ドゥーベ
僕には、生まれつき父親がいなかった。母は僕が八歳のときに事故で亡くなった。父の顔を見たこともない。写真すら残っていなかった。僕の顔は母に似ていたから、父の顔は想像することもできなかった。母が亡くなってからは、母方の祖父母に預けられた。今思えば、父方の家族に引き取られなかったのは少し不自然にも感じる。
ずっと育ててくれた母が亡くなった時は二日間泣き続けた。けれど、子どもにはその悲しみさえ、長くは続かなかった。刺激的な日々に紛れて、いつの間にか心は切り替わっていた。母を十分に追悼できなかった自分に苛立つこともあるが、母はきっと、僕が立ち止まることより、前に進むことを望んでいると思うようにしている。
学校生活は、案外すんなりと続けられた。僕の「一般的じゃない」人生をバカにする人は、思ったほど多くなかった。むしろ興味を持ってくれる人が多く、そのまま仲良くなることが殆どだった。勝手ながら、それは僕の才能のおかげだと思っている。とはいえ、大親友と呼べるような存在もいなかった。放課後は、コンビニで新作の駄菓子やアイスといったジャンクフードを買い食いするのが日課だった。
祖父母はとても優しく、僕を何不自由なく育ててくれた。裕福とは言えないが、貧しさを感じたこともない。祖父は定年退職後、家庭菜園に勤しみ、毎朝庭で野菜の世話をしている。祖母は傘寿を迎えたとは思えないほど、現代技術に明るい。スマホもパソコンも器用に使いこなし、詐欺に引っかかる心配なんて以ての外だ。
そんな穏やかな日々を、僕は過ごしていた。
学校から帰ってきた、ある金曜日のことだった。
「おい、悠月。手紙が来てるぞ。」
祖父はよく、僕と従兄弟の名前を間違える。そう言った時は、僕は揶揄う様にわざと無視をする。
「悠月じゃないよ、颯太だよ。手紙にも名前、ちゃんと書いてあるでしょ。」
祖母がすかさず訂正した。
「ああ、そうだったな。」
「それにしても、何の手紙だろうね? もう二年生なんだし、塾の案内とかかもね。」
祖母はいつも頭の回転が速い。
「まあ、後で開けるよ。」
僕は怠惰な性格なので、面倒なことは全て後回し。そのまま自分の部屋に戻って、いつも通りコンビニへ行こうかと考えた。が、ふと手紙に違和感を感じた。封筒に書かれていた僕の名前が英語だった。普段なら気にも留めないようなことだったが、今回は妙に気になった。怠惰な僕でも、流石に中身が気になった。
封を開けると、中には紙が一枚だけ。そこには、時間と住所しか書かれていなかった。
「時間と住所だけって、不親切すぎるだろ。」
とりあえずスマホで住所を調べてみた。どうやら、そこには古本屋のような店があるらしい。指定された時間は、明日の正午。
僕は直感で誰かに相談してはいけないことに感じた。丁度予定もないし、僕は一人でそこに行ってみることにした。
翌朝、僕は支度をした。とはいっても、祖母が作ってくれた朝ごはんのお茶漬けを食べて着替えただけだ。
「今日は、どこか行くのかい?」
突然、祖母がそう声をかけてきた。
「なんで?」
何か気づかれたかと思い、つい聞き返してしまった。
「なんだか、久しぶりに活き活きしてない?」
祖母の勘の鋭さには、いつも驚かされる。たしかに僕は、内心、少しワクワクしていた。
「友達と遊びに行ってくる。」
咄嗟に誤魔化した。
「あら、そう。いいじゃないの。いってらっしゃい。」
祖母はにこやかに送り出してくれた。僕は玄関を出て、例の古本屋へ向かった。歩きながら、ふと誰かに見られているような気がして、何度か振り返る。実際、誰の姿もなかったが、それでも妙な気配を感じていた。単に僕が神経質になっていただけかもしれない。
指定された場所は、郊外にある古びた書店だった。特に目立つわけでもなく、店内には少し黄ばんだ本がずらりと並んでいる。中に入ると、奥のカウンターに座っていた老人がこちらをじっと見つめている。僕がその老人の前まで歩いていくと、老人は低く、静かな声で尋ねた。
「何か探し物かね?」
僕は少し躊躇いながらも、手紙を差し出す。それに一目通した老人は、何も言わずに立ち上がり、店の奥へと向かった。そして、その扉を開けると、地下へと続く階段が現れた。
思わず息を呑む。だが、不思議と怖さよりも好奇心が勝っていた。
「降りろ。」
そう促され、僕はゆっくりと階段を降りていった。
降ると、そこには広い地下通路が広がっていた。
無機質なコンクリートの壁に、薄暗い照明が等間隔で埋め込まれている。
