あなたがそうなっても
目を覚ます。まだ部屋の空気は冷たい。カーテンの隙間から射し込む陽の光が、白いベッドシーツの上に細い線を描いていた。
時計を見ると、いつもと同じ時間。遅くも早くもない。完璧な朝。
ベッドから起き上がると、床に散らばったワンピースの裾を拾い上げる。昨夜の疲れはどこか遠い場所の出来事のように感じられる。鏡台に腰を下ろし、ブラシを手に取る。丁寧に髪を梳くたびに、静かな音が部屋に満ちる安心のリズム。少しウェーブのかかった髪が肩にかかるたび、やわらかく光を弾いた。肌を整え、アイラインを引き、最後に赤いリップティントを塗る。ちょっとだけ笑顔を作ってみる。
────うん、大丈夫。今日もきれい。
クローゼットの扉を開ける。選んだのは日だまりのようなアイボリーのブラウスと、膝丈のタイトスカート。裾を指で撫でながら、ふと鏡を見る。映るのは、自分が一番落ち着くかたち。自然で、清潔で、そして誰かに見せたくなるような姿。
だが、スマホには、“見せたい誰か”であるレイからの返信の通知はない。
壁際の棚には、恋人と自分のツーショットが収められた写真立て。頬を寄せて、カメラ目線で笑いかけている自分たちだ。
「おはよう、レイ。今日も行ってくるね」
囁きかけて、ピアスを留めた。
タイツを履いて、破れてないかを確認してから、香水を膝裏に吹きかけた。
絢瀬はハンドバッグを取り、ヒールを履いて玄関を出ると、静かな高級住宅街の朝が広がっていた。手入れの行き届いた植え込みと、遠くで鳴る清掃車の音、霧吹きの音がしていた。どうやら同じ階の奥さんが、廊下のプラントに水やりをしているらしい。
「おはようございます」
「あ……」
声をかけると、彼女は一瞬だけ手を止めた。まるで誰かと見間違えたかのような顔をしてから、「おはようございます」と返してくれる。
絢瀬は微笑み、軽く会釈して通り過ぎた。
廊下にはホテルのように厚い絨毯が敷かれ、足音は吸い込まれていく。歩きながら、ガラスに映る自分の姿を確かめた。きちんとした格好。ほんのりと明るめのスカート。彼も、きっとこれを気に入ってくれる。
エレベーターで一階へ降りると、いつもの警備員のおじさんが立っていた。仏頂面の彼はこちらと目が合うと、すぐに柔らかな笑みを作った。
「おはようございます、絢瀬さん」
「おはようございます」
何も特別なことはない。絢瀬はいつもどおり笑顔で挨拶を返す。ただ、そのあとに訪れる一瞬の沈黙が少し長く感じられた。おじさんは何か言いたげに唇を開きかけ、結局閉じた。
絢瀬は思った。
(本当は片桐サヤ、なんだけどね)
婚約者の、絢瀬レイと一緒に引っ越してきて、表札もそれだから勘違いされているのだろう。だが、まだ籍を入れていないのだ。だけど、いずれそれが正しいことになるのだから、と訂正しないでいる。それに、彼の苗字で呼ばれるほうが、新婚気分になって心地よいのだ。
外は秋の始まりの光で眩しい。車寄せに停められた送迎車が、いつものように待っていた。運転手がすぐに気付き、後部座席のドアを開けてくれる。
「おはようございます」
「おはようございます、いつもありがとうございます」
絢瀬が乗り込むと、彼はドアを閉める。そのあと運転席に座り、ルームミラー越しにこちらへ短く会釈した。その視線が、ほんのわずかに長くこちらに留まった気がする。だが絢瀬は、窓の外に目を向ける。近所の女性たちが見えた。犬の散歩をしている主婦が二人。彼女たちは、挨拶をするでもなく、ただ遠巻きにこちらを見ている。
車は静かに住宅街を抜けていく。道沿いの街路樹が風に揺れていた。あの人と歩いた季節も、たしかこんな匂いだった。
今日は気持ち早く会社に着きそうだ。ミーティングの前にカフェでコーヒーでも買おう。彼が好きだった味を、思い出しながら。
エントランスの自動ドアが開くと、空調のやや冷たい風が頬に触れた。
「おはようございます」
「おはようございます、絢瀬さん」
自社フロアへ先に到着していた同僚たちがそれぞれに挨拶を返す。その声の端に、どこか探るような響きが混ざっているのには、もう慣れていた。絢瀬はにこやかに会釈し、指定された会議室に歩を進める。着くと、扉越しに潜めるような話し声が聞こえる。
(私以外、揃ってるんだわ)
扉を開けると、上司がこちらを振り向いて取り繕ったような明るい顔を作る。
と、席の向かい側に、新しい顔があった。背が高く、端正なスーツ姿の男。くせのある髪が光を受けて後光のようになっている。胸元に差した名札には、別会社のロゴが入っている。
(ああ、この人が今回の担当者ね)
