(2)
その夜、私たちは教会に忍び込んだ。
教会の警備は厳重だが、私には暗殺者時代の訓練がある。気配を消し、影に溶け込み、静かに移動する。
「文書庫は地下三階」
私は小声でエルヴィンに伝えた。
「警備は?」
「見張りが二人。魔術の結界もある」
「結界は解除できるか?」
「試してみる」
私たちは慎重に階段を降りていった。石造りの通路は、松明の明かりで薄暗く照らされている。
地下二階で、見張りの司祭とすれ違った。私たちは清掃員の格好をしており、彼は疑いもせずに通り過ぎた。
「ここだ」
地下三階の扉の前で、私は立ち止まった。扉には複雑な魔術陣が刻まれている。
「解除に、どれくらいかかる?」
「十分」
私は魔術陣を分析し始めた。これは多層防御の結界だ。一つずつ、慎重に解除していく必要がある。
魔力を繊細に制御し、結界の「鍵」を探る。魔力の流れを読み、逆算し、適切な場所に適切な量の魔力を流す。
五分後、最初の層が解除された。
十分後、すべての層が解除された。
「開いた」
私たちは文書庫に入った。
そこは、膨大な書類で埋め尽くされた空間だった。棚という棚に、古文書や帳簿が詰め込まれている。
「目的の書類は?」
「薬価設定の記録と、取引実績」
私は棚を見回した。どこかにあるはずだ。
「ここだ」
エルヴィンが一つの棚を指差した。『薬価会議議事録』と書かれた背表紙の本が、整然と並んでいる。
私たちは急いで必要な書類を探し出した。そして――
「これは――」
私は声を失った。
そこに記されていたのは、教会の薬価が「原価の十倍以上」で設定されていたという事実だった。製造コストはごくわずか。だが、販売価格は庶民にとって法外な金額になっている。
「信じられない――」
エルヴィンも青ざめている。
「これを公開すれば、教会は――」
「失墜するわ」
私は書類を鞄に詰め込んだ。
そのとき、奥の扉が目に入った。
「あれは?」
「封印庫、だと思う」
エルヴィンが答えた。
「最も重要な文書が保管される場所だ」
私は何かに引き寄せられるように、その扉に近づいた。
扉には、さらに強力な結界が張られている。魔力の層が、まるで薄い絹の布を何重にも重ねたように、繊細に編み込まれている。
だが――不思議なことに、私が近づくと、その層が微かに震えた。
まるで、長い眠りから目覚めようとしているかのように。
「レイ、どうした?」
エルヴィンの声が遠く聞こえる。
「わからない――ただ、この扉の向こうに、何かがある」
私は扉に手を触れた。
瞬間――世界が変わった。
結界が、私の魔力に反応した。それは拒絶ではなかった。むしろ、認識――まるで、長い間待ち続けていた誰かを、ようやく見つけたかのような、静かな歓迎だった。
魔力が、私の血管を通って流れる。首筋が、じんわりと温かくなる。
そして、結界が――溶けた。
氷が春の陽光に溶けるように、静かに、優しく、消えていく。
「なんだ、これは――」
エルヴィンの驚愕の声。
扉が、自然に開いた。まるで、招かれたように。
中は小さな部屋だった。石の冷たさと、古い空気の匂い。そして、中央に置かれた台座の上には――一冊の古い日記と、小さな遺品箱。
私の心臓が、激しく跳ねた。
理由はわからない。だが、この部屋にある何かが、私の深い部分に語りかけてくる。
足が、勝手に動いた。台座に近づき、日記に手を伸ばす。
表紙には、褪せた金文字で名前が書かれている。
「セラフィナ――」
その名前を口にした瞬間、世界が揺れた。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。懐かしさ? 悲しみ? それとも――
手が震える。呼吸が乱れる。
魔力が暴走しそうになるのを、必死で抑える。
深呼吸。吸って、吐いて。
心を落ち着け、私は日記を開いた。
古い羊皮紙。丁寧な筆跡。そして――
『王国歴1245年、春。私は今日、自分の運命を知った。聖女として、この国に仕えることを――』
これは、前聖女の日記だ。
私の手は、ページをめくり続けた。まるで、何かに導かれるように。
彼女の日々。治癒活動、民衆との交流、祈りと葛藤――。
そして――
『王国歴1248年、夏。私は、禁じられた恋をしてしまった。敵国の王弟、エリオット殿下。戦争の使節として訪れた彼は、優しく聡明で、私の心を――静かに、しかし確実に、奪った――』
文字が滲んでいる。涙の痕だろうか。
私の呼吸が、止まった。
次のページ――
『王国歴1249年、冬。私は身ごもった。エリオットの子を。だが、この国は決して許さないだろう。聖女は純潔でなければならない。そして、敵国との関係など――』
私の視界が、揺れた。
『もし、私に何かあったとき、この子だけは守ってほしい。名前は、リディアと決めた――春の野に咲く、小さな白い花のような、純粋で強い子に育ってほしいから――』
――リディア。
私の名前だ。
日記が、手から滑り落ちそうになった。エルヴィンが慌てて支えてくれる。
「レイ、大丈夫か?」
彼の声が遠い。
私の世界が、音を立てて崩れていく。
私は、前聖女セラフィナの娘。
そして、敵国の王弟エリオットの娘。
手が震える。全身が震える。
遺品箱を開けた。中には、小さなペンダントが入っていた。聖女の紋章が刻まれている。繊細な銀細工。月光のように優しい輝き。
ペンダントに触れた瞬間――
激痛が走った。
首筋が、焼けるように熱い。魔力が暴走し、体中を駆け巡る。
「これは――聖印!?」
エルヴィンの驚愕の声が、遠く聞こえる。
私の首筋に、何かが浮かび上がってくる。焼き付けられるような痛み。だが、それは外部からの攻撃ではない。内側から――私自身の魔力が、封印されていた何かを目覚めさせている。
そして――記憶が蘇った。
断片的な、幼い日の記憶。
森の中。寒さ。飢え。
母の温もり。母の声。
「――リディア――生きて――どんなことがあっても――生きて――」
震える声。泣いている声。
そして――母の背中が、遠ざかっていく。
追っ手の足音。松明の明かり。剣の音。
悲鳴――
私は床に膝をついた。
吐き気がする。頭が割れそうに痛い。
記憶が、洪水のように押し寄せてくる。
母が私を森に隠した日。彼女は自ら囮になり、追っ手を引きつけた。そして――
捕らえられ、殺された。
「レイ!」
エルヴィンが私を抱え上げた。
「逃げるぞ。もう、ここにいられない」
彼は私を背負い、文書庫を後にした。
だが、私の心は――もう、元の場所には戻れなかった。
私は――聖女の娘。
そして、この国に殺された女性の、遺児。