「いや、怪しすぎでしょ。」
思わず独り言が漏れる。それでも足は止まらなかった。
ここで死んでも、誰にも気づかれないかもしれない。そんな不気味さが、この場所にはある。
しばらく進むと、頑丈そうな金属の扉が現れた。無駄な装飾は一切なく、ただ鋼鉄の重厚な質感だけが、圧倒的な存在感を放っていた。
そして、その扉の前には、一人の女性が立っていた。
「藤原颯太君だよね。」
落ち着いた声。女性はそう言うと、扉の方を向いた。端正な顔立ち。肩まで伸びた黒髪。年齢は二十代半ばくらいだろうか。無駄のない動きが、どこか玄人の様な空気を漂わせていた。
「宮本葵よ。」
彼女は簡潔に名乗ると、脇にあるパネルに指をかざした。高い電子音が鳴り、扉が自動ドアのように静かに開いていく。その先に広がっていたのは、広々とした部屋だった。天井は比較的高く、壁際には大型のモニターがひとつ、その下に端末の様な物が整然と並んでいる。中央には長い会議用テーブル。その周囲には、個性豊かな人物が3人ほど、思い思いの姿勢で座っていた。一人は椅子を二つ並べて寝そべり、一人は椅子に逆向きに座っている。
そして、意外なことにバーのようなカウンターテーブルもあり、そこには酒瓶がずらりと並んでいた。コーラもある。なんだか妙に安心した。
無機質で近未来的な空間。だが、ただの会議室とは違う。ここに集まる人々は、明らかに「普通」ではない雰囲気を持っていた。と同時に、どこか温かさもあった。
もっとヤクザみたいな集団を想像してた。拍子抜けするような、でも少し安心するような、不思議な気分だった。そう呑気に部屋を観察していると、バーカウンターに座っていた一人の男性が、こちらへ視線を向ける。
「颯太君だよね?」
男性が僕に尋ねてきた。ここで正直に「はいそうです」、と答えるべきなのか少し迷った。
「そうだよ。指定した時間に来たし。」
さっきの女性、宮本葵が代わりに答えてくれた。
「もしかしたらそうじゃないかも知れないだろ?もし違ってたらどうするんだよ。」
男性が言う。
「じゃあ、この子がそうじゃなくても、『そうです』って言ったら、あなたは信じるわけ?」
宮本さんが反論すると、僕の前で軽い口論が起きた。その様子に、僕は戸惑いながらもただ黙って見守る。
「ごめん、颯太君。何か身分証、持ってたら見せてくれない?できれば顔つきのやつでお願いしたいんだけど。」
その男性の言葉に、僕は少し驚いた。
「いや、急に知らない地下室に連れていかれて、顔つきの身分証明書見せろって言われても、怪しすぎて見せるわけないでしょ。」
宮本さんが、僕が思っていることをそのまま言ってくれた。全く、その通りだ。だが、今ここで抗っても無駄だと感じた。僕一人では、この場所にいる全員を相手にできるわけがない。潔く、言われるままに動くしかない。無言で、財布の中からマイナンバーカードを取り出した。
「意外と素直だな。」
男性はそう言って受け取り、何かに思いを巡らせていた。
「にしても、君、全然お父さんに似てないね。」
その一言に、僕は驚愕した。父の話なんて、生涯聞くことも、話すこともないと思っていた。
「僕の父のことですか?」
一応確認した。
「ん?もちろん君の父だよ。それ以外に誰が君に似るってんだよ。」
男性が自信たっぷりに答えた。どうやら、この人達は僕の父について知っているらしい。
「なんで、僕の父を知ってるんですか?」
思わず尋ねる。
「君の父は元アルカイドだからね。」
その言葉を聞き、僕の頭は完全に混乱した。アルカイドなどと言われても、全く訳が分からない。ふと、手紙に「ポラリス」と書いてあったことを思い出した。きっと何かの組織だろう。だが、なぜその組織に、僕の父が関わってるのか。
ますます訳が分からなくなってきた。
「ごめんね、色々と急でよく分からないよね。安心して、一個ずつ説明するよ。せっかく俺達に君の情報をくれたんだ、ここはフェアにいこう。」
見透かしたように男性が言ってきた。
「まず、俺らはポラリスっていう世界中で活動する1000人ちょいの集団なんだ。んでどういう集団かというと、他の政治団体とかよりもずっと権力を持つ民間集団って感じ。だから政府関係者は一人もいない。」
半ば信じ難い話だった。そんな集団がこの世界に本当に存在するのかと、疑念が浮かんでいた。
「はは、まあ信じられないよな。信じなくても構わない。君には知る権利はあるけど、義務はないから。」
