10.薄もやの向こう側に現れたもの
「こんなこと……あり得ない!」
恐怖に引きつったような顔で、ジョアンナが叫んだ。
(ちっ、主か)
どこかつまらなさそうにヴィーが呟く。
真っ黒くて巨大な獣。
大きさはヴィーに引けを取らない。
乗用馬と同じくらいある。
それが今、少し離れた魔法陣の上でお座り状態となっていた。
「凄いのです!」
腰を抜かしたまま後じさるジョアンナとは対照的に、大きな瞳と口をいっぱいに広げて、リアが喜んでいる。
――黒豹。
そうとしか表現できない生き物がそこにはいた。
「こ、これ……どう受け取ったらいいの?」
わたしは相変わらず、状況がつかめていなかった。
現れた黒豹なのか猫なのか判断つかない、どっちつかずの巨大生物は、襲いかかってくるでもなく、一生懸命自分の腕を舐めて毛繕いしているだけ。
依然、決して抗うことのできない絶対的強者だけが持ちえる威圧感を、あの生き物は漂わせている。
全身から漆黒の揺らめきを放ち、見ているだけでも総毛立ってくる。
できることなら今すぐこの場から逃げ出したい。
思わずそんな気分にすらさせられる――しかし、それなのに。
これほどの異常事態が目の前で起こっているというのに、なぜかヴィーとリアだけは緊張感の欠片もなかった。
どういうこと?
「ジョアンナ! あれ、アネットの使い魔にするですか?」
興味津々といった感じで無邪気に笑うリア。けれど、
「とんでもない! オル=レーリア、あなたはあの生物がなんなのか、理解しているのですか?」
「ん? ネコ? 犬?」
ひたすら小首を傾げて不思議そうにしている。
まぁ、ふたりの反応が違いすぎるから、予想はしていたのだけれど――リア、あれがなんなのか、わかっていなかったのね……。
だから緊張感が――ていうか、そんな意味不明なもの、わたしに押しつけないでよ!
無駄と知りつつも、心の中で文句を言ってみたのだけれど、
(さっきから何をブツブツ言ってるの? あなたはアネットという名前よね? ほら。さっさと契約するわよ)
「へ?」
毛繕いを止めて細く鋭い目をこちらに向けてきた黒い生き物に、わたしはきょとんとしてしまった。
必然的に、張り詰めていた糸が切れる。
「アネット?」
わたしの反応が気になったのだろう。
ようやく立ち上がったジョアンナが、困惑気味に見下ろしてきた。
「えっと……。よくわからないのですが、あの子が契約しろって言ってきています」
「なんですって!? ダメっ。絶対にダメ! あれはとても危険ですっ。聖書や図鑑などでしか見たことはありませんが、特級に指定されるような伝説上の危険生物なのですよ!? いくらあなたでも、そのようなものを使役できるとは思えません!」
今度は膝立ちとなり、わたしの両肩つかんで必死になってやめさせようとしてくる。けれど、
(何をしているの? 早くして、今代の若き大魔女さん?)
「え!?」
どうやら今度の声はジョアンナにも聞こえたらしい。
大慌てで振り返っていた。
「声が……今、大魔女とおっしゃったのですか? どうしてあなたの口から大魔女様のお名前が――あなたはあの、伝説の魔獣、黒豹猫ではないのですか?」
少し震えたような声色で、彼女はそう問いかけていた。
(いかにも。わたしはノクトフィリスに間違いないわ)
「だったら……どうしてあなたから大魔女様のお名前が? 伝説では、あなたはヴィー同様、天災級の存在として恐れられていたはず」
不信感、焦燥感、恐怖。
ジョアンナは、それらがない交ぜとなったような、複雑な表情を浮かべていた。
相変わらず状況が飲み込めなかったけれど、天災級って、いわゆる『大地を割り、空を裂き、通りすぎたあとには何も残らなかった』みたいな生き物のことかな?
そんなことを考えていると、
(失礼な子ね。わたしはそんな品性の欠片もない下品な生き物じゃないわよ。あんなのと一緒にしないでちょうだい)
なんか、いきなりツッコミを入れられてしまった。
それが果たしてわたしに対してのものなのか、それともジョアンナに対するものなのかはわからなかったけれど。
(まぁいいわ。今日は気分がいいから大目に見てあげる)
ふふんと鼻で笑うように、得意げな顔をされた。
なんか、最初に感じていた恐ろしいイメージがすっかりなくなっているような気が。
ひょっとして、この人もヴィーみたいな感じ?
