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偶然と運命  作者: ぴすけ
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言葉と妥協

イギリス人だという彼女の名前を教えてもらったのは同居し始めて三日目、僕のアパートに彼女の言う『要塞』ができあがってからだ。

その日の朝、彼女は露天商のように本を日干ししながら、約束通りダンセイニ卿の本を渡され浮かれている僕に柔らかな笑みを見せていた。

「和宏君。私の名前、知りたい?」

そう声をかけられたのも気づかないほど僕は浮かれていた。

「え、なに?」

彼女は鳶色の目をちろりと動かすと、ただ僕に微笑み返すばかりで、再び同じ事を口に出そうとはしなかった。

ロフト付というだけの小さな部屋だが彼女がうまくはまり込んだのは僥倖というべきで、彼女がそこで何をしようが構わないと『我、関せず』と思っていた僕がまずかった。

要は彼女が微笑んでいるということは、怒っている、ということに僕はこれっぽっちも気づかなかったのだ。

それが明らかになったのは昼過ぎになって、お互い読んでいた本から顔を上げてからだった。

彼女の微笑みに僕も微笑み返し、上機嫌でたずねてみた。

「お昼何食べたい?せっかく本を貸してもらったんだし僕が作るよ」

彼女はゆっくりと笑みを作り言い放った。

「この家も見飽きたし、せっかくだから神保町に行きたい。今日のところはそこでお別れ」

ぽかんと口を開けている僕に彼女はさらに言いつのった。

「そう、その顔。本を読んでいるときにその顔になるあなたを私は本当に好ましいと思っているけども、言葉の応酬となるべき時にそこで思考停止して我を失われては困る」

僕はねじ巻きを巻くようにぎりぎりと笑顔を作り直すと、もう一度ゆっくりと彼女を見た。

彼女はぎこちない笑みを見せていた。

あれは場を取り繕う僕とは別の顔だ。

言うなれば、そう、相手をどう追い詰めようか楽しんでいる顔じゃないかな。

「ええと、だね。なんだね。君は何をお望みなのかな」

「断固たる生活の改善を要求。ロフトからさらに一歩踏み込んだ私の居住空間を与えること」

即答だった。

笑みを直視できないまま問うてみる。

「具体的にはどこまで?できる限り譲歩して今のロフトを提供したわけだけども」

「今用意するから待ってて」

またしても即答。

おお、自分がおびえきっているのがわかる。

あれだな、本州のかけらにぶら下がったしがない農耕民族には七つの海をまたいだエゲレスの人々は天敵に違いありません。

だってアウェーであるはずの日本に来ても全くこの娘は退く気がないもの。

こっちたじたじだもの。

僕がマゾの駄犬だったら、今の一睨みでうれションしちゃうね。

彼女がさらさらと紙に改善要求とやらを書いている間、やくたいもないことが次々と頭を巡る。

そして彼女はようやく笑顔を引っ込めながら「笑顔は疲れる」と割と理不尽なことを言い、僕に一枚の紙切れをよこしてきた。

「笑顔は疲れる」って、そんな、この子いろんなところで損しているような気がするんだがどうなんだろう。

くだらないことを思いつつ紙に目を通して仰天した。

紙には要求が一つだけ。

曰く、『さらなる心的距離の接近を希望し、ベッドの割譲を求めます』とのこと。

再び笑顔を作り彼女に問う。

こんな状況で何度も笑顔が作れるなんて、本当に僕はマゾの駄犬じゃないだろうか?

「僕がベッドから出て行くという折衷案じゃどうかな?日本人は本来布団で寝るもんだし」

首は横に振られる。

まあそうだろうね。

「つまり僕には妥協する余地はないと?」

今度も首は横に。

ああ、そういうこと。

「僕には君を彼女として認めるという妥協点があると?」

首は縦にこくんと。

こういう仕草は本当にかわいいんだけどなあ。

けど認めるわけにはいかない。

妥協や議論の末に実る恋などあってたまるものか。

夢見がちな青年の主張が頭をコマのように回す。

ええと、うん。

「僕にはもう一つの妥協点が生まれたよ。聞いてみる?」

今度も首が縦にこくんと振られる。

こういうゲームがお好きらしいと僕は気づく。

彼女は試している。

けれど何のために?

「僕はベッドを割譲する。ただし指一本触らない。食事も適宜、別個に行う。了解?」

彼女は自重するような笑みを見せた。

「ごめんなさい。ずいぶん嫌われた?」

鳶色の瞳は確かに僕を映している。

確かに、静かに、ただ僕だけを見つめている。

彼女の瞳から涙は流れない。

こんな時に泣かれては最悪だ。

「サンドイッチでいいかい?それならすぐに作れる。食べながら話そう」

それから三十分後、彼女は黙々と食べていた。

きれいに僕の分まで。

コンビニに紅茶を買いに行った間に彼女はぺろりとたいらげていた。

あの細い身体のどこに?

僕と同じくらい食べるとして、8枚切り1斤ずつだったはず。

それがなぜ僕の分がなくなってる?

帰ってきたとき僕が目にしたのは、猫が見せるように手首の辺りを一舐めする彼女の姿だった。

ま、気を取り直そう。

これも眼福といえないこともない。

ただ一緒に話しながらっていう言葉は、どこに行ったのかって気もするけども。

「あー、うん。じゃ、話そうか」

弱いなあ自分。

「で、君の言い分は?」

「話を聞いていない和宏が悪い」

ちゃぶ台の向こうから意外にも感情的な反論。

子供っぽいところもあるんだなあというよりは、そのバランスの悪さに危うさを感じる。

「それって今朝のこと?」

「そう」

「うん、謝る。だから何の話だった?」

おおう、素直に頭を下げる僕にひるんでいます。

日本人の愛するところの謙譲の心というものが、まだわかっていないご様子。

「えーと、だから。その、私の名前を」

「知ってるよ。シャーリー・メディスンでしょ」

僕の思わぬ反撃に、その小さな耳まで真っ赤にする彼女。

しかし彼女も健闘します。

小さく咳をすると、落ち着いて返事を返します。

「そう、シャーリー。なんでわかったの?メディスンというのは全く違うけども」

「ああ、簡単。旅行鞄にフルネームのタグがついてたから。メディスンは僕の茶目っ気と思ってくれていい。説明するのも面倒だし」

すると今度は本当に真っ赤になって、いつもとは違った感じの恥ずかしそうな語調でぽそぽそと彼女はたずねてきた。

「何で名前を呼んでくれないかな」

少し僕は考えて意地の悪い笑みを浮かべ、返答した。

「アイラヴユー、みたいなものかな。二人でいるときは名前を使う必要がないから」

すると本当に彼女はかちかちになって、うつむいて黙ってしまった。

それきり無口に戻った彼女は機嫌良く夜まで過ごした。

付け加えることがあるとすれば就寝時に本当にベッドが割譲されたことだが、これは仕方がない事だと思う。

ただ手をつなぐくらいのうぶなやりとりは不本意ながら行った。

これが僕の妥協点だ、と言わせてもらいたい。

彼女が無言で差し出す手を五分ほど見つめたのは、我ながら臆病というか何というか。

東京は恐ろしいです。

緊張で汗ばんだ手に文句の一つもいわず、逆に握りかえしてくるエゲレス人はやっぱり天敵でした。

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