5. 動物捕獲大作戦
だいたいさ、こんなところに人の大好物を置いておくほうが悪いのよ。
その日、私はテーブルの上に無造作に転がっていた楓太郎お手製のラルド・イン・コンカ・コロンナータ(豚の脂身のハム)を一人で一パックも平らげ、実にいい気分だった。
あー、お腹いっぱいになったし、眠くなっちゃった。
晴香に戻って小説の続きでも書くかな。
食い散らかしたラルド・イン・コンカ・コロンナータのパッケージをゴミ箱の中へと前足で蹴り飛ばすと、私は意識を覆う闇にその身をゆだねる。
パッケージを引っ掛けたときに付着したのだろうか? 爪の先についた油が気持ち悪くて、行儀悪く舌で舐めとると、まったりとした油と共に深みのあるハーブの香りが口の中に広がった。
んー やっぱりおいしいものは満腹でもおいしい!
どうせなら、もう1パックくすねてどっかに隠しておけばよかった。
そんなことを考えながら、私はテーブルの上で丸くなる。
世の中に、食べてすぐ寝ると牛になると言う言葉があるが、世界広しといえども人になるのは私ぐらいだろう。
問題があるとすれば、人になっている間は何があっても猫の私が目覚め無いということだが……まぁ、この店で私に危害を加えるヤツがいるとも思えないし。
ま、いいや。 眠いのはしょうがないじゃない。
私は口の中に残るハムの味の余韻に浸りながら、すやすやと寝息を立てる。
その時、私は悪意がなくても発生する"事故"と言う概念を完全に失念していた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あら…… うふふ、ハルコさんったら無防備ね」
眠りこける黒猫の傍にくたびれた姿の女性が近づき、背筋が薄っすらと寒くなるような声で囁く。
やってきたのは、締め切り明けでかなりハイテンションになった漫画家、入鹿出 しずえ。
ネーム作業との戦いを終えた彼女の目の下にはくっきりとクマが浮き上がり、目は完全にイッてしまっている。
そのせいでかなり近寄りがたい雰囲気を放っているのだが、寝ている黒猫のハルコはピクリともしない。
「そうだ」
彼女は怪しげな笑みを浮かべると、何かを思いついたらしく、その髪を止めている黄色いヘアバンドをそっと取り外した。
「うぷぷ…… そっくり」
俯いて笑みをこぼす彼女の視線の先にあるのは、ヘアバンドを付けられたハルコの黒い尻尾。
しかも、そのヘアバンドはキャラクターグッズなのか、表面には某アメリカの子供向け番組のキャラクターの顔がプリントされている。
それをハルコのシッポに装着すると、その先端がキャラクターの髪の毛にみえて、まるで最初からそういう玩具であったかのように見えた。
ハルコが起きていたら絶対にそんなことはさせないのだが、困った事に現在彼女は幽体離脱の状態にあり、その程度の刺激では微動だにしない。
「あー 面白かった。 ごめんね? ハルコさん」
ひとしきり笑って満足した彼女は、ヘアバンドを回収することも忘れ、そのままフラフラと立ち上がってお昼寝ブースへと歩み去る。
だが、それと行き違いに……
「孝臣ぃぃぃっ! テメェ! それ、俺の魚のフライだぞ!」
「へっ、テメェにはこのピーマンの炒め物で十分だ!」
朝食をたかりにきたこの店のマスターの友人(?)である体格のいい男二人が醜い争いを始め、店の中が激しく揺れる。