しかし、ジョアンナはそんなわたしの考えを完全否定するみたいに、より一層警戒心を強めたように表情を強ばらせた。
「……ひとつお聞きします」
そう言って立ち上がると、必死になってわたしを背中に庇おうとしてくれる。
(何かしら?)
「大魔女様のこともそうですが、アネットをあのお方と同等と認めたことについてもまるで理解できていません。ですがそれ以前に、なぜ、あなたは召喚魔術の詠唱もなしに突然現れたのですか? 儀式はまだ行っていなかったはず」
心に巣くう恐れを振り払うように、ジョアンナが力強い声を出した。
果たして黒豹猫は――
(なんでかしらね? ――ふふ。ま、いっか。全部話してあげる)
と愉快そうな声色を吐き出した。
(あなたたち人間がわたしのことをどう思っているのか知らないけれど、わたしはかつて、大魔女エルシーリア様の使い魔として、長い間お仕えしていたのよ)
「なんですって!?」
世間話するみたいな言い方で語られた内容に、ジョアンナが固まってしまった。
(まぁ、信じる信じないはあなたたちの自由だけれどね。でも、これでもうわかったでしょ? こことは違うわたしたちの世界にいたとき、どこか懐かしい匂いを感じた。だからそれを辿ってきてみたら――)
そこまで言ってニヤッと笑った気がする。
(予想どおり、エルシーリア様とそっくりな魔力を持った人間の気配がした。だからどうしても確かめたくって、儀式魔術が発動する前に無理やり門をこじ開けたのよ。万が一他のバカどもに先越されたら目も当てられないしね)
そう言いながら片目瞑ってウィンクしてきたけれど……愛嬌振りまいたって、まじめなジョアンナには通用しないよ?
「そんなムチャクチャな!」
ほら。案の定、口を開けたまま絶句しちゃったし。
(ともかく。そういうわけだから。で、契約するの? しないの? どっちなの?)
どこか勝ち誇ったように胸を反らす黒い生き物。
う~ん。豹だけど、なんとかジャンって猫にそっくりだから黒猫って呼ぼう。
その方が魔法使いの使い魔っぽいしね。
とはいえ、本当に契約していいのかどうか判断つかなかったため、ジョアンナを見つめた。
振り返った彼女もどうやら困惑しているみたいで、眉間に皺が寄っていた。けれど、
「アネットっ、さっさと契約するです!」
(まぁ……我もあやつのことは大昔から知っておるが――そこな人間が申しておったとおり、凶悪で危険極まりないのは間違いない。だが、恐れることは何もない。あの大魔女の面影のあるお主ならば、あやつとの相性は申し分ないであろう)
「そ、そうなの?」
このふたりが嘘をついているとは思えなかったけれど、なんかいまいち決め手に欠けるのよね。
だって――
あの黒猫、今はもう、あまり怖いとは感じないけれど、なんか全身から負のオーラみたいなの出てるし……。
うっかり契約したら悪魔でした、とかってオチ、嫌だからね?
わたしはヴィーとリアから視線をジョアンナに戻した。
魔術や使い魔のことを聞くなら彼女が一番だと思ったから。
かなりの知識を持っているはずだし。
しかし――
ジョアンナはどうするのが一番いいのか、決めかねているようだった。
わたしにとって何が最良の選択肢なのか、その判断がつかない。
そんな顔をしている。
苦悩に満ちた表情と長い沈黙。
――そうだよね。
この神殿に来てからの三週間、ずっと彼女には頼ってばかりだった。
きっと、今後もそうなってしまうし、そうありたいと願う心が強くある。
母が亡くなってからずっと、誰かにすがりつきたいと思う気持ちが、心のどこかにあったから。
だけれど、これ以上迷惑かけちゃいけないよね。
ジョアンナが選んだ答えが原因で、万が一わたしが不幸になったら、きっと一生自分を責め続けちゃうと思うから。
わたしは覚悟を決め、一度大きく深呼吸してから、静かに一歩、前へ踏み出した。
「アネット?」
疑わしげにわたしを見るジョアンナ。
きっと、今でもあの黒猫に近づかせたくないと思ってくれているのだと思う。
けれど、わたしの心はすでに決まっている。
ジョアンナが思いきり警戒するような生き物を見ても、リアはまったく恐れた様子もない。
ヴィーも太鼓判を押してくれている。
大魔女という人がどんな人で、わたしの身体にどうして同じ性質の強大な魔力が流れているのかはわからない。
だけれど!
