赤い土に、君を描く
「動かないで」
ミコンにそう言われたので、クレイオは持ち上げかけた手を止めた。
「さっきからずっと立っているのよ。少しくらい動いてもいいでしょう?」
「駄目だ。今ちょうど腕を描いている。君が勝手に動いたら、花嫁の腕が三本になる」
「それは困るわね」
クレイオは仕方なく、もう一度同じ姿勢に戻った。
工房には土と煙のにおいが満ちていた。外では父のニキアスが職人たちと話しており、その向こうでは焼く前の壺がいくつも日に当てられている。
アテナイの町では、どこへ行っても土で作った物を見る。
酒を入れる壺。
水をくむ器。
油を入れる小さなびん。
神々へささげるための器。
人が生まれてから死ぬまで、土はいつも人のそばにある。
そして結婚にも、土の器が使われた。
今ミコンが絵を描いているのも、婚礼のための壺だった。
赤い土でできた壺の上に、細い筆が走っていく。
焼けば黒くなる部分へ絵の具をのせ、人物の肌や衣服の一部には赤い土の色を残す。
そこに描かれているのは、婚礼を迎える一人の少女だった。
「ねえ、ミコン」
「何だ」
「その女、私に似ていない?」
筆が止まった。
「似ていない」
「似ているわ。鼻の形まで同じだもの」
「アテナイの女にはよくある鼻だ」
「そんなわけないでしょう」
クレイオが笑うと、ミコンは困ったように息を吐いた。
二十歳になったミコンは、いつの間にか父親より背が高くなっていた。日差しの下で仕事をしているせいか肌は焼け、右手の指にはいつも黒い絵の具がついている。
幼いころから何度も見てきた手だった。
クレイオの父ニキアスは、このケラメイコスの外れで陶器を作り、売っている。
ミコンの父も同じ工房で働いていた。
だから二人は、子どものころから一緒だった。
「本当に私じゃないの?」
「違う」
「では誰?」
「知らない女だ」
「知らない女を、そんなに何日も見ながら描けるものなの?」
「うるさいな。動くなと言っただろう」
「やっぱり私を見て描いているじゃない」
ミコンは答えなかった。
代わりに筆を水へ入れ、少しだけ先を整えた。
その横顔を見ながら、クレイオは笑うのをやめた。
もう、こうしてここに立てる日も多くない。
「婚礼の日が決まったの」
ミコンの手が止まった。
今度はごまかさなかった。
「いつだ」
「七日後」
工房の外では、誰かが大きな壺を運んでいる。子どもが走り、遠くから荷車の音が聞こえた。
町は何も変わらない。
クレイオが七日後に結婚しても、アテナイは昨日と同じように動いていくのだろう。
「そうか」
「それだけ?」
「他に何を言えばいい」
「分からない。でも、もう少し何かあると思っていたわ」
ミコンは筆を置いた。
そして、ようやくクレイオを見た。
「俺はその話を聞いて、何を言えばいいんだ。おめでとうと言えば君は喜ぶのか。それとも行くなと言えば、君は結婚をやめられるのか」
いつもより低い声だった。
「どちらも嫌だわ」
「だから何も言わなかった」
クレイオは返事をしなかった。
婚礼の壺に描かれた花嫁が、二人の間にいる。
顔はまだできていない。
それなのに、その女が自分だということだけは分かった。
結婚相手は、フィロンという男だった。
クレイオより十一歳年上で、父と同じアテナイ市民の家に生まれている。オリーブ油を扱う商いをしており、すでに父親から家の仕事の多くを任されていた。
顔を合わせたのは、これまでに四度。
悪い男ではない。
むしろ父が探せる相手としては、かなり良い方なのだろう。
「持参金についても話はついている。お前が向こうで困ることはない」
その日の夕食で、父はそう言った。
「フィロンの家は商いも安定している。母親もしっかりした人だ。お前をひどく扱うような家ではないし、私もそういう家へ娘をやるつもりはない」
「分かっています」
「なら、なぜそんな顔をする?」
クレイオは自分の顔に触れた。
「どんな顔?」
「昔から、お前は何か言いたい時だけ口を少し曲げる」
「お父様はよく見ているのね」
「娘だからな」
父はパンをちぎり、オリーブ油につけた。
クレイオは十七歳だった。
友人の中には、すでに結婚して子どもを産んでいる者もいる。
父が結婚相手を決めることも、持参金を用意することも、おかしなことではない。
むしろ父は、ずいぶん時間をかけて相手を選んでくれた。