何の仕事をしているか判らないがとりあえずヤクザにしか見えない鯨岡と、近所の交番に勤務する警官の孝臣……喧嘩するほど仲が良いとは言うものの、この二人の場合は本当にそうなのかとおもわず首を傾げたくなるほど仲が悪い。
いつも、こんな小学生のような理由で喧嘩を繰り返すので、周りの人間はいい迷惑だ。
「許さん! 食い物の恨みパンチEXっ!!」
「ろっとぉ!」
そして鯨岡のパンチをよけた孝臣がハルコの寝ているテーブルにぶつかり、その反動でハルコの体が横にあった箱の中にスポっと落ちる……
だが、暴れる男二人に気を取られ、だれもその事実に気づかない。
「ちわー 宅配便です」
さらにそのタイミングで運送業者がやってきて、笑顔で荷物を取に来たことを告げる。
「あ、しまった! まだ荷物梱包してないっ!! ちょっとだけ待ってくださーい!!」
慌ててカウンターから飛んできたこの店のマスター――大隈 楓太郎氏は、箱の中身をよく確かめずに梱包し、焦りながらお歳暮の張り紙を貼り付け、そのまま業者の青年に手渡した。
当然、彼もハルコがその中にいる事など気づかない。
「よろしくお願いします!」
楓太郎に見送られながら、黒猫のマークの運送業者が遠ざかる。
そして、ハルコの短い旅――そして周囲に多大な迷惑をかけた事件がスタートしたのであった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ところ変わって、とある地方にある、とある会社。
年がら年中恋の花咲くこの会社にも、年末になると大量のお歳暮が送られてくる。
そんな贈呈品の山を集めたデスクを挟んで、今日も一組の男女が送り主のチェックを行っていた。
「あー 今年もお歳暮少ないな。 景気も悪いし、仕方が無いのかなー」
社員の一人、男性のほうが荷物の山を見て一人ごちる。
例年より少ないとはいえ、この量をチェックしてリストにするというのはやはり面倒な作業らしく、その社員は退屈を紛らわせようと、その荷物の山の一つを手に取り、包装の熨斗紙を破り捨てた。
「ちょっとマメ橋! お歳暮を勝手にあけちゃだめよ」
その様子を見咎め、隣で荷物の送り主をチェックしていた女性が、ボールペンを走らせていた手を止める。
「えー かたいこと言うなよ。 今のうち何が入ってるか先にチェックするぐらい構わないだろ? 暇なんだよ」
マメ橋と呼ばれた青年は人好きのする笑顔を浮かべると、甘えるような調子で相方の女性の目を覗き込んだ。
こうしてみると、この二人の間に流れる空気はどこか甘い。
どちらかというとマメ橋と呼ばれた男のほうが一方的に秋波を送っているように見えるが、送られるほうもまんざらではないといった様子。
見ているほうからすると、今だ、キスをしろ、押し倒せとでも言いたくなるところだが、さすがに勤務中にそんなことをする気は無いらしい。
「だーめ! こういうのは一度社長に渡してからよ」
いたずらする子供に「めっ」とするよう注意して、女性社員は話は終わりとばかりに荷物の山に視線を移した。
「はいはい、わかったよ百合。 ん? これ、知らない所からだな。 しかも、宛先がウチじゃないし。 セ・ラ・シャット? 何の店だろ」
その荷物を持ち上げたマメ橋は、ふと何か違和感を覚えると同時に手を離した。
ガタンっ!
