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一話


 俺が通勤で利用する電車には、やたらと睡眠摂取率の高い人がいる。


 身長は高く目鼻立ちははっきり、シンプルな縁なしメガネを装備したその人は、毎朝電車と一緒にゆらゆら体を揺らして寝こけている。

 勿論見掛けるだけなので名前や素性は知らないが、その人がつやの有る真っ黒な寝癖一つない髪をきちんとセットし、上品な濃いめのスーツをこさっぱりと着こなすという、所謂ナチュラル色男であるという事だけはどんなに馬鹿でも見れば解る。そのくせその人ときたらレンズの下の瞼はほとんど閉じられて大概眠りっぱなしで、俺はその瞳が開いている様を数えるほどしか見たことがない。しかも高めの鼻梁にポンと乗るメガネはゆらめく頭の運動を無視し、奇妙にもぴったり張り付いたままズレる事なく同位置をキープし続けているのだ。俺が思わずあれは皮膚から直接生えているんじゃないだろうなと嫌な想像をしてしまったのも仕方ないというものだ。――いや、妖怪じゃないんだから間違いなくかけてるんだろうけど。

 ところで俺は物の価値というものがよく解らない方だ。目利きが出来ないというより、物を知らない。だからその人が着ているスーツがはっきりどんなものかというのは解らないが、俺のような三点セット販売の上に漏れなくもう一つパンツがついてくるといった大量生産の既製品とは根本的に違い、多分自分の体に合わせて作った一点物という品とみて間違いないだろう。腕を組んでじっと眠っている姿は例え首がかくかく動いていても格好良い事に変わりはない。電車に乗ってくる女子高生やOLの視線がその人ばかりに向かっているのはいつもの事だ。


 がたん。


 電車が止まった。

 車掌さんが駅の名前を単調に読み上げ、ガスが抜けるような音と共に扉が左右に開いた。凄い数の乗客がどやどやと乗り込み、扉付近に立っていた俺はそのまま奥へ奥へと流された。いつもは扉の捕まり棒に踏ん張って流されないよう気を配っているのだが、実を言えば今日は朝から体の調子があんまり良くなくて踏ん張る力が湧いてこなかったのだ。あわあわと流されて奥のつり革にかろうじて縋り付き、がたんとまた動き出した列車に目を白黒とさせる。あの人はどうしているかなと思って座っていた椅子の方を見たが、他の客がぎゅうぎゅうに詰まって何も見えなくなっていた。まぁ多分、変わらない格好でぐうぐう寝てるんだろうけど。何かちょっとおかしくなって小さく苦笑を浮かべてしまった。

 がたん。

 線路の切り替え部分を通った車体が大げさに体を揺らし、つり革を握っていた手がずるりと滑る。しまったと思う間もなく体は傾ぎ、ついでに直ぐ横にいたガタイのいいおっさんが倒れ込んできて俺は人に潰されてしまった。何とか体勢を立て直そうと捕まるところを探したが、列車はがたごとと単調な揺れを繰り返し、その度に人が潰し潰され波を作った。俺が気持ち悪さに脂汗をぽつぽつと浮かせ始めたのはそのあたりだ。人に酔ってしまったのだと口を押さえながら理解する。気持ちが悪い。


「・・・・・・、すいません、降ります。ちょっと通してください」


 会社がある駅から一つ手前、俺はとうとう降参した。ぷしゅうというドアが開く音を聞き、びっしょりと脂汗を浮かせた顔で人混みをかき分ける。後一つ我慢すれば着くのは確かだが、後一分でも乗っていたら間違いなく俺はここでリバースするかぶっ倒れるかしてしまう。視界は黒いもやで朦朧としていたし、何よりもう立っているのもやっとだった。懸命に力を振り絞って扉を目指すものの乗客は既に満員で、俺はぐらりと目眩を起こし、絶望的な思いでぎゅっと目を閉じた。

 ぐい、と腕を引っ張られたのはその瞬間だった。


 ・・・がたん。


 背後でドアが閉まり、列車がゆっくりと動き出す。新鮮な空気と揺れない地面、何より人が居ないという今の俺にとって最高の場所で去りゆく列車を茫然と見つめ、ふっと吹いた風に体をぶるりと震わせる。脂汗は冷えると恐ろしく冷たく、俺は気分の悪さも手伝って静かに項垂れた。そこで、漸く俺が誰かの手に支えられている事に気付いた。


「大丈夫ですか」


 多分相当青いだろう顔をのろのろと上げると、心配そうな色を浮かべた色素の薄い瞳と目があった。その手前には縁なしのメガネがきらりと壁を作り、整ったその人の顔立ちをシャープに引き立てている。思わずカバンを落とした。


「あぁ・・・大丈夫じゃありませんね。歩けますか?座れる場所に移動しましょう」


 初めて聞く声。低くて、とても深みがある声をしていた。しっかりと開いた瞼で彼は俺の鞄を手に持ち、俺の腕を支えてゆっくりと歩き出した。気持ち悪さに呻き、それでもすみませんと俺が言うと、気遣うような声が気にしないでと優しく言った。具合が悪いときと言うのは気が弱るしそれはとても嬉しかったが、俺は彼が会社に行かなくて大丈夫なのかが正直気になっていた。彼が遅刻したら間違いなくそれは俺のせいだ。


「ご自宅に連絡入れて迎えに来て頂きましょうか」


 待合所のベンチに座り、項垂れる俺に彼が言った。

 俺は俯いたまま薄く笑って、微かに首を振った。


「誰も、居ません」

「居ない?お仕事ですか」

「いえ」


 少し考え、それでも俺は心配を寄せる彼に正直に言った。


「俺、一人なんです」

「―――、」

「すみません」


 他には何も言わなかったが、彼は察したようでただ「そうですか」と頷いた。変に同情されるよりすっきりして良いなと思う。――この人は、見た目を裏切らない人だなと思った。


「・・・お住まいはどこですか」


 暫く黙ったあとそう尋ねられ、首を傾げながら住所を口にすると彼は頷いて立ち上がった。だいぶ顔色が戻り始めた俺の腕を支えながら立たせ、行きましょうと言って改札口に歩き出す。意図を図りかねて戸惑っていると、彼は駅前のタクシーに手招きして俺を中に押し込んだ。――ついでに彼も入ってくる。


「あ、あの、」

「橘通り三丁目までお願いします」

「え」


 ぽかんと横を見ると、彼が初めて微笑んだ。


「乗りかかった船。送ります」

「は――――」



 仕事は大丈夫なのかとか、初めて話す人にこんな迷惑はかけられないとか、色々と頭の中を言葉が飛び交っていたが俺は何一つそれを声にして見せることは出来なかった。

 彼は俺の混乱を余所に優しい顔で笑い、いつも見ていたあの眠そうな顔など一切見せず「まぁいいじゃないですか」と穏やかに言った。


「いつも同じ電車に乗ってるから、まったく見知らぬ人って訳でもないでしょう」

「―――・・・、」



 閉じっぱなしだったと思っていた瞼は、どうやら結構開かれていたらしい。


 唖然とした俺に、彼はにっこりと微笑んでいた。






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