わたしは確かめるように一歩一歩しっかりとした足取りで、黒豹猫のすぐ目の前まで来た。
鼻先に立つ形となり、大きくて迫力のある顔に少しだけ怖くなったけれど。
「わたし、アネットは、あなたをわたしの使い魔として使役します」
事前に教えてもらっていたとおりの台詞を吐き、右手を差し出した。
「アネット!」
悲鳴にも似たジョアンナの声が背中に刺さった。
けれど――ありがとうね、ジョアンナ。心配してくれて。でも、きっと大丈夫だと思う。
なんの根拠もなかったけれど、わたしには確信めいた思いがあった。
こうするのが一番いいって。
(名を――)
「あなたは――」
契約するときには名前を付けなければならない。
黒豹のような猫のような生き物だから、えっと、ブラックパンサー?
いやいやいや。そんなの、全然かわいくない。
ノクトフィリスとか言われていたからノクト?
う~ん。
「あぁもう、なんでもいいや! あなたは黒い猫だからクロニャン! 今日からあなたの名前はクロニャンに決定よ!」
宣言した瞬間、黒豹猫ことクロニャンと魔法陣が眩く光り始めた。しかし、
(ちょっと待ってっ。何そのダサい名前! いやぁぁ~~! やめてっ。もっと美しい名前を――)
でももう遅い。
光が収まったとき、魔法陣もすべて消滅していて、クロニャンの眉間には一瞬だけ、小さな六芒星みたいなものが明滅していた。
どうやら契約終了したらしい。
「よし!」
(何がよしよ! わたしは高貴な麗人とまで謳われた幻獣なのよ!? それなのにあんな名前っ)
「気にしちゃダメ! それよりお待ちかねの――」
わたしはそこまで言ってにこっと笑った。
(な、何する気!?)
なんだかクロニャンがぎょっとしたような顔をして、逃げ腰になっている。
でも逃がさない。
契約した今はもう不思議と、恐怖なんて微塵も感じなかったけれど、さっきまであんなにもわたしやジョアンナを怖がらせてくれたんだもの。
これくらいのご褒美はもらわないとね。
「というわけで」
もふもふ~~~~!
黒くて綺麗な毛に覆われているクロニャンの背中目がけて、勢いよくダイブするのだった。
「あ~~! ずるいのですっ。リアもやるです!」
すかさず、リアまで飛びついてくる。
わたしたちはもふもふに埋もれながら、ふたりして声を上げて笑った。
「まったく。とんでもないことになってしまいましたね。ここまで肝を冷やしたのは生まれて初めてですよ」
目一杯もふもふを堪能させてもらって満足したわたしとリアは、ちょっぴりジョアンナにお説教されていた。
「オル=レーリアだけでなく、アネットまであんな――」
傍らでつまらなさそうに伏せの状態になっていたクロニャンを、チラッと見るジョアンナ。
「はぁ……先が思いやられます。やはり、大魔女様と同質の魔力の持ち主は只者ではなかったということですね」
わたしとリアは並んで立っていたけれど、どちらからともなくくすっと笑った。
「まぁいいでしょう。ともかくです。今回の件もヴィーのことも、くれぐれも内密に。さもなければ間違いなく、あなたたちは未来がなくなります。その力を利用しようと近寄ってくる人たちから、どのような扱いを受けるかわかりませんからね。ですから十分気をつけてください」
凜とした声が、静かに耳に響く。
わたしたちのことを虫けらのようにしか思っていない神殿勤めする人たち。
少なくとも、あの人たちに魔力のこととかクロニャンたちのことが知られたら、無事ではすまないという予感はある。
その力を悪用せんがために、わたしたちを隷属させるかもしれない。
もしかしたら、人体実験すらあり得るかも……。
わたしとリアは事の重大さを胸に刻み、神妙に頷いた。
そして――
何気なく小さな窓を見つめた。
柔らかい日の光が差し込んでいる。
けれど、先程まで広がっていた青空は今はもうなく、黒い糸雲が漂い始めていた。
本エピソードをもちまして「使い魔編」が終了となります。
次話以降は、サイド+アネットたちの日常回+α へと突入します。