その箱が床に落ち、激しい音がたつ。
「ど、どうしたの? マメ橋」
「い、いや、なんかこの荷物、生あったかくて」
首をかしげながら尋ねる百合に、マメ橋は気味が悪そうな声を返して顔をしかめる。
まるで汚物に触れたように手を服の裾にこすりつけるマメ橋を、百合は小さく笑い飛ばした。
「ふふっ、いくらなんでもそれは無いでしょ。 気のせいよ」
「ぜったいに気のせいじゃないよぉぉ」
全身に鳥肌をたてながら、マメ橋はその荷物から微妙に距離をとった。
そう、あの感触はまるで中に生き物が入っているかのような……だが、お歳暮に生き物を、しかも箱に詰めて送るようなやつはいない。
「とりあえず、ウチに送った荷物じゃないのなら、間違って届きましたよって連絡をしてあげないと。 連絡先は?」
「えっと、送り主のほうなら書いてある。 んーと、隣の県からみたい」
百合に促されておそるおそる近づくと、マメ橋はひっくり返った箱の裏側に送り主の住所と電話番号があることを確認して読み上げた。
「私はこのリストを社長の所まで持って行かなきゃいけないし……じゃあ、マメ橋はそのお店に連絡お願いね?」
何怖がってるのよ……と、困った人を見る視線でマメ橋の方に目を向けながら、百合はチェックしおわったシートを胸に抱えて部屋を出てゆく。
「……わかったよ。 しょうがないな」
ぶつぶつと文句をいいながら、マメ橋は懐から携帯電話を取り出すと、書いてあった連絡先の番号をしかめっ面で入力しはじめた。
この部屋に一人っきりにしないでくれと言いたいところだが、マメ橋にも男の面子というものがある。
だが、彼は気づかなかった。
その間違って運ばれてきた箱が、ガサガサと動き出した事に。
「……ええ、はい。 そうなんですよ。 間違ってウチの会社に送られてきたみたいで」
ガリッ……ガザガザ
「え? よろしいんですか? ではお待ちしてます。 あ、私は高橋と申します」
ザシュッ シュビイィィィィィ ガリガリ ガリガリ
「いや、そんな遠くないとはいえ、わざわざ取りに来てくださるとは申し訳ない。 ……ん? なんの音だ?」
さすがにその物音に気づいたマメ橋が、騒音の源を探して視線を彷徨わせる。
バリバリ……ガサガサ……バリッ!
フシャアァァァァァァっ!!
「うわぁぁぁっ!? なんだこれ!」
……もしもし? すいません、どうされたのですか?
突如会話が途切れたことを不審に思ったのか、電話の向こうから通話相手の男性が、マメ橋に向かって何度も声をかける。
だが、その耳に入ってきたのは、マメ橋の悲痛な叫び声だった。
「うあっ、あうっ、やめて……はあぁぁっ、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「どうした、高橋!」
「だいじょうぶですか、マメ橋先輩!!」
悲痛な叫びを聞きつけて駆けつけた同僚たちが見たものは、地面に仰向けに倒れたまま、あはは、うふふ、と気の抜けた笑い声を上げるマメ橋の姿だった。
「……黒い……何かが……うふ、うふははははは」
「お、おい、しっかりしろマメ橋!! 美穂さん、医務室に連絡を!」
「は、はい! すぐ医務室につれて行きますから心配しないでマメ橋先輩……って、何? ちょっと待って、清水さん! みて! 何かいる!!」
がさっ
美穂と呼ばれた女性社員の見る先で、何かがガサッと音を立てて蠢いた。
そして彼女が見たものは……
「「…………………………なに、あれ?」」
声をそろえた二人の目の前に現れたものは、なんとも気の抜ける代物だった。
テーブルの陰から顔を覗かせているソレは、黒い毛むくじゃらの細長いものの先に、まるでヌイグルミでできた人形の顔のようなものがくっついている。
