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10話


 色々な話をした。

 沢山、いろんな事を話した。話して、疲れて黙った頃に、彼はゆっくりと口を開いた。



 "人が何かを選択する時、その働く心理要素として『消極的因子』、『積極的因子』の二つがあるとするね。"


 眼鏡を外した目を伏せて、彼は液体を見ながらそう口にした。


 "そうして考えると、消極的因子の特性はその消極さ故に『下した選択』をいつまでも責めてしまうよな。例えば『逃げる』。するとその結果葛藤と苦悩はその人にいつまでも残り、周囲の平安は決して安心を与えてはくれない。逃げたことでどんな良い結果が得られようが、『挫折』という消極的因子を選択した事実は変わらないからだ。"


 俺はぼんやりとして、彼の手を眺めていた。


 "逆に積極性とは、逃げたいと思うほど重く恐ろしいものを直視するという事だ。気持ちの上でも周囲でも、それは平安だろうか?そんな訳は無い、逃げたいほどのものに真正面からぶつかるわけだから。見たくも無い痛いものに自らぶつからねばならない、つまり立ち向かうという事は即ち苦悩すること、そして緊張し葛藤することに他ならない。"


 ・・・"だとしたら"


 伏せた目で微笑んで、彼は言った。


 "思うに、逃げる事も立ち向かうこともあまり変わらないんじゃないかな。どちらの因子を選んでも人は同じように葛藤するんだ、消極と積極の境って俺は曖昧にしか思えない。・・・解るかな、つまりね。俺には君の選択がどうであれ失望なんて出来ないし、しようとも思わないんだよ。"


 それに、と。淀んだ意識の片隅に。


 "俺ね―――"



 ―――――-----…



「・・・・・・・・・・・・?」


 何の音だろう。


 何だこれはと霞がかかった頭で首を捻り、顰め面で目をしばたたいた。

 まず映ったのは黒いテーブルで、そこには飲み干した酒の缶がゴロゴロと転がっていた。中にはワインの瓶まで転がっているが、あれは開けた覚えが無い。

 飲んだっけあんなもん―――と、呻きながら嗅いだ部屋は微妙にアルコールくさかった。窓を閉め切っているからだ、換気扇つけなきゃと思いながら、俺は耳に聞こえる柔らかいリズムに吐息を零した。

(・・・どこだっけ、ここ)

 ―――見覚えがあるような無いような。

 テーブルに乗る黒に近いビリジアンの瓶。カーテンの隙間から注ぐ光で透けて光り、緑の影を床の白い絨毯に落としている。明朝の光というのはどこか白々した気配を持つが、多分に今は朝だった。微かに聞こえる鳥の声に裏付けをされ、俺は少しずつ晴れてきた思考に顔を上げた。



「―――――。」


 何でだ。



 とりあえず、俺が思ったのはそれだった。

 むしろそれ以外に俺は何が出来ただろう、いや何も出来なかったと胸を張って言える。俺が今ここで何かの言葉を出すとしたら疑問符が語尾に着く言葉、その他一切はありえないと断言する。

 世の中には信じられない光景というものが度々目撃されるものだ。けれど、視界という信じられる確実な現実光景でありながら、見た実態は意味が解らない光景というのは案外に少ないんじゃないだろうか。そしてその意味の解らない光景の一パーツとして自分が成り得ているなら尚更に少ないんじゃないだろうか。

 ていうかどうしてこうなったんだろうか。

(・・・何でどうしてこうなって・・・ってあああ何か気持ち悪ッ)

 ―――やっぱり飲み過ぎていた。

 静かにパニックというのも妙だけども、俺は確実にそれを起こした。アルコール摂取過多後に起こるあの嘔吐感がむかむかと襲い、部屋の臭いに顔を顰める。

 とりあえず肝心な事は全部考えないことにして、アルコール臭の凄い部屋の換気だ。昨日彼の家に泊まった事実は思い出したものの、缶ビールの五本目を開けたあたりから俺の記憶は曖昧だった。

 確かまず、・・・あのあと、玄関に零したビールをぎゃあぎゃあと喚きながら拭いて(彼が明らかにブランドもののTシャツを雑巾代わりにしようとしたからだ)、もう一度コンビニで酒を大量に買い直して来たのが午前一時頃。それで何かツマミを作るという彼が台所に立ち、防大の野外訓練で覚えたという包丁ならぬサバイバルナイフでの調理光景に唖然としたのが二時半過ぎ――だったと思う。それから色々と・・・話した覚えはあるが、えぇと、何でこうなったのかは良く解らない。

 とりあえず解るのは、二度目の部屋は目に真新しく記憶の引き出しが曖昧だが、この部屋は確かに二週間前に見た彼の家、そのリビングで間違いないという事だろう。何でリビングで寝てんだ。