長いテーブルの上には整然と資料が並べられ、コーヒーの香りが微かに漂っている。
上司がこちらと男に交互に目配せしたのがわかった。
男は、絢瀬を見るとそこはかとなく目を細めた。その視線が鋭くて、内心竦んだ。
けれど、彼はすぐに穏やかなビジネススマイルへと戻る。
「はじめまして。御社を担当させていただくことになりました、藤堂です」
「はじめまして。絢瀬と申します。どうぞよろしくお願いします」
握手を交わす。手のひらが触れた一瞬、彼の指先がわずかに強張ったのが伝わった。すぐに離れたけれど、視線はこちらの顔を探るように留まった。何か言いかけたような気配があったが、彼はすぐに口を閉じた。代わりに、打ち合わせの進行を確認するために資料を開く。
絢瀬は気にせず、自分のノートを取り出した。仕事の内容は難しくない。ただ、どこか空気が張り詰めている。誰もが“何か”を意識しているような沈黙。初対面ならこういうものだろう。
藤堂は、資料をめくりながら、こちらへ質問を投げかけた。
「この部分ですが、以前の仕様から少し変更されていますね。……もしよろしければ、当時の担当の方の意図を教えていただけますか?」
「ああ、それは────」
説明しかけて、ふと彼の目に視線で触れる。穏やかだけれど、どこか遠くを見るような、懐かしさを帯びていた。
(私のこと、知ってるのかしら)
自分の考えにしっくり来なかったが、すぐに答える。
「ええ、当時は私が担当でしたから。私の判断です」
「なるほど」
彼は短く頷き、視線を落とす。何かを押し殺したような影が見えた。
打ち合わせは滞りなく進んだ。数字の確認、スケジュールの擦り合わせ、次回の課題。すべてが形式的で、誰も余計な話をしない。
最後に席を立ったとき、彼の声が心なしか柔らかくなった。
「本日はありがとうございました。また、近いうちに」
「ええ、こちらこそ。よろしくお願いします」
やり取りの中で、彼の目が優しく揺れる。絢瀬は気付かないふりをして、会議室を出て、廊下に出る。冷たい空気が頬を撫でた。絢瀬は深呼吸をして、心を落ち着ける。
昼休みまでまだ時間があった。絢瀬は自分のデスクに戻り、資料を整理する。書類をまとめて、ファイルを閉じる。静かなオフィスに紙の音だけが響く。
(あの藤堂という人……)
話し方が落ち着いていて、言葉の選び方も丁寧だった。特別なことを言われたわけじゃないのに、なぜか印象が残っている。
(どうしてだろう)
ただ、妙に“見られていた気がする”という感覚が、肌に残っていた。嫌ではなかった。何せ、じろじろ見てくるのは彼だけではない。レイが出張に行ってから、いろんな人からそんな視線を向けられるようになった。
理由がわからず、最初はおろおろしたものの、気にしないことにした。彼が戻ってくれば、おさまるだろうから。
ただ、藤堂から向けられる視線だけ、気になってしまう。とくんと心臓が跳ねるような、そんな不思議な感覚。
整理を終えると、絢瀬は立ち上がり、書類を抱えて廊下へ出る。コピー機の音と、人の足音。昼下がりのオフィスは、どこも同じように静かで、無機質で、穏やかだ。
角を曲がった瞬間、
「あ」
「あ」
ぶつかりそうになって、立ち止まった。目の前にいたのは、さっきの藤堂だった。昼食を社内食堂で済ませたのだろう。手に持っていた書類が落ちかけて、慌てて拾う。
「すみません、大丈夫ですか」
「いえ、こちらこそ……」
あらためて至近距離で見ると、朝よりも柔らかい印象を受けた。藤堂のシャツは淡いグレージュで、ネクタイの色は優しいブラウン。どこかで見覚えのある色味だった。
(彼と、似てる)
息を吞んだ。なぜそんなことを思ったのか、わからない。でも確かに、あの人が好んでいた色合いだった。落ち着いたグレーと、控えめなベージュ。穏やかな、あたたかい雰囲気。
「どうかされました?」
藤堂の声で我に返る。慌てて首を振った。
「いえ、なんでも。少し考えごとをしていただけです」
彼は納得したように小さく頷き、安心したような顔を浮かべた。
「お疲れでしょう。今朝からずっとお忙しそうでしたし」
「そう、ですね。慣れているので大丈夫です」
口にした自分の声が、妙にたどたどしい。その場を離れようとしたのに、足が動かなかった。代わりに、彼を見上げた。同じ廊下の白い照明の下、彼のネクタイの端が光を受けて、高級そうな繊維につまびらかな陰影を与えている。心臓が、でたらめにうるさい。
(レイに服が似てるだけなのに……どうして、こんなことで)
心がもつれる。
目が合うと、彼は顔をほころばせる。瞬間、脳の奥でパチンと音が弾けた気がした。
「今日はありがとうございました。またお会いしましょう」
