25.残された父と、混迷の闇に包まれる神殿都市
「おい、アネットっ。もう酒がねぇぞ!? さっさと買ってこいっ」
うらびれた貧民街の片隅に建つ、一軒のボロ小屋。
密集した廃屋のような家々同様、あちこちにガタがきており、隙間風が入り込んでいる。
そんな一間しかない薄暗い室内で、ひとりの男が空の酒瓶片手に叫んでいた。
アネットの父親であるベルトランだった。
泥酔しきった赤ら顔に穿たれた鋭い眼光は精彩を欠き、半眼となっている。
淀んだ赤茶色の瞳を周囲にさまよわせ、しばらくの間、何かを探すようにしていたが、「ちっ……そうだったな」と独りごちた。
「あいつはもういないんだったな――たくっ。めんどくせぇことしやがって。あのクソどもが……」
ベルトランは苛立たしげに、ボサボサの頭を何度もかいてから立ち上がろうとした。しかし――
ガタンッ。
唯一の家財道具である小さな丸テーブルに手を置き体重をかけた途端、テーブルもろともぐしゃっと潰れ、前のめりにつんのめってしまった。
「くそがぁっ」
打ちつけた頭や肩などに抉るような痛みが走り、悶絶する。
酒の毒素に犯されているせいか、手足にも力が入らず、まったく動けなくなってしまった。
「くそっ……クソクソクソッ。どうしてどいつもこいつも……! なぜ俺の周りからは誰もいなくなるっ……どうしてこうもうまくいかないっ……なぜだ!」
ベルトランは狂ったように叫んだ。
埃にまみれた床板を激しく叩き続ける。
何度も何度も右拳で殴りつけるが、それで空虚な気持ちが晴れるはずがなかった。
かつて貧しくても幸福だった理想の家庭はもうない。
小さな丸テーブルを囲んで、楽しそうに笑っていた妻や娘の姿は幻となって消えている。
「アイリーン……どうしてお前は――俺の前からいなくなったんだっ……」
呟くよう叫び、力なくもう一度床板を叩いたときだった。
何かがそよいだ。
「あ……?」
潰れたテーブルの下にあったのは――継ぎはぎだらけの水色のリボンだった。
いなくなった娘がよく着けていた髪飾り。
彼の妻ですら知らぬ間に、勝手に裁縫技術を習得して自分で作ったと言っていた。
ベルトランはしばらくの間、握りしめたそれを呆けたように見つめていたが、やがて、よろよろと立ち上がった。
「酒……買ってこねぇとな……」
ぼそっと呟きながら、残り僅かな小銭となってしまったそれを手にすると、リボンともどもズボンのポケットに入れ、外へと出ていった。
「あ?」
ギギギと、軋む粗末な扉を開けて外に出たベルトランだったが、普段と違う屋外の様子に眉をひそめた。
扉を開けた外の世界は昼夜が逆転していたのである。
「たく……空まで真っ暗じゃねぇか。天気まで俺の敵に回るのかよ」
貧民街は普段から臭気と薄暗さに支配される陰気な街区だったが、今日はいつにも増して濃密な闇が支配していた。
見上げた空には青空はいっさいなく、一雨来そうなどす黒い雨雲だけ。
「まぁいい。天気なんざ俺には関係ねぇ」
そう呟くと、ゲホゲホと激しく咳き込みながらも歩き始める。
しかし、すぐにその足取りは止まった。
「おいっ、ベルトラン。今すぐ家の中に避難しろっ」
「あぁ?」
千鳥足で歩いていた彼の背に、突然そう声をかけてきたのは、近所に住む金髪の中年親父だった。
「よくわからねぇが、平民街や貧民街で凶悪な化け物どもが暴れ回ってるって話だ!」
「はぁ? 化け物だと……?」
「あぁ。なんでも、次から次へとそこら中の家を壊しながら、突き進んでるらしい。しかも、その巨大な化け物を操ってるのがガキどもで、背中に乗って大笑いしてるとかなんとか。今町中、その話題で持ちきりだ。お前もさっさと避難するなり、家の中に入るなりして、身を隠しておいた方が身のためだぞ!」
中年親父は一方的にそれだけ言って、走っていってしまった。
「たく。なんなんだ……? よくわからねぇが、ホントにバカ言ってんじゃねぇよ。そんなもんいるわけねぇじゃねぇか、結界の中だぞ?」
ベルトランは吐き捨てるように言い放ってから再び歩き出そうとしたのだが、今更ながらにそれに気がついた。
先程の男ではないが、貧民街の至るところで住民が大騒ぎしており、クモの子散らすように逃げ惑っていた。
しかも――
「――おいっ、いたか!?」
後方遙か向こう側から、誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
この神殿都市を警備する、駐屯兵だった。
「いえ、いません。ですが、北門を突破して逃げていったという報告も入ってきています」
「あぁくそっ、今すぐ追いかけろ。絶対に逃すな! なんとしてでも引っ捕らえるんだっ」
「はっ」
衛兵ふたりは姿を現したとき同様、素早く散っていった。
再び静寂が訪れる。
ベルトランは眉間に皺を寄せながら、しばらくの間、衛兵が消えていった方角を眺めた。
視線の先、そこから数ブロック行った街区には富裕街区や政庁区があり、そこにノルド聖教会の神殿が立っている。
彼の娘が厄介になっているはずの建物だった。
「……まぁ、あいつなら大丈夫だろう。何しろ、今頃神殿でお気楽な毎日を過ごしてるだろうからな」
鼻で笑うようにそう呟いた彼は、ふと、北の空を見つめた。
まだ青空が微かに残る彼方の空色は、どこか、娘の瞳に似ていた。
碧色の美しい色合い。
しかし、それが垣間見えたのはほんの僅かな時間だけだった。
果てなく広がっていく鈍色の空に、やがて、そのすべてが覆い隠されていった。
ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。
本エピソードをもちまして、【第1章】~陰謀渦巻く神殿編~ 完結となります。
そして次話以降からいよいよ【第2章】~幼い魔女と聖女の二人旅編~ が開幕となります。
二人の旅がどのようなものになっていくのか。
引き続き、応援、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。
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