「・・あのー、畑さん」


 とりあえず家主を起こそうと、僅かに躊躇いつつ、俺は近くにあるギリシャ神話の神の如き寝顔に恐る恐る声をかけた。

 ん、と小さい声が漏れ、カーテンの隙間から零れる朝日を浴び神々しく輝く黒髪がさらりと揺れた。・・・以前から綺麗だとは思っていたが、こうしてまた見ると本気で凄いもんだ。うう、微かに寄った眉間さえも計算のように思えるし、伏せた目のまつげの長さなどそこらへんのタレントより凄いんじゃないか・・・


「・・・て、寝なおすな。頼むから起きてくれ」

「・・・うん・・・」


 頷き、彼は再び寝息の安らかさを纏い始めた。起きない。

 駄目だ、このまま待ってたらまだ暫くこのままだ・・・!


「お、おい――畑さん、起きろって!」

「・・・・・・あー・・・」

「あーじゃなくて!頼むから!起きてくれって!その・・・部屋の換気しねーと!」

「はいはい・・・」


 ・・・・・・聞いてねぇし!

 体を揺すり、アルコール臭がすげーんだよここと懸命に訴えたが、彼は一向に目を開けず眉間に皺だけを寄せるばかりだった。挙句「ほっといていいよそんなの」と低く面倒そうに唸り、俺の主張はまるで聞く様子が無い。生返事の真髄、ここに極まる、だ。

 本人が良いと言うならと片付けたいところだが、俺はそれでは困る。・・・困るのだ!そう俺が!


「畑さんっ!良いから起きろ!目ェ開けろ!」

「・・・・・・・・・・・」

「・・・寝るなぁッ!!起きろ明良―――!!」

「・・・っ!」


 耳元で下の名前を絶叫すると、その瞬間に吃驚したように目がぱちっと開いた。見開かれた薄い色素の瞳、朝日の中で光を受けたそれらがきらめく。

 それを前に声をかけていながら絶句している俺を見て、彼は僅かな沈黙後、微かに頬を綻ばせた。


「・・・あぁ和樹君か、驚いた」

「・・・・・・すんません」

「あはは、おはよう」


 はぁおはようございます、と反射的に返した。すると今日も天気良さそうだねぇ、と特に他の反応はなく会話を始められ、俺はその堂々とした態度に自分の中にあった焦りやら何やらが滑稽に思えてきた。この場合滑稽なのは俺なのか、いや、というか―――おかしいだろ、その反応。

 名前呼ぶから誰かと思ったよと笑う彼に、うんまぁ、と俺は訳の解らない相づちを打った。驚くべき所は名前なんですかと思いつつも、努めて動揺を押さえ込みながらところでと言った。


「畑さん、お願いがあるんだけど」

「お願い?何でしょ」

「何っていうか―――まぁあの、」

「うん」


 うんっていうか。その、つまり。

 つまり―――言い淀む自分がやはり滑稽に思いながらも、俺はやたらと至近距離にある彼の顔を見つめた。



「・・・動けねぇんだけど」



 眠っていたソファの上、自分の背に回っている両腕と。

 絡んだ足、そして柔らかい鼓動を奏でる胸板が。

 ―――行動を阻むので。



「・・・・・・・・・・・・おお」


 暫しの沈黙の後、彼がぽつりと呟いた声は実に飄々としていた。

 いやさ。だから、おお、じゃないだろ。もう少し何かこう驚くとか慌てるとか、それなりに相応しいリアクションがあるだろ。―――少なくとも、俺は朝起きて自分が大の男を抱き締めていたら絶叫する。放り出す。錯乱する。


「あの、・・・――ッ畑さ・・・!?」

「うん」

「う、うんって、あああの・・・!」

「もう少しだけ。嫌?」


 ―――な、何で。

 ぎゅうと籠められた腕の力、明確な意志を持って抱き締められた事実に息を呑む。

 どうしよう、と思った。思ったが、俺の起こした反応はただ心臓のスピードが上がった事と顔の毛細血管が活発になったこと、そして体の力を抜いたことだけだった。


 困ったなぁと、思った。


「和樹君」

「・・・嫌じゃ無いけど」

「ありがと」


 くすりと、楽しそうな笑みが聞こえた。

 あぁ困った。

 本当に困ったなと思う。

 目を覚ました時からずっと、背中の腕の感触や暖かい体温、そして柔らかい胸のリズムを俺は心地よいとしか思ってない。何でこんな体勢で寝ているのかなんて、経緯は良く覚えては無いけれど、でも。


 "俺ね―――"


 昨夜のそれを、覚えているのだ。



『俺ね。多分、この先もう君から離れてはあげられないよ』



 ―――意識の途切れる間際のそれを、俺は嬉しいとしか思わなかった。






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