正直、信じられなかった。が、一旦信じないと話が進まないので、頭の中で「そういうものだ」と無理やり納得して話を聞いた。
「世の中には、法で裁けない悪人がいっぱいいるんだ。まあ、日本はそういう人比較的少ないけど。んで、そいつらを裁くのが俺達の仕事。手段は問わない。手段は問わないからこそ、選ばれた人しかなれない。秘密の集団なんだよね、そんな話を世間が知ったら、皆が不平等だって騒ぐだろ?んで、その集団のトップ7人が、北斗七星って呼ばれる。だっせえよな。でも俺らはもう慣れた。で、俺はそのうちのメグレズ。」
僕は黙って聞いている。少しだけ、違和感を感じる部分もあったが、彼の話は現実味があった。
「北斗七星のメンバーの中には攻撃的な奴もいる。でも俺は、そういう争いだとか喧嘩だとかが嫌いなんだよね。大嫌い。だから、俺は会話で物事を解決したいと思ってる。とても日本人らしいだろ?まぁ、そう簡単にはいかないケースが大体だけどね。」
信じ難いと思っていたけれど、何故か彼の話はどこか腑に落ちてしまった。
「どう、少しは信じてくれたかな?」
「一先ず信用はしましたけど、さすがに急すぎて、まだ納得は難しいです。」
「まあ、そうだよな。そこで、急で悪いが君をここに呼んだ理由は他でもない、この組織に加わってほしいんだ。もちろん、今すぐとは言わない。まあいつか、考えがまとまったらでいいよ。」
僕は素直にその提案を受け入れることにした。
「わかりました。」
「ありがとう。君なりの考えが固まったら、またここにおいで。いつでも待ってるよ。」
「はい。」
僕はそのまま出口に向おうとした。
「あ、そうだ、君の情報は絶対に漏らさないし、何をしても危害を加えることはないけど、うちの情報も絶対に漏らさないでね。その時は、まあ察してよ。そんなのお互い、望んでることじゃないでしょ?」
急に怖いことを言われて、少し怯えた。でも、確かにその通りに思えた。
「わかりました。では。」
「そういえば、俺の名前を教えてなかったね。星野凛。できれば下の名前で呼んでほしいけど、まぁ、好きに呼んで。」
僕は小さく頷きながら、帰ろうとした。
「私が外まで案内します。」
「いいよ、行かなくて。子供じゃないんだから。」
宮本さんに対して、星野さんが軽く返す。宮本さんは星野さんを軽く睨んでから、僕に優しい声で言った。
「待ってるからね。」
僕は軽く頷いてから、その場を後にした。
ドアが閉まると、ミヤが話し始めた。
「本当に大丈夫なの?まだ中学生の子供だよ?」
「ミヤは心配性だな。藤原のガキだぞ。なんとかなるよ。それに何より俺がいる。」
「あなたいつもそんなんだよね。ほんと呆れるわ。」
「まあ俺だし。」
「まあだからこそ安心できるんだけどね。」
「だといいけど。」
僕は家に帰り、そのまま自室に向かう途中で、祖母に声をかけられた。
「随分早いわね。本当に行ったの?」
「行ったよ、行きました。別に早くないよ、普通だよ。」
「あ、そう。」
そっけない返事が返ってきた。そのやり取りに、少し日常を感じてほっとした。その日は、普段通りに残りの時間を過ごした。
翌朝もいつも通りの時間に目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む朝の光、廊下の向こうから聞こえる祖母の足音。何も変わらない朝のはずなのに、妙に静かに感じた。食卓には温かい味噌汁と焼き魚が並んでいた。祖父が新聞を広げ、祖母が湯呑みを手にしている。いつも通りの光景。
「颯太、ちゃんと食べなさいよ。」
祖母の声に頷きながら、箸を動かす。
昨日のことを思い出す。ポラリスの空気、あの場にいた人達。ほんの数十分だったのに、家に帰ってくると、全てが随分前の出来事のように感じた。
またその次の日、学校へ向かう途中、道の両側に並ぶ家々や電柱、すれ違う人々を眺める。でも、どこか景色がぼやけて見える気がする。昨日までと何も変わらないはずなのに、何故か少し違和感を感じた。教室に入ると、いつもの友人達が他愛のない話をしていた。「昨日さ、ゲームの新作出たの知ってる?」そんな会話が飛び交い、クラスはいつも通りのざわめきに包まれている。
「颯太、おはよう。」