「嫌なのか?」
「フィロン様が嫌なわけではありません」
「それなら何だ」
クレイオは少し迷った。
「もし、私が結婚したくないと言ったら?」
父はすぐには答えなかった。
娘を怒るでもなく、驚いた顔をするでもなく、ただ手にしていたパンを皿へ戻した。
「理由による」
「理由が、ただ嫌だからだったら?」
「それなら困る。結婚はお前一人の話ではないからだ。向こうの家ともすでに話が進んでいるし、持参金も用意した。今になって理由もなくやめれば、フィロンの家にも迷惑をかける」
「では、理由があれば?」
「相手に大きな問題があるなら考える。だが私の知る限り、フィロンにそのような問題はない」
正しい答えだった。
だから苦しかった。
「……そうね」
「クレイオ」
父の声が少しやわらかくなった。
「お前はフィロンではない誰かを好いているのか?」
クレイオは顔を上げた。
父はまっすぐこちらを見ていた。
「どうしてそう思うの?」
「十七年間父親をやっているからだ。お前が七歳の時、蜂蜜菓子を盗み食いしたことも見抜いた」
「今、その話は関係ないでしょう」
「では、いるんだな」
逃げられなかった。
クレイオはしばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
「ミコンか」
「……どうして分かるの?」
「だから父親を十七年やっていると言っただろう」
クレイオはうつむいた。
父が怒ると思った。
けれど、しばらくして聞こえたのは深いため息だった。
「ミコンは悪い青年ではない。仕事も真面目だし、腕もいい。人としてなら、私はあの子を嫌っていない」
「だったら」
「だが、あの子はアテナイ市民ではない」
分かっていた言葉だった。
それでも、父の口から聞くと重かった。
ミコンの父は、海の向こうからアテナイへ移ってきた人だった。
家族はもう長いことこの町で暮らしている。税を納め、工房で働き、祭の日には同じ神々へ祈る。
ミコン自身はアテナイで生まれた。
この町の道しか知らず、この町の言葉を話す。
それでも、市民ではない。
「ここで一緒に暮らしているのに?」
「暮らしていることと、市民であることは別だ」
「ミコンは戦争になればこの町のために働くでしょう。税だって払っている。それでも?」
「それでもだ」
「変だわ」
「そう思っても、私には法を変えられない」
父は怒らなかった。
そのことが、かえってクレイオを苦しくさせた。
「市民の家の娘と外国人が夫婦として暮らせば、ただ二人だけの問題では済まない。まして子どもが生まれれば、もっと話が難しくなる。お前も知っているだろう」
「知っています」
「なら、私に何を言わせたい?」
クレイオは答えられなかった。
父も少し黙ってから続けた。
「私だって、お前が嫌がる男のところへ無理に送りたいわけではない。だが、好きなら何でも許されると言ってやることもできない。父親として、お前がこの町で生きていける道を考えなければならないんだ」
クレイオは膝の上で手を握った。
「みんな、私のためなのね」
「ああ」
「お父様も、きっとミコンもそう言うのでしょうね」
「何の話だ?」
「いいえ。何でもありません」
クレイオは笑った。
けれど父の言う通り、口元が少し曲がっていたと思う。
三日後、フィロンが家を訪れた。
婚礼前のあいさつと、父との最後の話し合いのためだった。
クレイオも短い時間だけ同席した。
「婚礼が近づくと、女性は準備が大変だと母から聞いています。何か困っていることはありませんか」
フィロンは落ち着いた男だった。
大きな声を出さず、クレイオが話す時には口をはさまない。
「今のところは大丈夫です。ただ、ずいぶん物が増えました。私は結婚するだけなのに、家を一軒建てるのかと思うくらいです」
「うちの母も同じことを言っていました。すでに何度も部屋の布を変えています。あなたを迎えるのに色が暗い、明るすぎる、やはり最初の方が良かったと、毎日意見が変わっているようです」
「それなら最初のままにしておけばよかったのに」
「私もそう言いましたが、母には言わないでください。叱られるのは私なので」
クレイオは思わず笑った。
フィロンも少し笑った。
嫌な人ならよかったのに、とクレイオは思った。
