いち
『今大丈夫だった?』
良く確認もせず通話をオンにした携帯は、低い深みのある声でそれを言った。
俺はたった今入ったばかりの自宅玄関、開け放した背後から漏れる月明かりを頼りに、部屋の電気のスイッチ上へ伸ばした右手をそのまま固めた。聞き覚えの有る、大好きな声。腕からぶらさがる鞄がぶらりと揺れ、静かな部屋に響く。
ばたんと背後で玄関のドアが閉まる音がして、部屋は真っ暗になった。同時に沈黙のカーテンを下ろしたアパートでゆらゆらしていた目を瞬き、混乱とショックでぼんやりした脳味噌をフル回転させる。―――この、声の持ち主は、えっと。
『和樹君ー?』
どこかのんびりとした口調で問いかけられ、あぁ、とぎゅうぎゅうになっていた俺の脳は漸く声主の正体を引きずり出した。同時に余裕という必要不可欠な休憩所を失っていた脳味噌が声に包み込まれたようにほんわりと温かくほぐれる。一緒に緩みそうになった涙腺を根性で締め、不思議そうに再度名を呼ぶ声に慌てて応えを返した。
「あ…きらさん、か。ごめん、一瞬誰かわかんなくて。ぼーっとしてた」
『え?もしかして俺の名前表示されなかった?非通知解除し損ねてたかなぁ』
「あ、いやあはは。ゴメン違くて」
見えないと解っているが、慌てて首を振った。この畑明良という彼は、びっくりするくらい人の機微に聡い。俺は強張っていた体をどうにか動かし、できるだけ明るい声で笑って見せた。
「着信表示確認しなかったんだ。急いでたからつい…明良さんに問題があるわけじゃねーよ」
『あ、なんだ』
溜息の落ちる音が聞こえ、声主が肩を竦める姿が目に浮かんだ。それが妙に暖かみがあって、がちごちに強張っていた肩からふっと力が抜ける。少し落ち着いた思考で鞄を見ると、何故だか小刻みに揺れていた。…いや、これはたぶん、揺れているのは鞄でなくて…
―――あぁ、相当だな、これ。
内心でひとりごち、俺は右手の下にある電気のスイッチをオンにした。やっと蛍光灯が小さく弾ける音を立てて部屋が明るくなった。タクシーで帰った目は薄闇に慣れ、煌々と落ちる光に目を眇めながら靴を脱ぐ。
足を乗せた廊下は、家主である俺の帰宅を知らせるようにぎしりと大きな声を上げた。
『あ、今帰ってきたところだったんだねぇ。ごめん、タイミング悪かった?』
「んーん、いいんだよ明良さんはンなコト気にしなくて」
『いや、しますよ』
「いいのに」
溜め息混じりにあのねぇと言われ、けらけら笑う。すると、かけなおそうかと問われた。
『帰ったばかりならまだやることあるだろ?それがひと段落してからメールくれればまたかけるよ。別にこれといった用事があるわけじゃなくて、声聞きたいなと思っただけだし』
「―――、ッた」
心地いい声が最後に言ったさりげない一言に、俺は思わずリビングのドアを開け損ねて鼻から突っ込んだ。がつんという派手な音と痛みにその場へしゃがみ込み、堪え切れなかった声がううう、と漏れた。電話の向こうで笑みを漏らす声が聞こえる。
「~~~あ、明良さん!笑ってるだろ!」
『えー、笑ってないよ』
とか言いながら、楽しげに震える声に絶対嘘だと確信する。恥ずかしさも手伝って、嘘をつけと叫ぶと嘘じゃないと返された。
『楽しんでるだけでーす』
「なっ――なお悪い!!」
『まぁまぁ、いいじゃない。…ねぇ和樹君』
「何っ!」
ふ、と笑うのをやめた朗らかな声が、ふいに音を低くした。
『何があった?』
低くはっきりした問いは、瞬時に硬直し、声を失った俺を逃がさないとでも言う様に響いた。
『隠したいみたいだから流そうと思ったんだけど、ごめん、もう無理。誤魔化されてあげられない。―――言って』