クラスメイトの秋本栞に声をかけられ、反射的に「おはよう」と返す。でも、何か言葉がうまく馴染まない。昨日まで当たり前だったこの空気が、ほんの少しだけ遠く感じる。授業が始まる。ノートに文字を書き込む手が止まりそうになる。黒板の文字を追っているはずなのに、心は別の場所にある気がした。時計の針がゆっくりと進むのを眺めていた。あの場の空気がどこか心に残り続けていた。目の前で誰かが笑う。その声を聞きながら、自分も笑顔を作る。でも、心の奥には、何かぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
そしてまた次の日には、同じような日常が続いた。あの日以来、常に違和感と隣り合わせ。そのままちょうど1週間が過ぎた。
「このままでいいのかな。自分にできることあんのかな。」
そう思いながら、心の中で突っかかっていた思いに一つの答えが出た。そもそもこの案内が僕に来たには、何か理由があるはずだ。関係があるとしたら、それは僕の父だ。それ以外に考えられない。父は僕に何か伝えたかったのだろうか。僕はそれを知りたいと思った。
そして、僕はまた来た土曜の朝、あの古本屋に向かった。
この先、何が自分に起こるのだろうか、そんなことを考えていたら、目的地に到着した。前に案内してくれた老人が、相変わらず同じ場所に座って煙草を吸っているのが見えた。
「久しぶりだね。何か用かい?」
「気持ちが定まったらまた来いと言われたので」
「そうか、じゃあ、気持ちは定まったんだな。」
僕は静かに頷いた。
「さあさあ、入った入った。」
一歩踏み入れると、前と同じように階段が続いており、コンクリートの壁が無機質に並んでいた。通路の先に進むと、宮本さんが待っていた。
「なんで僕が来るときにいつも外で待ってるんですか?」
「気になる?気になるよね。」
少し楽しそうに言ってから、ドアを開けようとする。
「君が来ると思ったからだよ。なんてね、冗談。」
宮本さんが揶揄うように言う。
「玄関のおじちゃんはもうちの人だから。あの人に教えてもらってるの。」
ドアが開いた。中に入ると、星野さんの姿は見当たらない。
「凛なら今、仕事行ってるよ。多分、そろそろ帰ってくる。」
急に来たからといって、必ずしも彼がいるわけではない。来るまでの時間をどう過ごそうか迷っていると、宮本さんがふと話しかけてきた。
「結局、どうすることにしたの?」
僕は少し黙ったまま、宮本さんの顔を見た。心の中で答えを出すまで、時間がかかった。これまでの自分の生活があまりにも普通すぎて、今のこの状況が非現実的に思えて仕方がなかった。だけど、あの手紙を受け取った時から、何かが変わり始めたような気がしている。
「まだ、決めかねてるけど、、、」
言葉を選びながら答える。
「でも、父が関わっていたっていうのは気になります。何かしら、僕にも伝えたかったことがあるんじゃないかと思うんです。」
宮本さんは静かに僕の言葉を聞いて、しばらくしてから、少し柔らかい表情で頷いた。
「そうだね。君の父親が関わっていたのは確かだよ。それに、君がここに来た理由も、それに関係してる。だけど、これから君がどうするかは君の自由だ。私達が強制するわけじゃない。君が自分の意思で答えを出さなきゃ。」
その言葉は、どこか安心感を与えてくれるようだった。自分がまだ迷っていることを認めるのは少し恥ずかしかったけど、今の自分にはそれが必要だった。
「もし、入ることを決めたなら、君にしてもらうことがある。」
宮本さんが真剣な顔で言った。
「でもまあ、焦らなくても大丈夫。君が納得できるまで、ゆっくり考えていいよ。」
その時、奥のドアが開き、星野凛が部屋に戻ってきた。普段より少し疲れたような表情をしているが、僕を見るとすぐに微笑んだ。
「お帰り、凛。」
宮本さんが軽く挨拶をすると、星野さんは軽く笑いながらソファに腰掛けた。
「お疲れ様。さあ、颯太君、話を続けよう。」
星野さんは、僕に向かって優しく言った。僕は少し緊張しながらも、彼の言葉に耳を傾ける。
「さっき、ミヤが言ったように、君には選ぶ権利がある。そこで少し君の父親の話をしよう。君の父親がどんな存在だったのか知りたいだろ。」
彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君の父親は、僕達にとって非常に大きな存在だった。今の日本のポラリスの基盤を作った人物でもある。その分、謎も多い。俺達ですら、彼のことを完全には理解できてないんだ。」
その言葉に、僕は驚きとともに、さらに強い興味を抱いた。父がどんな人物だったのか、その知られざる一面を知りたくなった。