「っ……ええ、そうですね」
会釈して、すれ違って、彼の背中が遠ざかっていく。絢瀬は一歩動いてから、振り向く。大きな背中の向こうに、傍にいない婚約者の影が重なった気がした。
◆
帰りの送迎車の中で、何度もあの光景が浮かんだ。グレージュのシャツと、控えめなブラウンのネクタイ。藤堂の服装が、どうしても頭から離れなかった。
(似てた……レイに)
思い出すたび、胸の奥がかすかに疼く。可笑しいとくすくす笑う気持ちでも、親近感でもない。もっと、静かで落ち着いた痛み。
レイに、会いたい。
部屋に戻ると、空気がひんやりしていた。照明を点けて、ヒールを脱ぐ。コトンと玄関にこだまする。それが一人を強調しているように感じられて、思わず「ただいま」と声を出してみる。
もちろん、返事はない。出張中なのだから、仕方ない。……そう、仕方のないこと。
絢瀬はバッグを置いて、寝室へ向かう。部屋は整然としている。ベッドの上のシーツには、自分一人の痕跡しか居ない。カーテンを閉め、そっとクローゼットの扉を開けた。
ふわりと匂いが広がる。そこには、レイのスーツやシャツが掛けられていた。きちんとクリーニングされ、肩のラインが崩れないように専用のハンガーに掛けられ、整然と並べられている。指先で袖を撫でる。さらさらとした布の感触が、指に絡む。
「この色、好きだったよね」
独り言のように呟く。グレーがかったブラウン。あの人がよく選んでいた色。
────藤堂のシャツも、こんな色だった。
その瞬間、思わず手を止める。頭のどこかで警鐘が鳴っている気がする。
(違う、あの人は……レイじゃないのよ)
袖口を握ったまま、顔を埋める。柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。それが、まるで彼がすぐ傍にいるように錯覚されて、喉がきゅっと詰まった。
「早く帰ってきてね……」
あの人の傍にいたい。恋しい。
(大丈夫。私はちゃんと、待ってる)
指先でゆっくりとシャツのボタンをなぞる。祈るように、静かで、繊細な寄り添い。胸の痛みがだんだんとやわらいだ。
◆
朝、鏡の前でスカーフの色を選ぶとき、ふと、昨日見たあのグレーのシャツを思い出した。
(あれに合わせた色にしようかしら)
が、すぐに頭を振ってかき消す。偶然にすぎないことを、いちいち気にするなんて馬鹿みたいだ。
出社して会議室に入ると、藤堂はすでに来ていた。今日はネイビーのスーツ。タイも濃い色で、昨日の淡い印象とはまるで違う。それだけで、体の緊張がすっと抜けていくのがわかった。
(やっぱり、あれは気のせいだったんだ)
絢瀬は資料を差し出し、事務的なやり取りに集中する。彼の目を見るのも、できるだけ短く。余計な想像を挟む余地なんて、もうどこにもない。────はずだった。
午後の打ち合わせが終わると、部屋の空気がふっと軽くなった。外の光が窓のブラインドの隙間から細く差し込んでいた。長い会議の後の静けさが心地よくて、絢瀬は深く息をついた。冷めかけたコーヒーの香りが溶け込んで甘く漂っている。
資料を閉じ、軽く頭を下げて席を立とうとしたとき、隣にいた藤堂が、何か言いたげに口を開いた。
「このあと、お時間ありますか?」
「え? ええと……そうですね、特には」
「よかった。もしよかったら、私と食事でもどうですか」
ペンを持つ手が止まった。
思考の音が、頭の中で空白になる。
「えっ……あの、どうして」
「別に深い意味じゃないですよ。取引先とはいえ、こうして何度も顔を合わせることも多いですし。たまには仕事抜きで、ゆっくり話してみたいなと思って」
そう言って笑った彼の目は、細められているものの、まっすぐで、曇りがない。だからこそ、余計に面食らった。
(どうして、そんな普通の顔をして言えるんだろう)
胸がざわついていた。ほんの数秒前まで“安心”していたはずなのに、今はもう、それがかき消えていく。
「食事、ですか」
「無理なら構いません。でも、少しでも話せたら嬉しいです」
藤堂さんの声はしとやかで、それが一層、耳の奥、脳に染み込んでくる。社交辞令だろうか。それだとしても、断らなきゃ。
「あの……ごめんなさい、それは……」
一瞬、言葉が探せなかった。自分でもなぜそんなに戸惑っているのかわからない。声が裏返りそうになりながらも、口を動かす。
「……二人きりになってしまうので」
藤堂の眉が、ぴくっと動く。それきり、口が動かない。
絢瀬は、ただ当たり前のことを言ったつもりだった。男女二人きり。仕事ではまだしも、食事などしたら、疑ってくださいと言っているようなものだ。だから、その沈黙の意味が理解できなかった。意外に、鈍い人なのか。それならば、はっきり言わないといけない。