まるでトウモロコシのような顔のフォルム、とって付けたようなオレンジ色の丸い鼻、太くて一本に繋がった黒い眉……見間違いでなければ、それは海外子供向け番組のあるキャラクターに酷似していた。
「あー、なんか見たことあるかも! ……バー○?」
「へ? ○ートって、セサ○ストリートのあれデスかー? むうぅ、マニアックなキャラを選択したもんデスねー」
後ろから送れて駆けつけてきた女性社員二人が、なんとも気の抜けた声でその謎の生き物の正体を口にする。
その瞬間、その生き物は「ふぎゃあぁぁぁぁっ!」と凶暴な叫びを上げると共に、音もなくテーブルの間をすり抜けてドアの向こうに消えていった。
「し、しまった! 追いかけて捕まえなきゃ!」
誰かが叫んだ声に弾かれて、清水と呼ばれた男性社員が慌ててその後を追うものの、彼が扉を出た時、その謎の生き物の姿はすでにどこにもなかった。
「逃げられたか……」
「とりあえず、マメ橋先輩を医務室に運びましょっか?」
悔しげに呟く清水の背中に、後から入ってきた女性社員のうちの小柄な方がそう提案をする。
その横で、もう一人の女性社員が、床に散乱している紙箱の残骸を見て眉をしかめた。
「んん? なによこれ。 誰? お歳暮の中身勝手に空けたのはっ!」
「ま、待って下さい、みどりせんぷわぃっ! コレ、内側から破られていマスよっ?」
「……え? ほんとだ。 なんでこんな風に?」
だが、その答えを口にすることは許されなかった。
「うっ、うわぁぁぁぁっ!!」
また遠くで響く悲鳴。
「な、なに?」
「まさか、さっきのわけのわからない生き物?」
これが後に【バート・モンスター襲来事件】と呼ばれるようになる、会社創立以来初めての、そして空前のバイオハザードの幕開けであった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……何が言いたい?」
「なーん」
その日のお昼頃、パニックに陥る部下を尻目に、彼らの上司である袴田 圭吾31歳、バツ1かつ独身は、部下の一人に(他の社員には内緒で)作らせた弁当を片手に恐るべき敵と対峙していた。
「そんな目をしても無駄だ。これは君が食べるには塩分が強すぎる。そもそもこれは俺の物だからな。どこから紛れ込んだのか知らんが、早く飼い主の所に戻るんだな」
彼の目の前にいるのは猫。
癖の強いフサフサとした黒の毛並みは、一部の部下から鬼畜軍曹と呼ばれる彼をしても、思わず触れてみたい衝動に駆られる代物だった。
だが、彼はそれを鋼のような意思でねじ伏せる。
その恐るべき魔獣の視線の先にあるのは、彼がちょっぴり可愛いなと思って最後にとっておいたタコさんウィンナーであった。
これをつくった部下がどんな顔で料理していたかと想像するのが、彼のひそかな楽しみなのだが、この魔獣はよりによってその大切なタコさんウィンナーに目を付けたのだ。
ちょうだい?
そのクリクリとした視線で見上げる誘惑光線はドラゴンをも一撃で撃墜できそうな威力を秘めていたが、対する袴田も只者ではない。
ふっと鼻で笑ってその要求をはねつけると、器用に箸を操り、そのウィンナーをはさみあげた。
狙われているならば、奪われる前に食ってしまえばいい。
どうせいつかは食べなければならない代物なのだから。
袴田が下した答えは、実に合理的でシンプルだった。
だが、魔獣もそれを黙ってみているわけではない。
パシッ
その瞬間飛んできた猫の手を、袴田はもう片方の手で打ち落とす。
「甘いな。……しかし普段どんな躾がされているんだ? 人の食べているものを狙うとは……しょせんは猫ということだな」
「うなぁぁぁぅぅぅぅぅぅ」
すると、猫はまるでその言葉を理解したかのように不機嫌な声をあげると、その長い尻尾を何度も袴田のデスクに打ちつけた。
なぜかその先端はヌイグルミのようなものがついていたが、あえてそこには触れない事にしている。