「君も彼の希望を受け継ぐことになるだろう。もちろん、君が望むのであればだが。」
星野さんは少しだけ表情を引き締め、言葉を続けた。その言葉は、僕の心に深く響いた。父が残したものが、どんな意味を持つのか。それがまだはっきりとはわからなかったが、今はその答えを知りたいという気持ちが強くなっていた。
「分かりました。」
僕は深く息を吸ってから、決意を固めた。
「もっと知りたい。父が関わっていたことについて。もう少し、話を聞かせてください。」
星野さんと宮本さんはお互いに一瞬目を合わせ、星野さんは静かに頷いた。
「じゃあ、入るってことでいいのね?」
星野さんは少し笑みを浮かべながら、そう言った。
「よろしくお願いします。」
それが僕の決意だった。
「じゃあ、早速ついてきな。良い経験になると思うよ。」
「凛、流石に速すぎるよ。」
宮本さんが口を挟んだ。
「大丈夫大丈夫、任せろって。」
星野さんは自信に満ちた表情で答えた。
「はぁ、ほんとに呆れたわね。」
宮本さんは軽くため息をつきながら言った。そして、僕に向けて手を差し出し、何かを渡す。
「颯太君、これ持っておきな。」
宮本さんから手渡されたのは、金属製のライターだった。
「僕、たばことか吸わないんですけど、、、」
「まあ御守りみたいなものだよ。」
宮本さんは愛想笑いのような笑みを浮かべて僕たちを送った。
「行くぞ。」
星野さんの一言で、僕はそのまま彼についていった。車に乗り込んで、目的地に向かう道中、心の中で様々な思いが駆け巡る。今から向かう場所がどんなところなのか、少しだけ怖さも感じながら、ただ黙って座っていた。車がゆっくりと走り、着いた先には廃ビルが並んだ薄暗い地区だった。周囲には殆ど人影もなく、静寂だけが支配している。
「そこだよ、あの二階に事務所があるだろ。」
星野さんが指差す先には、周囲の建物に比べて、ひときわ明かりが灯っているビルが見えた。どこか不気味で、入りたくないような気がしたが、僕は星野さんについてった。
「ついておいで。」
そう言って、星野さんは先にビルの中に足を踏み入れた。僕はその後を追うしかなかった。
階段を上がると、事務所の入り口が目の前に現れた。星野さんは少し立ち止まり、深く息を吸い込んでから、僕に向かって一言だけ言った。
「見てて。」
そして、彼はドアを開けて中に入った。中にいる人達の目が一斉に彼に注がれた瞬間、星野さんは静かに口を開いた。
「メグレズだ。久しぶりだな、久我。元気してそうで何よりだよ。」
その一言で、周りの空気がピンと張り詰めるのがわかった。たった一言で、その場にいる全員が動きを止め、警戒を解いた。その威圧感、そしてメグレズという名前の持つ力に、改めてこの世界の秩序が感じられた。
「ディッパー様がうちに何か用か。」
中央の椅子に座った男が、冷たい視線を向けながら尋ねた。どうやら、この男がここでのリーダーらしい。長年この業界で生きてきたような雰囲気を持っていて、その目は鋭かった。
「少し話がしたい。」
星野さんが冷静に言った言葉が、部屋の中に響いた。全員がその一言を待っているようだった。
「話を聞く前に確認しておく。これは『ポラリス』としての話か?」
「そうだ。メグレズとして、正式な立場で話してる。」
座っていた男性は眉をひそめ、椅子の背もたれにゆったりと身体を預けた。星野さんは一歩前に出て、静かに言葉を紡いだ。
「久我、お前の命を狙っている組織がある。ここ数ヶ月、裏で不穏な動きがあった。俺達もずっと調査してたが、どうやら標的はお前だ。」
「俺か。」
その場の空気が一気に張り詰めた。周囲の構成員達も、一瞬息を呑むように動きを止めた。
「根拠はあるのか?」
久我さんの声が低くなる。その態度には冷静さがあった。
「ある。内部情報までは掴み切れていないが、武装と資金力を持つ少数精鋭の集団だ。お前の組織を内部から崩そうとしてる。そうなる前に、俺達と手を組め。」
「なるほどな。脅して、協力を取りつけようってわけか。」
久我さんは冷静に、冗談半分の様な話しぶりだ。
「俺がそんな真似をするような奴だと思うか?俺は守ると言ってるだろ。別に代わりに何かを要求してるわけではないぞ。まあ、強いていうなら君達とは仲の良い関係を築きたい。そんだけだよ。」
彼らの会話は終始冷静だった。焦りも威圧もない。ただ事実を述べているだけなのに、言葉に妙な重みがあった。久我さんはしばらく沈黙してから、ため息をついた。
