君を想うには、永遠でも足りない
銀色の月が、静かに墓所を照らしている。
人里離れた丘の頂。そこには、古びているが丁寧に手入れされた小さな墓石がある。
その前に立つ男は、月光を反射する白銀の髪と天を指す尖った耳を持っていた。
人間ではない、エルフの血を引く者のそれだ。
エルフの名はアルヴィス。彼はその場に跪くと、手に持っていた白いリンドウの花をそっと置いた。
「また来たよ、リーナ」
彼は、墓石を愛おしそうに撫でる。
指先に伝わる冷たい石の感触が、かつて触れた彼女のあたたかな肌を不意に思い出させた。
アルヴィスの外見は、リーナと初めて出会った百年前から何一つ変わっていない。
若々しく滑らかな肌と、深い森のような翠色の瞳。
だが石の下に眠る彼女は、白くなった髪と幾重もの皺を抱え、とうにその短い生涯を終えている。
「君がいなくなってからずっと、風の音が寂しく聞こえるんだ」
アルヴィスは目を閉じて、記憶の奔流に身を任せる。
そこには、止まった時を生きる者と駆け抜ける時を生きる者が、奇跡のように重なり合った日々があった。
二人の出会いは、エルフの森の境界線だった。
若き(と言ってもエルフの尺度でだが)アルヴィスは、一族の『人間と関わってはいけない』という厳格な教えに退屈し、結界の際まで散歩に出ていた。そこで、薬草を摘みに来た人間の少女、リーナと出会ったのだ。
「わぁ…… 本当に耳が尖っているのね! あなた、お伽話に出てくるエルフさんよね?」
それが、当時十二歳だった彼女の第一声だった。
恐れることも媚びることもなく、リーナは曇り空を吹き飛ばすような眩しい笑顔で近づいてきた。
アルヴィスは大いに戸惑った。エルフの里の民たちは皆、静謐で感情を湖の水面のように穏やかに保つ。
これほどまでに騒がしく、くるくると表情を変える生き物を彼は知らなかったのだ。
「今すぐ立ち去れ。ここは君の来るべき場所じゃない」
「もう、冷たいなぁ……私はリーナ。ねえ、エルフさんはなんてお名前?」
強引な彼女のペースに巻き込まれて、気づけば二人は言葉を交わすようになっていた。
アルヴィスにとって、リーナとの時間は驚きの連続だった。彼女は一日に三度も食事をし、夜になれば泥のように眠り、たった一晩で花冠を編む技術を覚え、次の日にはまた新しい何かに夢中になっていた。
「君は、どうしてそんなに急いでいるんだ?」
「だって一日は短いもの。もたもたしてたら美味しいものを食べる時間がなくなっちゃうわ!」
リーナは笑いながら、アルヴィスの口に真っ赤な野いちごを放り込んだ。
甘酸っぱい果実の味が口いっぱいに広がる。
その瞬間、アルヴィスは生まれて初めて、自分が生きてきた永遠にも似た静寂を、ひどく味気ないものに感じたのだ。
二人が恋に落ちるのは自然なことだった。
十八歳になったリーナは、見違えるほど美しく蕾が花開くような女性へと成長を遂げる。
アルヴィスは故郷の森を捨てて、彼女の住む村の近くに小さな庵を構えた。
一族からは裏切り者と呼ばれたが、彼女のいない永遠に、もはや価値を感じられなかったのだ。
しかし、愛が深まるほどに、種族の壁は嫉妬や不安となって二人の間に影を落とす。
収穫祭の夜、村の若者たちと彼女がダンスを踊るのを見て、アルヴィスは言いようのない焦燥感に駆られた。
自分は弓も魔法も使える。けれど、リーナと同じように老いていくことはできない。
「リーナは、どうして彼らと……あんなにも、楽しそうに踊るんだ?」
帰りの道すがら、思わず口をついた言葉はとても子供じみていた。彼女は足を止め、困ったように微笑む。
「アルヴィスったら、嫉妬しているの? 気持ちは嬉しいけど、彼らはただの幼馴染よ?」
「僕には、君と今を共有することはできても、未来を同じ速さで歩むことはできない。君が……誰か別の人間と一緒になった方が、幸せなんじゃないかと思うことがあるんだ」
それは、アルヴィスが抱える最大の葛藤だった。
するとリーナは、彼の手を強く握って自分の胸に押し当てた。トクトクと確かな鼓動が伝わってくる。