突っ込んだら負けだ。
「む? まあ待て。 躾が悪いといわれて不機嫌になるのはわかるが、悪いのは君だろう? といっても猫が相手では言葉も通じないか……ふっ」
袴田が溜息をついて目を反らした瞬間、再び猫の前足が閃き、タコさんウィンナーめがけて振り下ろされる。
――だが、
「その程度読めている!」
ふたたび袴田の手がそれを阻もうと神速の動きを見せた。
「っ!? 何……だと……」
だが、その攻撃はフェイントだった。
弁当狙いはフェイントで、課長の顔にそのフサフサしたシッポが直撃する。
ふぁさっ
……いい。
袴田が一瞬意識を手放した瞬間、彼の手からかすかな痛みと共にタコさんウィンナーが消えた。
「しまったっ!?」
次の瞬間、用が済んだとばかりに袴田に背を向け、猫は悠々と部屋を出てゆく。
おのれ、黒猫。
我、次期再戦の機会を望む。
「どしたんデスか、カチョー?」
箸を握り締めて仁王立ちする袴田に、一人の女子社員が声をかけた。
小首をかしげるその小柄な姿は、誰から見ても愛らしいが、まさか彼女が少し前までは化石レベルのファッションに身を包んだヲタク女だったとは、今では誰も想像できないだろう。
「いや、なんでもない。 少し変なものを見ただけだ」
疲れた顔をした袴田が額に手を当ててうずくまると、その社員はポンと手を叩いた。
「あ、それってもしかしてもしかすると、バート・モンスターの事デスか?」
「なんだそれは?」
聞き覚えの無い単語に、袴田が少し顔を上げて部下を睨む。
「午前中、マメ橋先輩を医務室送りにした恐ろすぃ~モンスターなんデス……」
そのまま何か物思いにふける女子社員に、袴田は無言で手を近づけると、その額に容赦の無いデコピンを放った。鈍い音が響きその女子社員は目を白黒して飛びあがる。
「いっ、いったーーーいぃぃっ!?」
「またよからぬ想像でもしていたんだろ。 おおかた、マメ橋と医務室の先生あたりか」
「なんでいつも私の考えてる事わかるんデスかカチョーーぉっ!?」
頭を抱える女子社員を見る袴田の目は、わからない方がどうかしていると雄弁に物語っていた。
確かに、いきなり台詞の途中で黙り込んで考え事をするなど、不審なことこの上ない。
「……ところでだ。 さっきそのバート・モンスターとやらに手を傷つけられたんだが」
「ふおっ! た、大変デス!? 血がっ! って、あぅ……課長がマメ橋さんの後を追って……後を……」
ふたたび妄想に入った女子社員を脳天チョップで現世に呼び戻すと、袴田は溜息をつきながら自分の用件だけを告げた。
「妄想するより手当てを頼む。 利き腕をやられたから自分では治療がやりにくい」
「は、はぁうぅぅぅっ! リョーカイですよカチョー! おまかせあれっ!」
なぜかその言葉に目を輝かせる女性社員。
その社員に、袴田が冷たい視線を送る。
「……下手糞。消毒液を指先にまでこぼすな。そうだな……『この傷、お前の舌で綺麗に消毒しろ』とか私が言っているところでも考えていたか?」
「だからーっ、なんでわかるんデスかぁっ!?」
ふたたび課長のチョップが炸裂した。
「む。こちらの手ではやはり調子がでんな」
使いなれていない手を痛そうに振りながら袴田は救急箱からオキシフルの瓶を取り出すと、すこし爪を引っ掛けた利き手に消毒液に浸した脱脂綿を押し当てて顔をしかめる。
だが、痛むのは指の傷か、それとも手料理を奪われた心の痛みだろうか。
本人以外にその真実を知る者はいない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「現実に帰ってこない社員3名、びっくりして机の角に小指をぶつけた社員1名、弁当の一部を(視線によって)略奪された社員5名、さらには課長のおかずも1品攻防の末奪われる。――――被害はなおも拡大中です」