「君らの情報がどこまで信用できるか、今のところ判断よね、正直。」
「まあだろうね、だから直接話をしようと思ってる。場所を変えて、少し静かなところで。」
「場所を変える?まさかこのガキも連れてくるつもりか?」
久我さんが僕の方をちらりと見た。
「もちろん。こいつは俺の後任候補だ。少しずつ見せていくつもりだ。」
後任候補という言葉に少し驚いた。きっと冗談だろう、星野さんはそういう性格だ。久我さんは目を細めたまま、しばらく星野さんを見つめていたが、やがて肩をすくめるように立ち上がった。
「まぁいい。少しくらいなら付き合ってやる。話の続きを聞こう。」
簡単に信じてくれたことに強い違和感を覚えながらも、久我さんの素直な態度に驚いた。
「お、案外素直なんだな。んじゃまあ、ついてきてくれ。」
星野さんは軽く笑って、その事務所を後にした。僕も後を追うように続き、久我さんも無言のままついてきた。
そして、車での移動中。車内は少しだけ静まり返っていたが、星野さんが時折助手席から振り返って軽く話題を投げる。それに久我さんが時折ぶっきらぼうに返す。星野さんは会話のつもりのようだが、久我さんはまるで牽制のような話しぶりだった。
やがて車は、路地裏の一角にある落ち着いた雰囲気のバーの前で停まった。控えめなネオンが灯る看板。重厚な木製の扉。
「ここ、俺の行きつけ。静かで話しやすいんだよね。」
「洒落たとこ選ぶな。」
「俺も酒くらい飲むよ。何せ疲れる仕事だからね。」
扉を開けると、店内はクラシックなジャズが静かに流れていた。落ち着いた照明に、年季の入ったバーカウンター。カウンターの奥では、マスターらしき男性が軽く会釈した。
「いらっしゃい。お連れ様かい、珍しいね。」
「いつもの。あと二人分もね。」
「あ、僕は、」
「君は未成年だよね。何がいい?ソフドリなら大体何でもあるよ。」
マスターが僕に直接聞いてきた。
こういうところに来るのは滅多になかった。戸惑っていると、星野さんが言った。
「こいつはトニックでいいよ。」
「それってお酒入ってますか?」
僕は流石にお酒を飲むほどのワルになりたい訳じゃない。
「入ってないですよ。飲んだことないなら一度飲んでみますか?」
バーテンダーの人が言ってきたので小さく頷いた。
3人は奥のソファ席に腰を下ろした。グラスに琥珀色の液体が注がれ、静かに置かれる。
「なんだこれ。」
久我さんは戸惑いながら言った。そこには僕も見たことがないようなお酒が置かれていた。グラスの上にはレモンスライスと白い塊がおかれていた。
「二コラシカ。口の中で作るカクテルだよ。お洒落でしょ?」
この世は僕がまだ知らないことばかりだ。
「じゃ、乾杯ってことで。」
「何に?」
久我さんが眉を上げる。
「まあ、色々。」
星野さんはいつも軽口ばかりだ。
「俺はまだ協力するとは言ってねえよ。まあいい、グダグダするのもあれだ。早く話してくれ。」
グラスが軽くぶつかる音が響く。乾いた音とは裏腹に、どこか重たい空気が場に漂っていた。
星野はグラスを一口傾けたあと、静かに口を開いた。
「俺達が協力したいって言ってるのはな、別に力を貸してほしいからじゃない。俺は争いが嫌いなんだ。争いが起きてからじゃ遅い。だから、その前に無駄な抗争は避けておきたい。」
久我さんは無言で星野を見つめる。その視線に星野は微かに笑みを浮かべる。
「つまり、お前は平和主義者ってことか?」
「そう思ってくれても構わないよ。ただ、それだけじゃない。」
「じゃあ何だ?」
「俺は、ある人の願いを叶えたい。そいつが生きてた頃に、ずっと言ってた言葉があるんだ。」
星野はグラスを置き、真剣な眼差しで久我さんを見る。
「みんなが幸せであってほしい。ただそれだけだよ。」
「随分と漠然とした願いだな。」
「そうだな。でも、そいつにとって幸せってのは、誰かを傷つけなきゃ生きていけない人間達を、そんな生き方から救うことだった。暴力に頼らない道をつくることだった。俺は、その想いを継いでる。」
久我さんは少しだけ目を細めた。何かを思い返しているような表情だった。
「その「ある人」って、誰なんだ?」
星野は一瞬黙った後、静かに言った。
「前アルカイド。」
その名が出た瞬間、久我さんの表情が一変した。
「なに?」
「そして」
星野は隣に座る僕へ視線を向ける。
「こいつは前アルカイドの息子だ。」
グラスを持っていた久我さんの手がわずかに揺れる。