「私、お付き合いしてる人がいるんです。……それで、その、それが、誤解に繋がるんじゃないかと」
恋人がいるのに、異性の人と食事なんて、普通はしない。
「そうでしたか」
しばらくして発せられた彼の声は穏やかで、どこにも詮索の色はなかった。むしろ、申し訳なさそうにかすれている。
「無理を言ってすみません。仕事の話ばかりでしたから、たまには違う話でもと思ったんですが……」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
そう答えながら、心がさざ波のように騒ぐ。
無理に口角を上げて頭を下げ、足早に会議室を出た。廊下を歩くたびに、ヒールの音が乾いて響く。窓の外に夕方の光が注いでいた。その光の中で、ついとレイの顔が浮かぶ。
────今日は帰りが遅くなる。ごめんよ。
そんな声が、どこか遠くの記憶から、呼びかけてきた。まるで現実の存在を突きつけてくるようで、喉が乾いた。
(……こんなに戸惑ってしまうなんて、私)
エレベーターの鏡に映る自分の顔が、どこか知らない人みたいに見えた。
◆
夜の部屋は、やけに広く感じた。照明を落としたリビングから、ベッドルームの方へとゆっくり歩く。冷えた空気の中に、まだ微かに香水の匂いが残っている。出張に出たあの日から、レイからの連絡は一度もない。海外出張だから、忙しいのだろう、時差のせいでタイミングが合わないのだろうと、何度も言い聞かせた。
けれど、言い聞かせるほどに自分の中身が空っぽになっていく。
ベッドには、いくつものクッションが並んでいた。ホテルのように整えられた白いシーツの上で、それだけが妙に誘惑的だ。そのひとつを引き寄せ、抱きしめた。もうひとつ、もうひとつと手を伸ばし、腕いっぱいに集めて、胸に押し当てる。その柔らかさが、人肌の記憶を呼び覚ます。背中に回された腕の感触、頬をかすめた吐息。そのどれもが、遠い。目を閉じると、レイの声が耳の奥深くで再生される。
────疲れたら、ちゃんと休んで。
あの低い声。肩越しの呼吸。手の重み。全部、記憶の中だけにある。
(もっと、近くにいて)
絢瀬はクッションを強く抱き寄せた。身体が熱を帯び、息がわずかに乱れる。触れることも、触れられることもない夜。それでも、誰かの体温を求めてしまう。自分の弱さを自覚するたび、甘えた気持ちになって、苦々しい。
「レイ……帰ってきて……」
唇が勝手に動いた。けれど、返事はない。だから、クッションを強く抱きしめる。それだけで、ほんの少しだけ胸の痛みが受け止められたように感じる。
今、ここにいるのは、レイだ。
きっと、そうだ。
そうでなければ、こんなに温かいはずがない。
顔を上げると、クッションにリップが付着していた。サァッと胸の熱が冷める。そして、呆れて恨みのこもった笑いが漏れる。
「バカみたい」
自嘲して、目を閉じる。
◆
それからしばらく、仕事はいつも通りに進んでいた。ほとんど毎日のように藤堂に資料を渡し、会議室に入る。はっきり言って気まずいが、仕事をしないわけにはいかない。幸い相手も、身の程を弁えてるようで、あの日以来、何も匂わせるようなことはしてこない。
「おはようございます、絢瀬さん」
「おはようございます、藤堂さん」
何でもない挨拶。だけど、その声の響きに、だんだんと、心の振れ幅が大きくなっていく。仕事だと、割り切っているのに。
打ち合わせ、資料のやり取り、軽い雑談。すべてが“普通の仕事”のはずなのに、彼の目線や仕草に、どこか無意識に反応してしまう自分がいた。
理由はわかっている。自分にはレイという婚約者がいる。だけど、彼は遠くにいて、連絡も返さない。対して、毎日顔を合わせ、今も隣にいる藤堂さんからは、食事に誘われた。ほぼ間違いなく、こちらに好意を抱いている。それに気付いていて、意識せずにいられるはずがない。
◆
それから数日後の金曜日────
「退社後、少し時間ありますか?」
休憩室の角で、藤堂がまた声をかけてきた。前回と同じように包み込むような笑みを浮かべて。
その空気でわかった。誘われる、と。
「え……あの、またですか?」
「少しだけで構いません。話がしたいだけです」
「でも、浮気になってしまうので」
絢瀬は無意識のまま、言葉を発していた。
“浮気”
そう口にしてみると、頬がうっすらと赤くなるのを感じた。言葉にすると、余計にインモラルさに侵されそうになる。レイを想う心と、目の前の藤堂に惹かれる心────どちらも否定できず、煮凝りそうだった。