会議室のホワイトボードに書き込みを加えながら、清水が状況を口にする。
ちなみに弁当を略奪された社員のうちの一名は、なにを隠そう清水本人だ。
恋人の愛情こもった手料理弁当を奪われた恨みは深く、ホワイトボードを強く擦るマジックがキュリキュリと耳障りな音を立てる。
「敵は一見して猫に見えますが、その中身はおそろしく狡猾。 毛皮に触れれば、その手触りのよさで我を忘れ、肉球で叩かれれば意識が向こうの世界に仲間入りします」
「いや、猫のようにとは言うが、実際にただの猫だろう?」
「「いえ、バート・モンスターです!」」
袴田の冷静な突っ込みに、部下一同から訂正が入る。
しばしの沈黙の後、袴田は訂正を諦めて溜息をついた。
「ふむ。 君たちがそう言うなら、そうしておこう。 で、敵の目的は何だと思う?」
「不明です。 ただ、敵の侵入経路が送られてきたお歳暮である以上、ヤツの目的は食料ではないかと」
実際に被害のほとんどが食事に関するものだった。
この恐るべき来訪者は、食料のあるところにしか現れない。
「対策は何かあるのか?」
「そのお歳暮の送り主と連絡を取った所、なんでも、バート・モンスターの正体は彼の経営する猫喫茶で飼っている生き物だと言う事で、エサさえ与えておけば問題が無いということです」
清水の口から帰ってきた答えに、袴田の左眉が5mmほど上がる。
「至急、引き取りにきてもらえ」
腕を組みそれだけを辛うじて言葉に乗せると、袴田は頭が痛くなる展開にあきれ返ると同時に、眉間に深く皺をよせた。
「はい。 夜にはこちらに到着するということです。 とりあえず、それまでにこちらの方でも捕獲を試みたいと思うのですが」
「許可する。 このままでは通常営業に不具合が出そうだ」
今は大人しくしているようだが、空腹を覚えればまたモンスターは活動を再開するだろう。
そうなれば、女性社員の持ち込んでいる駄菓子などが壊滅的な被害をうけるに違いない。
結果、急性肉球中毒で医務室に運ばれる人間が増えてしまえば、いろんな業務にさらに支障が発生する。
そのような展開は、部署の責任者として望ましくなかった。
……そうでなくとも、おそらく今夜は全員残業確実だ。
「というわけだ。 我々はこれよりバート・モンスターの捕獲作戦に入る!」
「「おぉーっ!!」」
周囲を振り返った清水が勇ましく掛け声を放つと、それに呼応した社員が鬨の声を返す。
だが、袴田は予感していた。
この戦いがそう簡単に終わらないことを。
はたして我々は、あのモンスターに勝てるのだろうか?
袴田は一人戦いから身を引き、ノートパソコンを片手に休憩室に閉じこもって仕事をすることを決めた。
まぁ、翻訳すると『付き合ってられるか、阿呆らしい』なのだが、あえてそこに突っ込まないのが大人のマナーである。
「モンスターの位置、補足できました! 敵は給湯室に立てこもっている模様!」
「よし、マタタビ散布開始! ネコジャラシ班、前へ!」
バタバタと足音を立てて、網をもった社員が駆けて行く。
続いて勇ましい雄たけびがオフィスに続くが、それはすぐさま悲鳴へと変化する。
「だめだ! ヤツにはマタタビが効かない!」
「ちくしょう! みどりさんが肉球にやられた! 救護班、早くしろ!!」
「いかん、モンスターが逃げるぞ!」
騒音、狂乱、そして悲鳴。
人類と未知のモンスターとの戦いは、夕方を過ぎてなお決着を見せようとはしなかった。
「くそっ、ネコジャラシがへし折られた! 俺の誘いじゃ満足できないってのか!?」
「誰か止めろ! ヤツを止めるんだ!!」
「はわわわわ! こっち来ちゃ、だめーぇぇぇっ! んぎょーっ!!」
次第に追い詰められた人類は、もはやモンスターのなすがまま。