傲慢で、女を物のように扱い、酒におぼれ、使用人を平気で殴るような男だったなら、父にも嫌だと言えただろう。
けれどフィロンは、そうではない。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「もちろんです」
「結婚したあと、私は父の工房へ来てもいいのでしょうか」
フィロンは少し考えた。
「毎日というのは難しいでしょう。家のことも覚えてもらわなくてはいけませんし、母もあなたに教えたいことがあると思います。ただ、父上に会いに来ることまで私が止めるつもりはありません」
「陶器を見るのも好きなのです」
「聞いています。ニキアス殿から、娘は壺を見ると食事を忘れることがあるので気をつけてほしい、と言われました」
「お父様」
父が目をそらした。
フィロンは笑った。
「家にもいくつか良い器があります。あなたが気に入るものもあるかもしれない。私には違いがあまり分からないので、その辺りは教えてもらえれば助かります」
やはり、悪い人ではない。
話していて苦痛でもない。
この男の家へ行けば、おそらくクレイオは妻として暮らしていける。
子どもを産み、布を織り、家を守る。
祭の日には外へ出て、父の家にも時々戻る。
きっと、ひどく不幸にはならない。
「フィロン様」
「はい」
「もし私が、あなたではない誰かを好きだったら、どうなさいます?」
父が息を飲んだ。
「クレイオ」
「お父様、少しだけ聞かせてください」
フィロンはすぐには答えなかった。
怒るでもなく、ただクレイオの顔を見ていた。
「その相手と結婚できるのですか?」
「……いいえ」
「では、その人と逃げたいと思っていますか?」
「それも分かりません」
「そうですか」
フィロンは静かにうなずいた。
「正直に言えば、うれしい話ではありません。私も結婚するなら、できれば妻には私を好いてほしい。ただ、私たちはまだ四度しか会っていないので、今すぐ私を愛せと言う方が無理でしょう」
「怒らないのですか?」
「怒ったら、その相手を忘れられるのですか?」
クレイオは答えられなかった。
「なら、怒るだけ無駄です。ただし、結婚したあともその人と夫婦のような関係を続けると言われれば、私は受け入れられません」
「それは当然だと思います」
「では、婚礼までに決めてください」
「何を?」
「私の家へ来るかどうかです」
フィロンはそこで初めて、少し苦い顔をした。
「あなたのお父上や私の家が何を望んでいるかではなく、少なくとも最後の一歩くらいは、あなた自身で決めた方がいいでしょう。来ると決めたなら、私はあなたを妻として迎えます。ただ、誰かに引きずられて来た人と一生暮らすのは、私も困りますから」
クレイオは何も言えなかった。
父も黙っていた。
良い男すぎる。
ますます困った。
婚礼まで、あと二日。
夕方になって職人たちが帰ったあと、クレイオは工房へ行った。
ミコンは一人で残っていた。
例の婚礼用の壺は、ほとんど完成している。
赤い土の上に黒い絵が広がり、その中央に一人の花嫁がいる。
女たちに囲まれ、これから夫の家へ向かおうとしている花嫁だった。
「できたの?」
「まだ焼いていない」
「絵は?」
「終わった」
クレイオは壺の周りをゆっくり歩いた。
「やっぱり私だわ」
「まだ言うのか」
「だって私だもの。この髪のまとめ方、昨日私がしていたのと同じじゃない」
「よくある髪だ」
「アテナイの女はみんな私と同じらしいわね」
ミコンは笑わなかった。
クレイオも、しばらくして黙った。
「フィロン様に会ったわ」
「ああ」
「良い人だった」
「そうか」
「少しくらい嫌そうな顔をしてくれてもいいでしょう?」
「嫌だよ」
思ったより早い答えだった。
クレイオは彼を見る。
ミコンは壺から目を離さないまま続けた。
「そいつが最低な男なら、俺はもっと嫌だ。君がそんな男の家へ行く方がよほど困る。良い男なら良い男で腹が立つけど、君がひどい扱いをされるよりはいい」
「面倒ね」
「自分でもそう思う」
「私、フィロン様に聞かれたの。あなたと逃げたいかって」
そこでようやくミコンが振り返った。
「何て答えた?」
「分からないって」
「そうか」
「また、それだけ?」
「では聞く。逃げたいのか?」
クレイオは口を開いた。
でも言葉が出なかった。
ミコンは待った。
「……あなたと一緒にいたい」