藤堂は引かず、手を差し伸べる。
「無理にとは言いません。でも……あなた好みのお店に連れていく自信があります」
藤堂の手に、自然と視線が行ってしまう。レイの存在を思い浮かべながらも、抗いがたい。
胸が熱くなり、息が詰まった。心の奥で、ずっと守ってきたはずの秩序が、静かに崩れ始めていることを、自覚し始めていた。
つい、そっぽを向き、眉をひそめる。
「そんなこと、できません」
しかし藤堂は間を置き、あきらめずに続けた。
「俺はあなたを奪いたいんじゃない。ただ、近くにいたいだけ。浮気でも、嘘でも、今夜だけでも────食事して話をするだけ……」
その声には、理性を失わないぎりぎりの熱が込められていた。決定的なことは言っていない。けれど、それが遠回しな“告白”だと気付かないほど鈍くはなかった。
絢瀬は、沈黙したまま、うつむきつつある。
────“私はレイと付き合っているの”
その言葉を、何度も自分に言い聞かせる。
だが、胸のどこかが静かに疼いていた。自分でも知らなかった、期待。それがいつのまにか大きく膨らんでいた。藤堂のまっすぐな視線が、それを掘り起こすように触れてくる。
「……本当に、あなたは困った人ですね」
ふっと笑いをこぼしてしまいながら、絢瀬はかすかに肩をすくめた。
「食事だけなら、構いません」
藤堂の表情がわずかに緩む。目元は、嬉しそうにきらめいていた。
それを見て、絢瀬の心はさらに複雑に揺れた。
「でも誤解しないでくださいね。私は浮気をするつもりはありません」
言いながら、自分の言葉に確信が持てない。告白されたわけではない。だから、気付かない振りをすれば、浮気にはならないはず。
藤堂は静かに頷いた。
────
店は、街の喧騒から外れた場所にあった。外観は目立たず、黒い格子の扉の向こうから、柔らかなピアノの音が漏れている。絢瀬は案内されるままに中へ足を踏み入れ、思わず息を呑んだ。静かだった。照明は落とされ、卓上のキャンドルが淡い円を描いている。テーブルクロスの白ささえ、どこかぼんやりと霞んで見えた。人の気配は少なく、客は数組。誰もが声を潜め、低く笑い、グラスの音だけが時折、透明感を持って響いた。
「落ち着く場所でしょう」
藤堂が人当たりよく言った。その声音には押しつけがましさがない。けれども、最初から絢瀬の好みを知っていたかのような自信が滲んでいた。
「ええ。静かですね」
絢瀬は椅子に腰を下ろし、手元のナプキンを指先で整える。ワインリストを渡されても、字面がうまく頭に入ってこない。藤堂が代わりに店員へ注文を伝えるのを、ただ見ていた。その横顔に、淡い光が触れる。目が離せなかった。
前菜が運ばれ、皿の縁に添えられたハーブの香りが立つ。絢瀬は小さく息を吐いた。この空気、この距離、この沈黙。逃げる理由を見失うほどに、穏やかだった。
食事の間、絢瀬はできるだけ平静を装っていた。ワインを少しずつ口に運び、他愛もない話題を選んで。藤堂は礼儀正しく、無理に距離を詰めようとはしなかった。その穏やかさが、居心地をよくしてしまう。一緒にいるのが、悪くない。楽しい。
「楽しかったです。こういう時間、久しぶりでした」
絢瀬がそう言って立ち上がると、藤堂もこくりと頷いた。
「こちらこそ。……また、こうして話せたら嬉しいです」
“また”という言葉に、絢瀬の胸がとくんと揺れる。
「また……そうですね。食事だけなら」
淡く口元をほころばせ、釘を刺しておく。
エントランスを出ると、夜風が二人の間をすり抜けた。送迎車のライトが、目印のように光っている。運転手が扉を開けて、絢瀬を待っていた。
藤堂はエスコートするように前を歩いて、たどり着く前にくるりと振り返った。
「俺、やっぱりあなたが好きです」
その一言に、夜の静けさが張り詰めた。絢瀬は反射的に笑い飛ばそうとしたが、声にならなかった。
「あなたのことは、前から知っていました。業界で名前を見かけるたびに、気になってしまって。あなたがそうなってしまう前の笑顔を、雑誌の写真で見たときのことも覚えています。どうしてか、ずっと目が離せなかった。こうして、実際に会ってみて思いました。噂よりも、ずっと素敵な人だって。……そんなあなたが、好きです」
「そんなこと……言ってはだめですよ」
小さく笑ってみせるが、声は掠れてしまう。
「どうしてです?」
藤堂の問いかけに、絢瀬は答えられない。“私はもうレイと付き合っている”と、繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる。だがその言葉はもう、自分を守る呪文としての力を失っていた。藤堂の実直な告白の力が、絢瀬の全身を熱くする。悔しかった。