「バカね、アルヴィス。私の心臓は、あなたといるとこんなにうるさくなるのよ? 確かに、エルフの時間は長いかもしれない。だけど私は、この短い一生を全部あなたにあげるって決めたの。それじゃ足りない?」
アルヴィスは彼女を抱き寄せた。ニーナの体温はとても高くて、命が燃える匂いがする。
それでも自分がどれだけ願っても、彼女の命を永遠に留めておくことはできないのだ。
今、この腕の中にある夢のような幸福が、いつか耐え難い痛みへ変わることを、彼はまだぼんやりとしか理解していなかった。
ある春の朝、アルヴィスは庭に一本の苗木を植えた。
それは、エルフの里から持ち出した銀樹の苗だ。
あの美しい銀の花をリーナにも見せたかったのだ。
「この木はね、とても美しい花が咲くんだ。きっと君も気に入ると思うよ」
アルヴィスが何気なく口にした言葉に、パンをこねていたリーナは手を止めて、窓の外の小さな苗木を嬉しそうに見つめた。
「いつ頃、花が咲くの?」
「そうだな、あと九十年……いや八十年もすれば、最初の一輪が見られるはずだよ」
アルヴィスは微笑みながら答えたが、リーナは寂しそうな顔をした。
「八十年……たぶん私は、花を見ることはできないわ」
アルヴィスは、ハッとして彼女を見た。エルフにとっての『すぐ』は、人間にとっての『一生』なのだ。
彼は改めて、その真実と痛みを理解した。
慌てて彼女の側へ駆け寄り、粉だらけの少しカサついた手を握りしめる。
「咲くか分からない花を待つのはやめる。明日、一緒に丘へ行こう。あそこには、今の時期にだけ咲く珍しい花があるんだ。君のように、凛と咲き誇る美しい花だよ」
リーナは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに顔を綻ばせて、アルヴィスの胸に飛び込んだ。
それからの二人は、季節が巡るたび、今日という日を惜しむように生きた。
野に咲く花を眺め、果実を分け合い、移ろう季節を指の隙間から零さぬように丁寧に抱きしめながら。
⸻そして、幸せな時間は矢のように過ぎてゆく。
三十代になったリーナの目尻には、小さな笑い皺が刻まれ、野山を駆け回ることも少なくなった。
四十代になると、彼女の髪には数本の白い髪が混じり始め、近くの文字が見えにくくなった。
一方アルヴィスは、リーナと出会ったあの日のまま。
残酷なほどに、美しさは損なわれない。
「ねえ、アルヴィス?」
ある秋の日の午後、暖炉の前で編み物をしていたリーナが静かに口を開く。彼女の手は、以前よりも少し骨ばって血管が浮き出ている。
「なんだい、リーナ」
「最近、鏡を見るのが嫌になっちゃうわ。あなたの隣に立つと、まるで親子みたいに見えるんだもの」
リーナの声には、冗談めかした響きの中に、隠しきれない悲哀が混じっていた。アルヴィスは椅子から立ち上がり、彼女の背後からその肩を抱きしめる。
「君は、今まで見てきたどんな花よりも、ずっと綺麗だよ。リーナ」
「嘘つき。エルフは嘘をつかないんじゃなかったの?」
「嘘じゃない。君の全てが愛おしいんだ。白い髪も絹のように美しいし、笑い皺だって可愛くて堪らない。だってそれは、二人でたくさん笑い合った証だから」
アルヴィスは、彼女の白い髪に口付けた。
けれどリーナの苦悩が消えることはなかった。
夜更け、彼が眠りにも似た瞑想に沈む間、彼女が鏡の前で薬草を試し、声を殺して涙を流していることを、アルヴィスは知っていた。
老いることは、死に向かっていることと同義だ。
リーナは『死』そのものよりも、老いていく姿が若くて美しいアルヴィスの記憶に残ることを恐れた。
それは女性としての、そして短い命を生きる人間としての痛切な矜持だった。
「ごめんね、アルヴィス。私、もっとずっと一緒にいたいのに……あなたと離れるのが、とても怖いの」
そう言ってハラハラと涙を流すリーナを、アルヴィスは壊れ物に触れるように、ただ優しく抱きしめることしかできなかった。
彼の魔法は傷や病を癒せても、時の流れを止めることはできないのだ。