「ああ」
「でも、お父様とも別れたくない。私はこの町も嫌いではないし、祭の日も好き。家の中庭も、工房も、毎朝向かいの家から聞こえる赤ん坊の泣き声まで、なくなったらきっと寂しいと思う」
話しているうちに、声が震えた。
「全部捨てればあなたといられる、と言われても、私はたぶんすぐにはうなずけない。それって、あなたを愛していないということなの?」
「違う」
ミコンはすぐに答えた。
「少なくとも俺は、そうは思わない」
「では、あなたは私に逃げようと言わないの?」
「言えるわけないだろう」
「どうして?」
「俺は君を連れて町を出ることはできる。ピレウスまで行って船に乗れば、アテナイから離れることだってできる。でも、そのあと君が失ったものを俺は戻せない」
ミコンの声は静かだった。
「父親も、家も、この町での立場も、全部捨てろと言うなら、その重さを俺も背負えるふりをしなくちゃならない。でも実際に失うのは君だ。俺は最初から市民じゃないから、失うものが同じじゃない」
「だから私のために言わない?」
「そうだ」
クレイオは笑った。
「やっぱり」
「何が?」
「お父様もそうだった。私のためだって」
「ニキアス様と俺を一緒にするなよ」
「一緒よ。みんな私のためと言って、私より先に考え終わってしまうの」
ミコンが黙った。
「父は家のため。あなたは私のため。フィロン様まで、私自身で決めろと言ったわ」
「それなら決めればいい」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃない。だから俺にも決められないんだろう」
クレイオは言い返そうとして、やめた。
ミコンの目も少し赤かった。
彼だって苦しいのだ。
自分ばかりが選ばされているような気持ちになっていたけれど、ミコンには最初から選べない道がある。
「ミコン」
「何だ」
「私たちが結婚できないこと、腹が立たない?」
「毎日腹が立ってる」
クレイオは少し笑った。
「よかった。私だけじゃなかったのね」
「よくないだろ」
「でも、少し安心した」
ミコンもようやく笑った。
それからクレイオは、もう一度壺を見た。
「どうして私を描いたの?」
今度はミコンも否定しなかった。
長い間、壺を見ていた。
「忘れたくなかったからだと思う」
「私の顔を?」
「今の君を」
ミコンは指先で、まだ焼いていない土の表面をなぞった。
「結婚したら、君は今とは違う家の女になる。服も変わるし、髪も変わる。子どもが生まれたら、今みたいにふらっと工房へ来ることもなくなるかもしれない」
「それで?」
「だから、俺が知っている君を描いた」
「花嫁なのに?」
「花嫁だからだ」
クレイオには、その意味がすぐには分からなかった。
「でも、この絵の女には名前がないわ」
「神や英雄を描いたわけじゃないからな」
「なら、書いて」
「何を?」
「クレイオって」
ミコンは首を振った。
「書かない」
「どうして?」
「誰かに見つかったら困る」
「何百年もたったあとなら、誰も怒らないわよ」
「何百年も残るつもりか、この壺」
「土の器でしょう? 残るかもしれないじゃない」
ミコンは少し考えた。
「それでも書かない」
「けち」
「書かなくても、俺には分かる」
「あなたが死んだら?」
「その時は、誰にも分からなくなる」
クレイオは少し寂しくなった。
「それでいいの?」
「ああ」
ミコンは壺を見ながら言った。
「誰にも分からなくても、一度ここにいたことまで消えるわけじゃない」
婚礼の前の日。
クレイオは、フィロンの家へ行くと父に伝えた。
父は目を閉じ、それから長く息を吐いた。
「そうか」
「怒らないの?」
「なぜ怒る。私が望んでいた答えだ」
「少しくらい迷ってください。私がものすごく悩んだのが馬鹿みたいでしょう」
「では、ものすごく悩んだ顔をしておこうか」
「もういいです」
クレイオが笑うと、父も笑った。
「本当にいいのか?」
その問いには、すぐ答えられた。
「分かりません」
「分からない?」
「この選択が正しかったかなんて、今の私には分からない。でも、行くと決めました」
父はしばらく娘を見ていた。
「それでいい」
「お父様がそう言うの?」
「正しいかどうかは、神々でもなければ後にならないと分からん。私に分かるのは、お前が昨日までより少しすっきりした顔をしているということだけだ」