「は?こいつが?」
久我さんは僕を改めてじっと見つめた。その視線には驚きと困惑、そしてどこか懐かしさのようなものが混じっていた。
「マジか、、、」
「俺も最初は信じられなかったよ。でも、確かにアルカイドの血を継いでる。あいつの目をしてる。」
久我さんはもう一度、ゆっくりとグラスを置いた。そして深く、長いため息をついた。
「お前、よくこんな大物をここまで連れてきたな。」
「こいつ本人の意志だよ。俺達はただ背中を押しただけだ。」
久我は一口、グラスの中身を口に運ぶと、しばらく黙ったまま視線をグラスの底に落とした。
「アルカイドの話、確かに聞いたことはある。だが、詳しくは知らん。周りが凄い奴がいたって噂する程度だ。」
彼の口調はあくまで淡々としていたが、どこか言葉を選んでいるようにも感じた。
「ただ、一度だけ遠くから見たことがある。まだ俺が今の立場につく前、別の任務で現場にいた時だ。あいつは誰とも違う空気を纏ってた。静かなんだけど、妙に目を引く。何をしたのかは知らんが、部屋にいた連中が一気に黙ったんだ。まるで時間が止まったみたいに。」
久我は言葉を切ると、グラスの中身を見つめながら小さく息をついた。
「その時、あれが『本物』ってやつなんだろうなと思ったよ。」
「だからこそ、信じられんってのもある。そもそもアルカイドに息子がいることも、そのアルカイドの息子が、こんなふうに目の前にいることも。俺はまだ、お前らの話をすべて鵜呑みにしてるわけじゃない。でも話を聞く価値くらいはあると思ってる。」
星野は頷きながら久我さんの話を聞いていた。
「ならまず、君達の中で共有しておいてよ。これからどうするべきかってことを。俺達は敵じゃない。争う必要なんて、本来ないんだ。どちらかが手を出せば、それだけで誰かが犠牲になる。そういうのを、宙は一番嫌ってた。だから、俺はそれを止めたい。」
久我さんは目を細めた。
「部下達に話してみる。すぐどうこうとはいかねぇが、最低限の理解はさせるつもりだ。」
「ありがとう、それだけでも十分だ。」
「ただ一つ言っておく。俺は、信頼には慎重な人間だ。アルカイドの息子だろうが、結局は行動で示すしかない。」
「当然。だからこそ、俺達も覚悟を持って動く。」
静かに交わされた言葉の中に、確かな始まりの気配があった。
「んじゃ、俺は先に帰るぞ。」
久我さんが椅子から立ち上がった。星野さんは軽く頷いた。
「考える時間はまだある。焦らず、でも忘れんなよ?まあ、考えが固まったらここに連絡してくれ。」
「わかった。」
久我さんはそう言って、店のドアを開けて出ていった。扉が閉まる音が響くと、店内はふたたび穏やかな空気に戻る。
僕も少し背中を伸ばして息をつく。気づけばグラスの中の氷は殆ど溶けていた。
「ふぅー、まあ、あれでも一応はリーダーだしね。あれでも頑張ってる方だよ、彼なりにはね。」
星野さんが冗談めかして笑う。僕はぎこちなく笑い、グラスを口元へ運ぶ。
「でも、ああいう場面で一番効果あるのはね」
星野さんが少し悪戯っぽくこちらを見た。
「アルカイドの息子ですって一言、あれ、使えるよ?みんな言うこと聞くぞ?」
「いや、それはちょっと」
思わず苦笑してしまう。そんな名前だけで周りの態度が変わるなんて、あまりにも実感が湧かない。
「冗談半分、本気半分ってとこかな。でも実際、影響力はあるよ。君の父さんの名前は、それだけ重みがあるってこと。」
「なんか、まだ自分には似合わない感じがします。」
「それでいいんだよ。君がその名前に呑まれる必要はない。けど、時には旗印が必要な場面もあるからさ。覚えておいて損はないよ。今日の俺を見て分かったでしょ。」
星野さんはそう言って、またグラスを傾けた。
「さて、そろそろ帰ろうか。今日はよく頑張ったね。」
僕は小さく頷いた。確かに、少しだけ前に進んだ気がしていた。
外の空気はひんやりとしていた。街は静まり返っていた。
僕と星野さんは並んで歩き、駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。
エンジンがかかると、ダッシュボードのランプが静かに灯る。星野さんは片手でハンドルを回し、車を滑らせるように路地へ出た。しばらく無言のまま夜の道を走っていた。街灯の明かりが、時折フロントガラスをかすめて過ぎていく。
「星野さん、」
「ん?」
助手席の僕は、ふと浮かんだ言葉を口にした。