「あなた、本当に……ずるい人ですね」
睨んでいたと思う。だけど頬が熱い。
藤堂は笑みをこらえているようだ。自分の告白が、絢瀬の胸を射止めていることに気付いているのだ。
思わず視線が逃げる。そのまま絢瀬は車に乗り込んだ。
送迎車のドアが空気を断つように閉まる。窓の向こう、藤堂がまだ立っている。車が動き出すとき、こちらに手を振っていた。振り返すことができなかった。彼の姿が、ライトの揺らぎの中でぼやけていく。……寒いのか、憎らしいのか、わからない。
◆
家に戻ると、部屋の空気がかなり冷えていた。時計はまだ二十二時を少し過ぎたところ。ワインの余韻が喉に残っている。
絢瀬は鏡の前でピアスを外し、上着を脱いで椅子に掛けた。化粧の下、疲れを漂わせた顔が映る。指先で頬をなぞると、ファンデーションの粉がさらりと落ちた。
(あの人、本当にしつこい)
そう思いながらも、口元がかすかに緩んでいるのに気付く。
彼の笑い方、声の低さ、距離の取り方。思い出そうとするたび、心臓が静かに速くなる。
告白されたことは、嬉しい。嬉しいのに、同時に胸が重苦しくてたまらなくなる。嬉しいと思ってしまった自分が憎い。
そのとき、部屋の内線が鳴った。
『藤堂、という男性の方がお見えです』
警備員から伝えられたとき、心臓が跳ねた。
「お通しして」
そう返事をして、身なりを整える。
────取引相手だから、内密の仕事の話かも。
────何か忘れ物を届けてくれるのかもしれない。
いくつかの言い訳を思いついた。だが、言い訳は所詮言い訳だ。
期待していた。
だが、“ここにたどり着かないで”とも思った。レイとの二人の空間に異物が入ったら、苦しい。
インターホンが鳴った。
反射的に息をのみ、そしてため息をついた。
ドアスコープを覗くと、あの男の姿。
『入ってもいいですか。少しだけ……話をしたいんです』
足音を聞いたのか、藤堂が話しかけてくる。
拒絶の言葉は喉頭に詰まってとろけてしまう。
玄関を開けると、空気が一気に流れ込む。香水と夜の風の匂いが混ざる。藤堂はどこか緊張した顔をしていたが、目だけはまっすぐにこちらを見ていた。
リビングに通してソファに座らせると、沈黙が満ちた。部屋の照明がやわらかく、現実なのかどうかあいまいだった。
藤堂の視線がこちらを向いておらず、写真立てに向けられていることに気付いた。とっさに、見ないで、と思った。
「どうして、来たんですか」
絢瀬は無理矢理切り出した。
ハッとしてこちらに視線をよこす藤堂。彼は膝の上で拳を握っていた。びくりと反応するように開いたかと思うと、再びグッと締められる。
「あなたのことが頭から離れなくて……別れ際、落ち込ませてしまったのかと思って、心配で……」
何の飾りも、言い訳にもならない、ただの理由。その言葉の率直さが怖かった。
そして、この男を部屋まで招き入れてしまった自分が、怖い。
怖いのに、胸の奥が、じんわり、温かくなっていく。
絢瀬が視線を落とした瞬間、ふっと影が近づいた。何かを言う間もなく、腕の中に引き寄せられた。ソファから体が浮く。バランスを取ろうとしてさらに抱きこまれてしまう。拒もうとしたのに、力が入らない。手のひらが彼の胸に触れて、鼓動の速さを感じた。
「……だめ、離してください」
声は震えていた。
やはり押し返す指先に、力はなかった。
腕の中はあたたかかった。抱きしめられたまま、絢瀬は呼吸を浅くした。この温もりを感じるのは久しぶりだった。心の奥の、触れてはいけない場所に指先を差し込まれたような感覚。何かの境界が、ゆっくりと溶けていくようだった。
(だめだ……だめ……)
「こんなに震えてるのに、押し返さないんですね」
男の低い声が耳元に落ちてきた。かかった息がくすぐったくて、苦しさが煽られる。押し返したいはずなのに、身体は素直に甘えるように寄りかかってしまう。
「本当は、寂しいんじゃないですか」
その言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
絢瀬は思わず藤堂を見上げた。そしてその目が潤んだ。
────寂しい。
でも、それを認めたら、目の前の男に抱き寄せられている自分が、浮気者だと確定するようで。
「だって……」
唇が勝手に言葉をこぼした。
「だって、私……レイがいるのに……」
その名前を口にしたとたん、胸が強く痛んだ。
藤堂は一瞬まばたきをして、唇を引き結び、抱きしめる腕を少しだけ強めた。何も言わない。ただ、受け止めるように。
「……裏切っちゃう」