クレイオは父の手を握った。
子どものころより、ずいぶん固い手になったように思った。
婚礼の日。
朝から家には女たちが集まり、クレイオの髪を整え、服を用意し、何度も飾りを直した。
婚礼のための水を入れる細長い壺も置かれている。
家の中が自分のために動いているのに、クレイオだけがどこか遠くにいるような気持ちだった。
夜になれば、たいまつを持った人々と一緒にフィロンの家へ向かう。
父の家を出て、夫の家へ入る。
何度も他人の婚礼で見てきたことを、今度は自分がする。
日が傾き始めたころ、父が部屋へ入ってきた。
「クレイオ。これを」
大きな布に包まれた物を、二人の男が運んでくる。
形を見ただけで分かった。
「……まさか」
布を外す。
そこにあったのは、ミコンが描いていた婚礼用の壺だった。
焼き上がった土は明るい赤になり、その上に黒い絵がはっきり浮かんでいる。
「今日の朝、ミコンが持ってきた。婚礼の祝いだそうだ」
「本人は?」
「もう帰った」
「どうして」
「本人に聞け」
「聞けないから言っているのよ」
父は少し困った顔をした。
「工房へ戻ればいるだろう。ただし、もうすぐ行列が始まる」
クレイオは壺を見た。
花嫁の顔は、やはり自分だった。
その周りには女たちがいて、たいまつが描かれている。
花嫁はこれから夫の家へ向かう。
クレイオは壺を回した。
「……あ」
「どうした?」
「ここ」
反対側の絵。
婚礼を見送る人々の端に、一人の青年が立っていた。
とても小さい。
知らなければ、ただの見物人だと思うだろう。
でもクレイオには分かった。
少し癖のある髪。
肩の形。
絵の具で汚れたように描かれた右手。
ミコンだった。
花嫁と青年は、手をつないでいない。
見つめ合ってもいない。
花嫁は前を向いている。
青年は少し離れたところから、その背中を見ている。
「馬鹿」
「何だ?」
「お父様ではありません」
涙が出た。
婚礼の日だから泣いているのだと、周りは思ったかもしれない。
間違いではない。
ただ、理由は少し違った。
「お父様。少しだけ待っていただけますか」
「どこへ行くつもりだ?」
「工房です」
「今から?」
「今しかありません」
父は外を見た。
すでに、たいまつを用意する人々が集まり始めている。
「日が落ちるまでに戻れ」
「はい」
「走るな。婚礼の服で転んだら、フィロンに何と言えばいいか分からん」
「分かっています」
クレイオは服のすそを持ち上げた。
そして、走った。
「走るなと言われたでしょう!」
後ろから女たちの声がしたが、聞かないことにした。
石の道を抜け、工房へ向かう。
婚礼の服を着た女が一人で走っているので、道を歩く人々が驚いて振り返った。
それでも走った。
工房の入り口には誰もいなかった。
奥へ入ると、窯の近くにミコンがいた。
「ミコン!」
彼が振り返った。
クレイオの姿を見て、目を見開く。
「何でここにいるんだ。もう婚礼が始まるだろ」
「壺を見たわ」
「そうか」
「見たの?」
「何を」
「自分で描いたくせに!」
息を切らしながらクレイオは彼の前まで行った。
「どうしてあなたまで描いたの?」
ミコンは目をそらした。
「描きたかったから」
「私の名前は書かないのに?」
「俺の名前だって書いてない」
「そういう話じゃないでしょう」
言いたいことがたくさんあった。
怒りたかった。
泣きたかった。
このまま連れていってと言ってみたかった。
けれど、どれも違う気がした。
「私、フィロン様の家へ行くわ」
「ああ」
「止めないの?」
「昨日までに止められなかったんだから、今日になって止めても遅い」
「そうね」
「……でも、行ってほしくない」
クレイオは息を止めた。
ミコンは初めて、はっきりそう言った。
「君が行ったあと、この工房に来なくなるのも嫌だ。誰かの妻になるのも嫌だし、君に子どもができて、その子を抱いてここへ来るのを想像するのも嫌だ」
「ミコン」
「でも、それでも行くと決めたんだろ」
「ええ」
「なら、行け」
クレイオの目から涙が落ちた。
「本当に嫌な男ね」
「知ってる」
「好きな女の婚礼に、自分まで描いた壺を贈るなんて」
「最後くらい許せ」
「最後にするつもり?」
ミコンが黙った。
クレイオは涙をぬぐった。