「さっき、こいつは俺の後任候補だとか言って、あれ、本気なんですか?」
星野さんは笑った。少し肩を揺らすようにして、前を見たまま答えた。
「あー、あれか。あれはまあ、冗談半分、本気半分。」
「またそれ。」
「でも、そういうのって大体そうなんだよ。冗談っぽく言っといた方が、身構えなくて済む。まあ、でも本気で考えてるのは事実だよ。」
「僕じゃ、何もできませんよ。」
「そう思うなら、やれるようになればいい。誰だって最初は何もできないから始まる。いや、そうでもないか。案外才能が8割だったりするのかな。」
その口調は、いつもの軽さに少しだけ優しさが混じっていた。
「まあでも、君はアルカイドの息子だ。もちろん、それだけじゃ何の価値もない。でも俺の目には、ちゃんと君自身に伸びしろがあるように見えてるよ。」
「そんな風に言われると、ちょっとだけプレッシャーですね。」
「それが狙い。」
星野さんがニヤッと笑った。
「でもさ、たぶん君の父さんなら、もっと無茶なことを言ってたと思うよ。颯太なら全部やれるくらいはね。」
「そんなこと、本当に言うんですかね?」
「さあ?言ってたかもしれないし、言ってなかったかもしれない。でも、俺の記憶の中のあの人なら、そう言っててもおかしくはないね。」
窓の外を流れる街並みを見ながら、僕は黙った。父の姿はやっぱりまだ遠い。でも、少しずつ見えてきている気がした。
「ま、とにかく焦らなくていい。でも、止まるなよ。後任候補なんだからさ。」
その言葉は、車内にふっと優しい熱を残した。やがて車は僕の家の近くへ差し掛かる。星野さんはブレーキを踏みながら言った。
「送ってきたついでに、次の予定の相談もしたいんだけど、」
「明日も来ますよ。暇なんで。」
僕はドアを開け、夜の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「んじゃまた明日ね、アルカイドジュニア。」
「その呼び方やめてください。」
笑いながら手を振る星野さんの車が、夜の道に溶けていった。
家に帰ると、玄関の灯りがほんのりと僕を迎えた。
入ると、静かな室内に広がるいつもの匂い。祖父母がいることを感じさせる、懐かしい温もり。
「お帰り、颯太。」
祖母が台所から顔を出し、温かな笑顔で迎えてくれた。
「おう、お帰り。遅くなったな。」
その声に答えると、祖父は新聞を広げたまま、ちょっとだけ顔を上げて言った。
「うん、ちょっと遅くなっただけだから。」
僕は軽く答えて、靴を脱ぎながらカバンをソファの上に放り投げた。
「今日はどうだった?」
祖母がテーブルを拭きながら、ちらっと僕を見た。
「どうって普通だよ。いつも通り。」
「そっか。忙しいのかい?」
祖父が新聞をめくりながら、ぼそりと聞いてきた。
「そりゃ学生だしね。」
その問いに、わざと軽く答えた。でも、なんとなく胸の奥で何かがざわつく。それは、今日あった出来事のせいだろうか。星野さんとの話、久我さんとのやり取り、そして僕がこれから進んでいくべき道。どれも今までの自分にはなかったものだ。まるで、少しずつ僕の周りの景色が変わっていくような感覚があった。
色んな考えが頭をめぐっていた。あのバーでの会話。星野さんが言っていた「後任候補」という言葉。そして、僕の父のこと。自分がいまどこに立っているのか、何をすべきなのかその答えがまだ見えないまま、次の一歩を踏み出さなければならない気がしていた。
「じゃあ、今日はお休み。」
祖母が声をかけてきたので、僕は軽く頷いた。
「うん、ありがとう。」
僕は自分の部屋に向かう途中、ふと立ち止まった。
テレビの音が遠くに聞こえている中、家の中は静かだった。祖父母がいる、この普通の夜の空気に、ほんの少しだけ違和感を感じた。でも、それが僕の人生の中で一番安らげる時間でもあるのだと、すぐに気づく。それでも、目の前の現実に向き合うために、僕は明日また一歩踏み出さなければならない。
部屋に戻ると、ベッドに横になりながら、天井を見つめた。
今日のことを思い返すと、胸の奥に重たい感情が渦巻く。
「俺、どうしていけばいいんだろう。」
そう呟きながら、目を閉じた。
明日がどんな日になるのか、まだ分からないけれど、確かにひとつ、強く思ったことがあった。
父についてもっと知りたいというその思いは、もっと深く知りたい、理解したいという気持ちに変わっていった。
目を閉じると、少しだけ安心した気持ちとともに、深い眠りに落ちていった。