震えながらこぼれる声。頬を伝う熱い雫。視界が涙に沈み、男の輪郭がぼやけた。
「私、浮気なんてしたくないの……」
その“浮気相手”である男の胸の中で、必死にそう訴える。息が荒くなり、嗚咽が漏れる。背中を丸め、額を彼の胸に押しつけた。
藤堂はそのまま、苦しむ絢瀬を抱き寄せた。
絢瀬の手がそっと彼の背に触れる。拒絶と依存の境界……ひとつでも力を入れれば、崩れてしまいそうだった。
頬を濡らす涙を、藤堂は親指でそっと拭った。その重さを受け止めるように、静かに息を吐く。
「絢瀬さん……あなた、優しいですね」
彼は続けた。
「優しい人は、きっと損をします」
ためらいがちに、藤堂は腕をほどいていった。温もりが遠ざかっていくが、藤堂の気遣いを感じたので、絢瀬は寒いとは感じなかった。
彼は絢瀬の手を取って、両手で包み込んだ。そして、深く頭を下げ────指先に唇を落とす。
絢瀬は息を呑み、肩をわずかに震わせた。唇が動くが、言葉にはならない。
沈黙の中、涙がひと粒、指のあいだへ滑り落ちる。
藤堂はもう一度だけ、そっと手を握り直す。
「今日はこれで、帰ります」
「……どうして?」
「俺がいても、あなたを泣かせるだけだから」
藤堂は呆然とする絢瀬をソファに座らせた。
「今日は、本当にありがとうございました。ゆっくり、休んでくださいね」
絢瀬は何も言えずに、ただ頷いた。
玄関の扉が静かに閉まる。その音が反響したあと、部屋の空気がふいに重たく感じられた。
指先や手の甲に残る温もりを、指でなぞる。
“彼”ではないのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
“彼”ではないのに、どうして涙が止まらないのだろう。
しばらく絢瀬は動けなかった。時計の音が叩きつけるように大きく響く。さっきまで誰かがいた部屋の空気が、ゆっくりと冷えていく。
(……シャワー浴びよう)
そう言い聞かせて、立ち上がる。タイツを履いた足音が床にひたひたと響く。
シャワーを出してお湯が温まる間に、鏡台の前に座る。鏡の中の自分がピエロのように見えた。涙で化粧が崩れているのだ。
(酷い顔……)
これを藤堂に見られたのだと思うと消えてしまいたくなる。が、涙を拭ってくれた親指を思い出して、なんとか気を取り直す。
手元のコットンを取り、メイク落としを含ませる。目元からそっと拭うと、黒いラインがじわりと滲んでコットンに吸い込まれる。もう一度、もう一度。化粧水の匂いと、ほんのりアルコールの刺激。頬の紅が落ち、唇の色が薄れていく。ファンデーションが消えた肌の下から、男の顔が浮かび上がる。
その瞬間、息が詰まった。
鏡の中にいるのは、片桐サヤではなかった。
彼女のふりをしていた、自分だった。
指先が震える。
もう一度、鏡に触れる。
冷たい。
目の下の隈、ひげの剃り跡、充血した眼差し。
全部、自分だ。
「やめて」
誰に言うでもなく、声が漏れた。
中途半端に高い、男の作り声。
涙がまた一筋、頬を伝う。
ドレッサーの上には、使いかけのリップティント。深い赤色。彼女が好きだった色。それを握りしめたまま、後ずさるように体の軸が崩れた。その拍子に、ウィッグが床に落ちた。完全に、男の自分が露呈した。
俺は、絢瀬レイだ。
(なんで……なんでまだこんなことをしてるんだ)
目と鼻の奥が焼けるように痛い。シャワーの音が遠くで鳴っているのに、立ち上がることができない。照明の白が、やけに強く感じる。部屋の隅が滲んで見える。
視線を思い出す。近所の人、警備員、会社の人……そして、藤堂。
さっきまで確かにあった温もり――男の手のぬくもりが、もうどこにもない。現実だけが、冷たい。
「サヤは、もう帰ってこないのに……」
会いに行くこともできない。息が震えて、声が途切れる。
鏡の中の彼女が消えた。
残ったのは、ひとりの男。
誰でもない、ただの、自分。
それを受け入れることなど、できるはずがなかった。
◆
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。一筋の光が、香水瓶に当たって、そのガラスの色をステンドグラスのように広げていた。
窓の外では鳥が鳴いている。
一見、穏やかな朝。
けれど絢瀬は、目を開けるのが怖かった。
(……また今日が始まる)
ゆっくりとまぶたを開く。
視界の中に、見慣れた寝室が映る。
昨夜のままの鏡台、ドレッサーの上に並ぶ化粧品。
椅子の背には、脱いだワンピースがかかっていた。
しばらく、ただ天井を見つめる。
頭がぼんやりとして、考えが浮かばない。
────彼は?