「私はフィロン様の妻になる。だから、今までと同じようには会えない。それは分かってる。でも、あなたまでこの世から消えるわけじゃないでしょう」
「ああ」
「私も消えない」
「ああ」
「だったら勝手に最後にしないで」
ミコンはしばらくクレイオを見ていた。
「君は本当に面倒だな」
「あなたに言われたくないわ」
二人とも少し笑った。
クレイオは窯の近くに積まれた赤い土を見た。
「ねえ、ミコン」
「何だ」
「いつか私の顔を忘れる?」
「忘れないと言ったら、きれいな話になるんだろうな」
「正直に答えて」
「たぶん少しずつ忘れる。目の色とか、声とか。年を取れば、今の君の顔だって分からなくなるかもしれない」
「そう」
「でも、それでいいと思う」
「どうして?」
ミコンは指先についた赤い土を見た。
「だから描いた」
クレイオは笑った。
それから一歩近づき、ミコンを抱いた。
ほんの短い間だった。
ミコンの腕も、ゆっくりクレイオの背中へ回った。
何年も一緒にいたのに、こんなふうに触れたのは初めてだった。
「さようならは言わないわ」
「言わなくていい」
「でも、行ってきます」
ミコンの腕が少し強くなった。
「ああ」
そして離れた。
「行ってこい、クレイオ」
その夜、たいまつがアテナイの道を照らした。
クレイオは婚礼の行列の中にいた。
歌う声。
足音。
燃える油のにおい。
人々の笑い声。
前にはフィロンがいる。
その先には、これから自分が暮らす家がある。
振り返れば、遠くに父の家がある。
工房もある。
ミコンもいる。
全部を持っていくことはできない。
何かを選ぶということは、選ばなかったものが消えることではない。
ただ、そこへ続く道を自分から閉じることなのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
フィロンが声をかけた。
クレイオは顔を上げる。
「泣いているように見えますか?」
「少し」
「婚礼の日ですもの。泣いてもいいでしょう?」
「もちろんです。私と結婚するのが嫌で泣いているのでなければ、ですが」
クレイオは少し考えた。
「違います」
「なら安心しました」
「フィロン様」
「はい」
「私、あなたを愛しているとはまだ言えません」
フィロンは少し驚いたあと、苦笑した。
「婚礼の途中で言う話としては、なかなか厳しいですね」
「でも、あなたの家へ行くことは自分で決めました」
クレイオはまっすぐ彼を見た。
「だから、これからあなたのことを知りたいと思っています。それでは駄目でしょうか」
フィロンは少しの間考えた。
「それなら私も、一つ正直に言います」
「何です?」
「私はあなたと四度会っただけなので、あなたを愛していると言えばたぶん嘘になります。ただ、もう少し話したいとは思っています」
クレイオは笑った。
「では、お互い同じですね」
「そういうことにしておきましょう」
たいまつの火が揺れた。
行列は進んでいく。
クレイオはもう振り返らなかった。
それから長い時間が流れた。
クレイオはフィロンの妻として暮らした。
二人の間には子どもも生まれた。
最初から愛し合う夫婦ではなかったが、一緒に暮らしていくうちに、少しずつ相手のことを知った。
フィロンは眠る時に必ず右を向く。
雨の日は昔折った足が痛む。
商いで大きな失敗をすると、誰にも見つからない場所で一人で甘い菓子を食べる。
クレイオが工房へ行く日は、口では何も言わないのに少しだけ早く帰ってくる。
「私がいないと寂しいの?」
ある日そう聞くと、フィロンは少し考えてから答えた。
「最初のころは静かで良いと思っていました。でも最近は、あなたがいないと家が静かすぎる気がします。だから寂しいということでいいのでしょう」
「ずいぶん遠回りな言い方ね」
「あなたに言われたくありません」
二人で笑った。
愛というものが何なのか、クレイオには結局よく分からなかった。
十七歳のころミコンへ向けていた気持ちと、何年も暮らしたフィロンへ抱く気持ちは、同じ名前で呼んでいいものなのかも分からない。
けれど、どちらも嘘ではなかった。
ミコンとも何度か会った。
父の工房を訪ねれば、彼は相変わらず土にまみれていた。
最初の数年は、顔を合わせるたびに胸が痛んだ。
そのうち、痛み方が少し変わった。
彼にも妻ができた。