「………、」
『和樹』
「――――ぅ…っ」
真摯な声に呼ばれた名前が鼓膜を打って、その瞬間、締めていた俺の涙腺は一気に決壊した。ぼろぼろと流れ出した涙に声を堪えきれず、うずくまって口を押さえたが間に合わなかった。
和樹、と名を呼ばれる。
『今からそっち行く。すぐに着くから、待ってなさい。いいね』
「、…ぃ」
こぼれた嗚咽で返事もままならない俺に、いい子だ、と優しく言って通話は切れた。俺はリビングの扉前で座り込んだまま、携帯を握り締めて立てた膝に顔を埋めた。―――ボタンがちぎれ飛んでだらしなく開いたままのシャツが、あまりに寒くて悔しかった。
* * *
春は短い。
仕事を終え外灯が照らす暗い駅への道を歩きながら、俺はざわざわと揺れる桜の木を見上げた。
揺れ動く枝葉はもはや春とは到底いえない新緑の盛りだ。あれほど咲き誇っていた壮大な薄紅色は姿を消し、桜の木は明らかに夏を迎える準備をしている。木の芽綻ぶ春一番、花起こしの春二番、花散らしの春三番、――学生の頃、国語の教師がそんな事を言っていたけど、聞いた話によると立春の頃に吹く南風はその存在を七番まで持っているのだとか。
――もう七番も通りすぎてるだろうなー。
すっかり緑の姿にそんなことを思う道すがら、ぴうと吹き抜けた風がトレンチコートの裾を舞い上げ駆け抜けていった。その痕跡を追いかけて視線を流し、振り返った背後に人影を見つけ―――俺はすぐさま視線を逸らすと歩く足を早めた。同時に人影が慌てたように追いかけてくる。
「―――ちょ、おい!上村!待ーてーよー!今目ェ合っただろ!逃げんな!」
「るっせぇな!合ってない気のせいだ!俺はお前なんか見てない!」
「嘘付けー!俺見て逃げたの解ったぞ!」
ずだだだ、と駆けてきた相手からは悔しい事にすぐに追いつかれ、逃げ遅れた俺は腕を掴まれて停止を余儀なくされた。また逃げる事を警戒してか、囲うように回り込みしっかり腕を握る相手、同じ会社の同僚である吉住真治の一回り大きな体にむっとしつつ、俺は憮然とした顔で溜め息を落とす。
「・・・何だよ吉住、俺疲れたから早く帰りたいんだけど」
「まぁそう言うなよ、ちょっと酒飲むくらいいいだろ?なんだかんだ職場じゃ話してるけど、俺お前と飲んだこと一度もないし」
苦笑と共にそんな事を言われ、俺は目の前の男の微かな寂しそうな目にちょっと己の態度を反省した。転職での中途採用組である吉住と新卒採用の俺は入社こそ別々だったが、高校ではお互いクラスメイトだった因縁がある。
「・・・飲むだけだな?」
「おう」
「仕事の余計な話はするなよ?どう言われようが俺はもう工場には戻らないからな」
「わぁかってるよ。っていうか、あの時は悪かったと思ってるんだ―――主任から聞いた。事情も知らず無神経な事言って本当にごめん。悪かった」
そう言ってぐっと下げられた頭に、ばつが悪い思いで口を曲げた。吉住のこういう爽やかに素直な所が会社で可愛がられる所以だろうと思う。高校の頃もこの調子で、顔が悪くなかった事もあり吉住の周りはいつも人が集まっていた。素直な爽やか系イケメンって何かむかつくが、どうにも憎めない性格のこの男はやっぱり無視できない。
人付き合いがあまり得意でない俺は軽く嫉妬しつつ、こちらを伺う整った顔に「別にいいよ」と首を振った。
「ほら、さっさと行くぞ。いつまでそうしてんだ、腕離してくんねーと動けない。酒飲むんだろ?」
「―――じゃあ!許してくれるんだな!?」
「許すも何も、元から怒っちゃいねぇよ」
苦笑して言えば、ほっとした顔で吉住が微笑み手を離した。自由になった手を引き寄せて踵を返すと、隣に吉住が並ぶ。