リーナが八十歳を迎える頃には、彼女はほとんどの時間を寝床で過ごすようになった。
アルヴィスは、献身的に彼女の世話をした。
食事を作り、髪を梳かし、外の景色を見たいと言えば、小さな体を抱えて窓辺まで運んだ。
かつては『森の化け物』と遠巻きにしていた村人たちも、何十年もの間、一人の老女をひたむきに愛し、慈しみ続けるアルヴィスの姿に、いつしか敬意を払うようになっていった。
だがアルヴィスにとって、周囲の視線などどうでもいいのだ。称賛も畏れも何の意味もない。
ただ一日でも長く、この腕の中の細い呼吸を聞いていたかった。それだけが、永い時を生きる彼が初めて心の底から願ったことだったのだ。
冬の終わり、雪解けの音が聞こえる朝。
リーナは澄んだ瞳でアルヴィスを見上げた。
今朝は調子が良いみたいで、咳も出ていない。
「アルヴィス、私の王子様」
彼女の声は、十二歳のあの日と同じ、いたずらっぽさを孕んでいた。
「なんだい、リーナ」
「あなたにお願いがあるの。……私が死んだら、悲しまないで……なんて言わないわ。たくさん、たくさん泣いて、私のことを忘れないで?」
「当たり前だ。忘れるなんて、死んでもできない」
「……でもね、いつか長い時が経って、私の顔も名前も思い出せなくなったら……その時は、また新しい恋をしてほしいの。 だってエルフの人生は、一人の人間を愛して終わるには長すぎるもの」
突き放すようなその言葉は、リーナの精一杯の強がりだったのかもしれない。
自分がいなくなった後、アルヴィスが孤独に苛まれるのを、彼女は何よりも案じたのだ。
アルヴィスは何度も首を横に振った。こぼれ落ちた涙が、彼女の痩せ細った腕を静かに濡らす。
「嫌だ……リーナの代わりなんてどこにもいない。僕の時間は、君と出会った時に動き出して……君がいなくなってしまったら、あとは余白でしかないんだ」
リーナは力なく微笑み、最期の力を振り絞って、彼の美しい頬をなでた。
「いいえ、あなたは生きるの。美しいもの見て、美味しいもの食べて、いつか……私に、教えてくれる?」
その手をアルヴィスが握り返した時、リーナは深く、穏やかなため息をつき⸻そのまま、二度と目を開けることはなかった。
陽光が雲に隠れた後の、しじま。
アルヴィスは亡骸となった彼女を抱きしめ、獣のような慟哭を上げた。森の木々が揺れ、彼女の死を悼むように雪が舞い散る。
あれから、何十年経っただろう。
アルヴィスは今もあの丘の庵に住み続けている。
彼の姿は、相変わらず美しい。けれどその瞳には、かつてなかった深い思慮と、どこか遠くを見つめるような寂しさが宿っている。
彼は今も、リーナとの約束を守り続けていた。
世界を旅し美しい景色を見て、その土地の味を知り、それを墓前で彼女に語るのだ。
春には芽吹く新緑を。夏には降るような星空を。秋には燃えるような紅葉を。
「リーナ。今日はね、北の果てで見た忘れじのオーロラの話をしよう」
墓石に寄り添い、アルヴィスは語りかける。
エルフにとっての百年など、人間の昨日にも等しい。
彼の中のリーナは、今も鮮やかに大輪の花のように輝いている。
「君は、エルフの一生は一人の人間を愛するには長すぎると言ったけれど、それは間違いだよ。……君を想うには、千年の時間ですら短すぎるんだ」
アルヴィスは、懐から古びた手紙を取り出した。
それは、リーナがまだ元気だった頃、彼に宛てて書いた拙い字のラブレターだ。
彼の指は、慈しむようにその文字をなぞる。
「また明日、会いに来るよ」
アルヴィスは立ち上がり、一度だけ振り返って小さな墓石を見つめた。
静寂を運ぶ夜風が吹き抜け、白いリンドウの花びらがひらりと舞い上がる。
まるで彼女が「おかえりなさい」と笑ったような気がして、アルヴィスはほんの少しだけ口元を緩めた。
彼に残された永い時間は、まだ始まったばかり。
けれど、その果ての見えない歳月さえ、リーナという眩ゆい光が鮮やかに照らし続けている。
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