業務の一部は完全に停止状態に陥り、さらに夜行性らしく日没と共にその動きが活発化したモンスターは、餌以外にも【人間で遊ぶ】という行為を覚えたらしく、男女問わずその肉球を振り下ろし、倒れた社員をあざ笑う。
もっとも、仕事で本当に手が離せない社員には攻撃しないあたり、本人は完全に遊んでいるつもりなのだろう。
「いかん、誰か体を張ってでも止めろ! やつは滝浪さんの美乳を狙っているぞ!!」
「ちくしょう! 俺だって触りたいんだ……ぐはっ!? 課長、なぜ俺を攻撃するんですか!?」
「あっ、ダメ! そんな……肉球で……お嫁に行けなくなっちゃうぅぅぅぅっ!! んっ、あぁぁぁぁん……」
そして、そんな阿鼻叫喚のさなか、一人の男が狂乱のオフィスを訪れる。
「あ、あの……」
その男は見上げるほどの巨体にもかかわらず、蚊の鳴くような声で来訪を告げた。
しかし、モンスターとの戦いに明け暮れる社員は誰も聞く耳を持たない。
「くそぅ、ヤツは化け物か!」
「負けられない! 人類の尊厳にかけて、この戦いに負けることは許されないのよ!! 散って言った仲間のためにも!!」
どこまで本気なのかはわからないが、疲れのせいか社員の表情にも余裕が無い。
彼らは、自分たちのすぐそばに最も有効な解決方法があることにも気づかず、ただ、目先の事に追われて愚かな行為を繰り返していた。
「お待たせ!……前線に復活だ!」
「おお、マメ橋! もう体は大丈夫なのか?」
呆然とする巨漢を押しのけて、医務室から帰還したマメ橋がオフィスに顔を出す。
全員の注目がそちらに集まるのを感じ、巨漢はそそくさと人々の視線をさけて隅の方へと足を動かした。
女性社員から虫取り網を受け取ると、マメ橋はニヤリと男臭い笑みを浮かべながら親指を立てる。
「心配かけたな! だが、俺はもう大丈夫だ! こい、モンスター! 俺の凄さ、思い知らせて……うわぁぁぁぁぁっ!?」
「マメ橋ぃいぃぃぃぃぃぃっ!!」
ドサっと誰かが倒れる音と、再びオフィスに響く悲鳴。
黒い弾丸がフロアを駆け抜けると、そこには哀れな戦没者が一人のこされた。
「すいません……その」
そろそろいいかなーと言った表情で巨漢ふたたび社員とのコンタクトを試みるが、彼らにそれを受け入れる余裕はなかった。
「そこ、邪魔だからつっ立ってないで!」
「マメ橋先輩、お気を確かにーぃぃぃ!」」
「うへへへ……ネコ、ネコネコ……もふもふ、もふ」
まるで狂気に犯されたような声をあげ、再び医務室に連行されるマメ橋。
おそらく彼は、今日の分の仕事を埋め合わせるために当分の間は残業が続くだろう。
「ううっ、マメ橋。 貴様の仇はかならず!!」
全員が静かに黙祷をささげる。
「まって、俺、死んで無いんだけど? 大事だからもう一度言うよ? 死んで無いんだけど?」
だが、二度目で耐性がついたのか、マメ橋はすぐに正気に戻ったようで、ぼんやりした表情ではあるものの、ゆっくりと上体を起こして存在感を主張する。
「あなたの犠牲は無駄にしませんっ! とりあえず、この間の映画のチケット代は払わなくてもいいと言う事で」
「待て! 年末で財布が苦しいのは俺も同じだから!」
ハンカチで涙をぬぐいながら借金を踏み倒す女性にすばやくツッコミを入れ、
「残されたユリさんは俺が幸せに……」
「待て! 誰がお前にくれてやるか!」
拳を握り締めて勝手なことを言う男の後輩の尻を蹴り飛ばす。
皆が口元だけで笑いながらそんなことを繰り返ていた。
全員から遠慮なく絡まれるあたり、マメ橋はどうやらかなり愛されているらしい。
まぁ、愛され方にもよるから羨ましいかと言われれば首をかしげるが。
その頃、件のモンスターはと言うと……
「ふむ、君はなかなか器用だな」
「にゃー」
袴田課長の肩と首筋を、その肉球で優しく揉みほぐしていた。
「ありがとう。 かなり楽になったよ。 ところで、向こうの彼はもしかして君のお迎えかね?」