その瞬間、胸が軽く跳ねた。
すぐに体を起こして、ベッド脇のスマホに手を伸ばす。ロック画面を見つめる。通知は、何もない。
けれど、その“何もない”という事実が、安心をもたらした。
(ああ、そうか。レイは出張に行ってるんだった)
自然にそう思った。
昨夜のこと──化粧を落とし、崩れ落ちた自分──その記憶がゆっくりと霧に包まれるように薄れていく。
代わりに、別の“記憶”が滑り込む。レイが出張に行く前の夜の、あのキス。自分の髪を撫でてくれた指。「いい子にしててな」とからかいつつ慈しむ声。全部、鮮明に思い出せる。────それがどんなに現実と矛盾していようとも。
絢瀬はふふっと笑った。
まるで何事もなかったかのように、ベッドを出る。鏡台の前に座り、それが当然の動作であるかのようにひげを剃り、ウィッグを被り、毛髪を梳く。ブラシの音が静かに響く。指先が自然に動き、ファンデーションを手に取る。アイラインを引き、リップティントを塗る。昨日の涙で荒れた肌を隠すように、丁寧に重ねる。目元の隈を消して、リップティントをもうひと塗り。
鏡の中に、彼女が戻ってきた。
穏やかな顔。柔らかな仕草。
完璧な姿。
壁際の棚の写真立てを見る。こちらに笑いかけている“自分たち”。
「おはよう、レイ」
自分の声が、他人のようにやさしく響いた。
それは祈りにも似ていた。
何もかも失ってしまった現実を覆い隠すための、一日のはじまりの呪文。
◇
昼休み、窓際のカウンター席に腰を下ろした藤堂は、紙コップのコーヒーをじっと見つめていた。外は冬の光が白く、街路樹の影が長く伸びている。
「おい藤堂、顔が死んでるぞ。何だ、女か?」
隣に座った同僚の原田が笑いながら肩を小突いた。
「どうだろうな」
藤堂はあいまいに笑って、マドラーでコーヒーをかき混ぜた。表面に小さな渦ができて、すぐに消えた。
「まじで? 珍しいな、お前がそれで悩むなんて」
「仕事の話だよ」
「仕事の、ねぇ。……待て、お前の仕事相手って……」
藤堂は目を伏せた。原田はすぐに察したらしい。
「まさか……絢瀬? あの絢瀬か?」
藤堂は答えない。原田が勝手に続けた。
「いやあの人、業界でも有名だぞ。天才肌っていうか、昔から名前出てたし。けどさ……噂、聞いたことあるだろ」
「噂は、噂だ」
「いや、ガチだったらしいぞ。婚約者に裏切られておかしくなったって話。本人が出張中にな。で、揉めて、慰謝料もガッポリ貰って。それで終わりかと思いきや────」
原田は声を潜めた。
「ストーカーになったんだろ。付きまとったり何十通もメール送ったり電話かけたり。そんで、相手が怖がって、接近禁止まで取ったとか」
藤堂は目を閉じた。コーヒーの香りが、やけに苦い。
「そうらしいな」
「で、そしたら、さらにあれだろ? そいつの真似して、ヅラまで被って、化粧して、服まで女みたいになってるって」
「似てるよ、たしかに」
「やっぱ見たんだ」
「……クライアントだからな」
原田は苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「まあ、俺なら関わりたくねえな。気の毒だけど、怖いよ。あれはもう、戻れねえだろ」
藤堂は答えなかった。窓の外、灰色の雲が低く垂れている。カップの底に残ったコーヒーが冷たくなっていく。
“戻れねえだろ”。
その言葉が、どこかでひっかかった。
────それでも、あの人は笑うとき、ほんの少しだけ昔の顔に戻る。
そのことを、誰も知らないだけだ。
藤堂はカップをゴミ箱に捨て、立ち上がった。昼休みのざわめきの中で、ひとり静かに息を吐く