「んで?吉住はどっか行きたい店あるのか?無いなら俺の知ってるとこ行くけど」
「あ、いや。店というかさ、まぁ上村が嫌でなければなんだけど」
さっき通った道を引き返しながら、こちらを見下ろす吉住が言った。
「俺んちで飲まねぇ?うち、この近所なんだ」
「―――ふぅん?いいぜ」
それに俺は何も考えず頷いた。
でもそれを聞いて嬉しそうに笑う吉住が、とんでもない酒癖をしていただなんてその時の俺は知る由も無かったのだ。
「―――え?」
吉住の家で飲み始めて三時間が経過した頃、俺は唐突に反転した視界に呆然とした。
ゆらり、と目の前で俺を押し倒し圧し掛かっている吉住が完全に据わった目で俺を見下ろし、アルコールの匂いをいっぱいにさせながら顔を近づけてくる。いつもはきっちり上げられている明るく染められた茶色い前髪がさらりと落ち、そういう事を致す時によくある、特有の艶を滲ませた吐息が頬にかかった。―――ぞわ、と全身の毛が逆立った。
「ちょ、―――ま、待て吉住!お、おおお、おまっ、お前何をしてる!?」
「…あぁ?」
掠れた声が耳のすぐ側に落ち、同時に俺の緩んだネクタイを弄っていた手がシャツ越しに胸をまさぐった。ゆるゆるといやに生々しく動くそれに、こみ上げた悲鳴を根性で飲み込む。
(気、持ち、悪い…っ!)
何でこんな事に、と思わないでもないが、それよりも逃げるのが先だと俺は吉住に捕まえられている腕に力を込めた。が、振り払いたくとも酔っ払っている癖にびくともしない。目の焦点は合ってないのに、俺の両手を頭上でがっちり捕らえている手は関節を上手く押さえているのだ。
「お、俺はお前の同僚で!元クラスメイトの上村だ!男だぞ、良く見ろ!胸もないし下もついてる!」
「あぁ―――うん」
「聞いてないだろ!?こら吉ず…ぎゃあ!?」
ぴちゃ、と濡れた音を出して吉住の舌が耳に侵入した。俺は悲鳴と鳥肌が飛び出し、嫌悪の意味でぞくりとした。正直に言って俺は耳が弱い。でも今現在の状況は気持ち悪さしか無い。加えて胸をまさぐっていた手がシャツのボタンにかかったと分かり、生理的な拒否反応で俺はめちゃくちゃに暴れた。
「や…めろっ!吉住!目ェ覚ませ!離せ!離せ!!」
「んむ、ぬ…」
「あっ…!て、てめぇ舐めるな!やめ、嫌だいやだいやだって!」
「…ぁー、もうめんどうだ」
「な…―――!!!」
ぼそりと耳に聞こえた声に反応する間もなく、急に手が解放された。でもそれを確認するより早く、俺のシャツが勢い良く左右に引っ張られた。びっと何かが千切れるような音が聞こえ、フローリングの床にかつんかつんと硬いものが落ちる音がする。
声が出なかった。力任せに開かれたシャツの中、ひやりとした空気が胸に触れ、呆然とする俺を他所にぬるぬるしたものが肌を這った。それが右の乳首で止まると強く吸い付き、びりっと何かが身体を走って我に返った。はっと戻った自我を感じた時、吉住の手が俺の股間に触れた。
―――ごっ。
「ぐぁっ」
考えるより早く動いた俺の手が拳を作り、気付けば吉住が白目を剥いて倒れていた。何か鈍い音が聞こえたような気がしないでもないが、確かめる余裕も無く俺は自分の上着と鞄をひっつかむとそこを飛び出した。冷や汗だか脂汗だか分からないが、全身から吹き出たそれが冷たくて、とにかく急いで走った。時間は日付を越すぎりぎりで、終電なんかもうとっくに無い。俺はシャツの前をかき合わせ、上着を着て駅前のタクシーに乗った。アパート前で降りて、初めて上着を裏返しに着ていたことに気付いた。とにかく気が動転して、頭が真っ白だった。