「にゃー」
袴田が、オフィスの入り口で呆然としている男性に視線を向けると、黒猫はピンと尻尾を立てながら、その人物のほうに走り寄った。
「あぁ、一つ気になったんだが」
去り行くその背中に、袴田が質問を投げかけた。
「そのシッポの飾りは趣味かね?」
「うなぁー」
黒猫は不機嫌そうに低く唸ると、そのシッポの先についた飾りを口で剥ぎ取り、ポイと地面に投げ捨てた。
「き、きたっ! こんどこそ……あれ?」
身構える社員を悠々とすり抜け、黒猫はその向こうにいる一人の巨漢の元へと優雅に駆け寄る。
「は、ハルコさん。 迷惑だから帰りますよ? まったく、どうして急にいなくなっちゃったんですか?」
「にゃーん」
大人しく巨漢の腕に抱かれると、黒猫は甘えた声をあげて体を摺り寄せる。
「「え?」」
そのあっけない結末に、呆然とする社員一同。
「う、ウチのハルコさんが、ご迷惑をおかけしました。 こ、これ、よろしかったら、その……みなさんで、く、食い散らかせ……じゃなくて、めし、めしつかいそうろう……の……あ……その、どうぞ」
対人恐怖症で言葉に詰まりながら、猫を抱えた巨漢――楓太郎は、手荷物の中から箱にぎっしりと詰まった一口サイズのタルトを差し出した。
「「きゃあっ!」」
歓声を上げたのが全て女性社員だったのは、やはり仕方があるまい。
甘いものが苦手な男性社員はとりあず見た目が綺麗だな……程度の反応だが、女性社員は早くもどれを食べるかに夢中でキャアキャアと黄色い声をあげている。
「……はぁ」
代表して清水が受け取ると、楓太郎はバスケットを広げて黒猫をその中に押しやった。
「あの、その、これにて失礼……しやがったです」
緊張でガチガチになった顔で奇妙な日本語を唱えると、巨漢はカクカクとした動きで一礼し、いそいそとオフィスを去っていった。
アニメプリントのされた、呪いのヘアバンドをオフィスの床に残して。
「なんか、あっけない最後でしたネ」
小柄な女子社員の呟きに、全員が力なく頷いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ひどい目にあいましたね、ハルコさん」
オフィスを出ると、楓太郎はバスケットの蓋を少し開け、私にむかって囁いた。
「でも、ハルコさんが食い意地張ってるから悪いんですよ?」
「うなぁーう」
なによー 女の子に食い意地張ってるとか言わないでよ! 失礼でしょ?
ちょっとお腹がすいただけじゃないっ!!
それに、退屈だったのよー
あの会社も、カップルばっかりで、一人でいると身の置き場無かったしー
「さ、家に帰りますよ。 孝臣さんが、今頃首をながーくしてまってますから」
「うなー」
あー ちょっと帰る気うせたかも。
私は帰宅したときに待っているであろう孝臣の熱烈なスキンシップを想像し、げんなりとした声をあげた。
「はいはい、そんな嫌わないであげくださいね。 ひねくれているけど、悪い人じゃないんですから」
いや、それはアンタに対してだけだから。
あいつ、結構腹黒くて裏表あるのよ?
……ほんとは気づいているくせに。
気づかないフリも友情ってわけ?
「ハルコさんがいない間、面白い男の子が来たりしてにぎやかだったんですよ? ハルコさんがいないのがとても残念でした」
ふーん。 そうなんだ? こっちも色々とあったよ。
楓太郎のご飯がなかったから、ちょっと不満だったけどね。
目を閉じると、12月の冷たい風に混じって楓太郎から漂うオリーブオイルの香り。
あぁ、すごく落ち着く。
「なぁう」
やっぱり、私の居場所はここしかないわ。
待ち遠しい我が家を思い浮かべながら、私は再びまどろみに落ちた。
花は野に、鳥は森に帰るがごとく、猫は憩いの我が家へと帰る。
すべて世はこともなし。