相手は、同じようにアテナイで暮らす外国人の家の娘だった。
その話を聞いた夜、クレイオは少し泣いた。
でも翌月工房で彼の妻と会った時には、普通にあいさつができた。
とてもよく笑う女性だった。
ミコンには合っていると思った。
それが少し悔しかった。
そして少しうれしかった。
父が亡くなったあと、工房は別の人の手へ渡った。
ミコンも年を取り、筆を持つ時間が減った。
ある年の春、クレイオは久しぶりに彼を訪ねた。
二人とも、もう若くはなかった。
「まだあの壺を持ってるのか」
「もちろん。婚礼の祝いですもの」
「割れなかったんだな」
「あなた、自分で作った物を何だと思っているの?」
「壺は割れるものだ」
「縁起でもないこと言わないで」
昔と同じようなやり取りだった。
ただ、ミコンの髪には白いものが増えている。
クレイオの手にも、若いころにはなかったしわがある。
「ねえ」
「何だ」
「私の顔、忘れた?」
ミコンはしばらくクレイオを見た。
「十七歳の君がどんな顔だったかは、もうよく分からない」
「ひどい」
「正直に言えと言ったのは君だろ」
「何十年前の話よ」
クレイオは笑った。
ミコンも笑った。
「でも、壺を見れば分かる」
「何が?」
「あのころ俺が君を好きだったことは、分かる」
クレイオは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「それなら、描いておいてよかったわね」
「ああ」
外にはアテナイの空が広がっていた。
若いころと同じ空だった。
でも、そこで暮らしている人間は少しずつ入れ替わっている。
神殿も、道も、石の壁も残る。
人の名前だけが少しずつ消えていく。
「私たちの名前も、そのうち誰も知らなくなるのかしら」
「なるだろうな」
「少しくらい残したかった?」
「昔は思った。今は別にいい」
「どうして?」
ミコンは少し考えた。
「生きたから」
それだけだった。
でもクレイオには、よく分かった。
二千年以上が過ぎた。
白い壁の博物館。
ガラスの向こうに、一つの赤い壺が置かれている。
表面には、婚礼へ向かう若い女が描かれていた。
たいまつを持つ女たち。
花嫁を囲む人々。
その反対側には、婚礼を見送る小さな青年の姿がある。
展示の横には短い説明があった。
『アッティカ 赤絵式婚礼用陶器
紀元前四世紀
作者不詳
婚礼へ向かう女性と、周囲の人々を描いたものと考えられる。
描かれた人物については不明』
一人の少女が、ガラスの前で足を止めた。
「ねえ、この端にいる男の人、誰?」
隣にいた母親が説明を読む。
「分からないみたい。昔の人だから、名前は残ってないんだって」
「花嫁さんのこと見てるよ」
「そうね」
「好きだったのかな」
母親は少し笑った。
「どうでしょうね。二千年以上も前のことだから」
二人はしばらく壺を見て、それから次の展示へ歩いていった。
ガラスの中には、名前のない花嫁と、名前のない青年だけが残った。
彼女がクレイオだったことを、今はもう誰も知らない。
青年がミコンだったことも。
二人が同じ町で育ち、同じ土のにおいを知り、一度だけ工房で抱き合ったことも。
クレイオが別の男と結婚し、その人生を生きたことも。
ミコンが彼女を忘れたくなくて、赤い土の上に描いたことも。
歴史には残っていない。
それでも壺には、二人がいる。
花嫁は前を向き、青年はその少し後ろにいる。
触れてはいない。
夫婦でもない。
名前さえない。
けれど二千年以上の時を越えて、今も同じ赤い土の上に描かれている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、古代アテナイの婚姻や市民制度、陶器、婚礼などを参考にしながら、歴史には名前の残らなかった人々の恋を想像して書きました。
今も残る一枚の陶器にも、それを作った人や使った人、それぞれの人生があったのだろうと思います。記録には残らなくても、誰かを好きになったり、別れたり、迷いながら生きた人たちは確かにいたはずです。
先日、映画『オデュッセイア』も鑑賞しました。本作とは時代や内容は異なりますが、古代ギリシャの世界に触れる作品として、とても印象に残りました。
すでにご覧になった方がいらっしゃいましたら、ぜひ感想をお聞かせいただければうれしいです。




