無いし例え冗談で触れられても殴る。でも。

 俺は離れて行こうとした彼の手を、衝動のままぱっと握った。


「あ、明良さんは嫌じゃないから、いい!」


 握られた手に目を丸くする彼にそう言い切って、言い切ってから思う。

 ―――何かこれじゃ、まるで。


「あ、そっその、いいい今のは!」

「……いい、んだ?」

「え?………あ…えっと、…うん」


 取り下げようとした言葉を咄嗟に誤魔化せなかったのは、じっと、俺を見る二つの瞳がなぜか、とても熱い気がして。


「…あー…それは、ありがとう」


 そう言って目を泳がせた彼の頬が、うっすら朱を刷いたように染まった。

 その珍しい反応に俺の頬まで熱くなり、いえ、とか何とか言って、俺は俯いて未だ握ったままの彼の手をどうしたものかと悩んだ。ここで離すのも逆におかしいけど、握り続けるのもどうなんだ。


「…あの、和樹君」

「っ、ハイ!」

「いや、そんな緊張しないで」


 名を呼ばれて思わずぴん、と姿勢を正すと、彼が困ったように笑った。冷静な彼に一人で焦っている自分が馬鹿に思え、軽く苦笑して彼の手を離す。

 ―――と、その手が俺の肩に伸び、何故だかぐいと引っ張られた。


「あき―――…っ!」


 ふいに。

 ゼロ距離で香る彼のコロン。

 全身で感じる自分のではない体温と、耳にかかった熱い吐息。

 それがリアルに、どうにも―――甘くて。

 驚いて声を失い、でも心拍数は爆発的に上がって、多分全身真っ赤じゃないかと思う俺の耳に、低い声が小さく落ちる。


「ごめん。上書き、したい」

「え」

「いい?」

「え、―――は、い?」


 正直なところ熱に浮きまくった俺には彼の言う上書きの意味が分からなくて、ただ、促されるように頷いた。

 でもその瞬間、耳朶に触れた感触に意味を悟り、俺の脳はショートした。


「っ!!―――、…ひ、ぁっ」


 濡れた音と感触が直接、耳に這って届いていた。

 自分でもおかしいくらい体が跳ね、目がちかちかしそうな程腰や背中に電流が走る。…これはそう、最近まったくご無沙汰な、いわゆる、


 快感。


 ・・・ぬる。


「―――ちょ、ぁき、―――あっ…!―――っ」


 舐められる音。


 でもそこに嫌悪感なんて一切無くて、俺は逆に、それがやばいと思った。口を開けば漏れる声とぞくぞくする体に俺自身がビビり、加えて力の一切が入らない。やばい。やばいやばいやばい。


「―――――んっ!」


 はむ、と最後に甘噛みされ、そこで漸く俺の耳は解放された。

ぐったりと力が抜けた俺は頭を彼の肩に預け、情けなくも反応しかけている下半身に物凄い羞恥を覚える。逃げたい、恥ずかしい、でも体が動かない…!

 ふ、と息を吐く気配に視線を上げると、密着していた体をぱっと離され、びっくりするくらい熱っぽい瞳と目が合った。でもその顔は、困り果てたものを浮かべている。


「あ…明良、さん?」

「和樹君、…相当敏感だねぇ」

「――――え。あ、いや、」

「うん。耳、弱いんだね?」

「…………」

 無言で視線を逸らす俺に、彼の小さな溜め息が落ちた。これはきつい、という彼の呟きがどういう意味なのか、そこはあえて考えない事にする。


「さて。それじゃ俺はそろそろ帰ろうかな。和樹君も落ち着いたようだし、大丈夫だね?」

「え?」


 ふと、そう言って彼が俺の両肩から手を離し、膝を立てた。俺は驚いて、立ち上がろうとする彼の服を咄嗟に掴む。


「そんな。今から帰らせるとか悪いし、時間も遅いし泊まっていけば―――」

「…、和樹っ」


 微妙に焦りを含んだ声で言葉を遮られ、そして俺を見下ろした顔は、困惑と焦りと、とにかくまぁ余裕がなくて驚いた。

 目を丸くする俺に、彼が大きな溜め息を一つ。


「…今ね、俺結構ぎりぎりなの。頼むから…このタイミングでそういう事を、言うな」


 そう言って困ったように笑い、俺の頬を一撫ですると彼は部屋を後にした。

 おやすみ、と最後に聞こえたような気もするが、何かその、俺も呆然としていたので正直本当に言ったかどうかわからない。


(――――どうしよう)


 床にべちゃりと張り付いて、俺は呻いた。どうしよう。

 彼と俺は、きっと、少し歳の離れた友人で、仲は良いけど、それだけで。

 でも。

(そういえば、ちょっと前に電車で、寝不足のときにどさくさで)

 好きと。言った。

 でもそれだけ。…それだけ?

 名前を苗字から名前で呼ぶようになったのは、そういえば。


 耳を押さえて床に転がる俺は、きっと、間違いなく茹蛸状態だと思う。思い出すのはさっきの彼の行為だけで、吉住の事なんて一切全く、消えていた。綺麗に上書きされていた。

 ちらりと見やった時計は、既に深夜の二時を過ぎている。


「―――どうしよう」


 到底寝られそうも無い現状に呟き、俺は彼との仲良しの方向が、友情とは別方面に繋がるのを感じていた。





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