31.貴族とは ~頭上に降り注ぐ悪魔の瞳と失われた黄金~
――下級貴族を名乗っていた、例の下位神官の失踪。
その知らせはすぐさま神殿長の耳に入ることになった。
「クソがぁっ。あの下郎、何してくれるかっ」
神殿長ガークス・エル・ヨハンセンは、自室である神殿長室で猛り狂っていた。
少し前、子息を亡くした貴族への対応を終わらせてきたばかりだというのに、そこへ現れたシュレーゲンから事の顛末を聞かされ、沸点が限界を超えてしまったのである。
『どうやらあの男、少し前に荷物をまとめ、神殿から出ていった模様です。神官を表す制服も杖も聖典も、すべて自室に置いてありました』
つまりは自ら神官を辞し、逃亡。
しかも、シュレーゲンが調べたところ、貴族ですらなかったことが判明したのだ。
――貴族を表す証文の偽造。
前代未聞であり、あってはならない由々しき事態だった。
貴族社会が根底から覆る。
「うがぁぁっ、どいつもこいつもっ。ほんにクソの役にも立たん愚か者どもめがっ」
彼の怒りはとどまることを知らなかった。
この世で最も尊いと信じて疑わない貴族という血筋が愚弄されたのだ。
選民意識の高い彼に許せるはずがなかった。
しかも、神の祝福を誰よりも多く融通するという名目で、多くの貴族たちから多額の寄付金を巻き上げ、それらをすべて、自室の金庫に貯め込んでおいたはずだったのだ。
しかし――蓋を開けてみれば空っぽ。
当然、その中には例の、息子を失った上級貴族から巻き上げたものも含まれていた。
あの家は、かなりあくどいことをして金儲けしていることで有名で、息子もまた、どうしようもないはみ出し者として問題視されているような一族だった。
だから今回の一件でちょうどいい足キリになったと内心喜び、いつものように、あふれんばかりの黄金の輝きを堪能しようと楽しみにしていたのだ。
それなのに、金庫の中にお目当ての黄金はなく、代わりに紙切れ一枚だけが残されていたのである。
『あんまりあくどいことばっかしてんなよ、おっさん。R』
書かれていたその文言が何を意味するかなど、彼にわからないはずがなかった。
「くそがあぁぁっ。あの下郎めっ。このわしを謀ったばかりか、あろうことか、金をくすねおっただと!? ふざるなぁっ」
ガークスは地揺れが起きそうなほど、その場をドカドカと足音立てながら激しく右往左往し始めた。
ところ構わず当たり散らし、棚の上に置いてあった高価そうな鷹の彫像含め、手当たり次第に調度品を床に叩きつけては、木っ端微塵に粉砕してしまった。
たまらず、見かねた様子のシュレーゲンが声をかける。
「神殿長。お気持ちはお察ししますが、少し、冷静になってください」
「うるさいっ。黙らんか! 貴様に指図されるいわれなどないわっ」
「ですが、今もっとも気にしなければならないのは、あの『悪魔の疫』です。神殿長もおわかりでしょう。オル=レーリアがいなくなったことで、この神殿であの流行病を治せる者は誰もいなくなってしまったのです。このままではまずいことになりますぞ?」
眉間に皺を寄せ、扉付近に佇んでいたシュレーゲンの言葉に、ガークスはようやく荒い息を吐きながらも、気持ちを落ち着かせるように肩で呼吸を整えていった。
文字通り空き巣にでも入られたかのような、めちゃくちゃになった室内の奥に設けられていた椅子へと腰かける。
そのまま執務机に肘をつき、舌打ちした。
シュレーゲンが歩み寄っていく。
「神殿長。至急、何かしらの対策を講じなければ、教会の権威が失墜いたします。今すぐにでも総本山に連絡し、聖女をこちらへ派遣するよう、要請した方がよいのではありませんか?」
じっと見つめる彼だったが、
「……その必要はない」
神殿長は瞑目したまま答えた。
「何故にございますか?」
「その件はとうの昔に答えが出ているであろう。下手に面倒な相手が出張ってくれば、必ずや、我らの地位は失墜する。そうなってからでは遅いのだ」
「ですが、このままでは持ちません。かつて疫病が流行ったときもそうでした。あのときも聖女不在のまま対処しようとしましたが、一向に解決の糸口がつかめませんでした。このままではこの都市が死都になる。そのような危機的状況に追い込まれたときに現れたのが、かの大聖女様であり、あの方がお連れになっていた、あの娘だったのです」
意味深に言うシュレーゲンから目を逸らしたまま、つまらなそうに「何が言いたい」と、ガークスは吐き捨てるように言った。
「神殿長。あなたもおわかりでしょう。あの娘だけがこの神殿を維持する生命線だったのです。妥協案を提案したのはこのわたしですが、そもそも、あの場で処断すべきではなかった」
「黙れ。もうすんだことだ。貴様こそわかっておるだろう。あのままあやつを野放しにしておけば、必ずやそのまま我らの頭上であぐらをかくことになる。そのようなこと、断じてあってはならん。我らは貴族であり、彼奴は出自すらわからぬ卑賤なのだぞ? 貴族とは唯一絶対にして、侵すべからざる存在でなければならんのだ。それだのに、貴族がかしずくだと? そのようなこと、あってはならん。言語道断だ!」
「わかっておりますとも。ですから、総本山に――」
「くどいと申しておる! その件はもう忘れよっ」
ガークスはそれだけ言うと、手を振ってシュレーゲンを追い出しにかかった。
神殿長補佐官はまだ何か言いたそうにしていたが、最終的には溜息ついて、部屋の出入口へと向かう。
しかし、そんな彼の背に向かって、ガークスが再び口を開いた。
「シュレーゲン。直ちに能力の高い者どもを片っ端からかき集めておけ」
「は?」
「神聖魔法の才がありそうな者を集めよと申したのだっ。この際、身分はいっさい問わぬ。あの小娘の代用品になりそうな連中を大量に探し出して鍛え上げよ。さすれば、聖女だの、聖女候補だの、そんなものは必要なくなる。よいな?」
「……承知いたしました」
「それから――あの追い出した薄汚い野良猫どもは別件で用がある。なんとしてでも捕らえて連れ戻すのだ。よいか? 奴隷契約でもなんでもいい。どんな手段を使っても構わん。必ず探して言うことを聞かせろ。ただし、事が露見せぬよう内密にだ。よいな? 誰にも悟らせるな」
「は!」
シュレーゲンは短く答えたあと、何事かを呟きながらも、今度こそ本当に出ていった。
静まり返る大理石作りの一室。
ひとりだけになったガークスは、静かに立ち上がると振り返った。
机の後ろ――目の前には、天井まで続く巨大な棚が設置されている。
彼は観音扉を静かに開いた。
「……この神殿の頂点に君臨するのはこのわしだ。聖女でも聖女候補でも、あの卑賤なクソガキどもでもない。所詮奴らはわしを楽しまるための道具にすぎぬ。せいぜいもがき苦しんで暴れ回るがよいわ。骨に髄までしゃぶり尽くしてくれる」
彼は呟くようにそう言うと、棚の中に鎮座していた金色に輝く巨大な杯を見つめ、睨みつけるように笑った。




